完璧な彼女(仮)【3】
前回と前々回はこちらから。
僕たちの奇妙な同棲生活が始まった。いや、同棲が再開したと言う方が正しいのかも知れない。無論、僕にその記憶はないのだけれど。
「アソウ カズミ。名前も思い出せてないみたいだから、改めて自己紹介しておきます。もう忘れないでよね」
彼女ーーー、カズミは少し悔しそうに言った。
麻生数美。名前は嫌いじゃないけど、漢字が可愛くなくて好きじゃないらしい。
フリーランスで時折芸能関係の仕事をしているらしいが、半分は趣味だと言う。どうやら実家が相当に太いらしく、自分一人が慎ましやかに生活する分には、おそらく食うに困ることはないらしいが、それは羨ましい限りだ。
「その代わり、月に1回程度は実家に帰ってご機嫌取りをしなきゃならないけどね」
彼女曰く、その実家への帰省に3日ほどウチを離れて戻って来たら、僕が記憶を失っていたと言う訳だ。
つまり、僕と彼女は3ヶ月も前から同棲していたらしい。だが、それだと辻褄が合わないのだ。
彼女は実家への帰省の際に「着替えや生活用品を幾らか旅行鞄に詰めて行った」から、そのままウチで暮らすのにそれほど支障はなかった。
しかし、それ以外の彼女の私物は何ひとつとして我が家に存在していないのだ。
僕がその事を遠回しに言及しようとした時、それを察したのか、彼女の表情が曇った。都合の悪い話になったかと思ったが、答えは意外なものだったのである。
「んん。事情は把握してるつもりだから、怒ったりしてる訳じゃないんだけど、私のお洋服とか捨てちゃってる?」
僕の記憶喪失説が正しいのかどうかはわからないが、彼女の説はこうだ。
抗不安薬を飲んでいた僕は、それだけでなく、彼女にも相当依存していたのかも知れない。そこに、彼女不在の夜を数日過ごした事で不安が爆発し、大量の抗不安薬を服用し、記憶障害が起きたのではないか。
そして記憶障害を起こした僕は、知らない女物の服などを部屋の中に見つけ、怖くなって捨て、恐怖心からまた大量の抗不安薬を飲んだのではないか、と。
記憶がない事自体が記憶にない僕としては納得出来ないが、一応筋は通っている。
しかし、彼女は僕と違って聡明な女性だし、気が狂ってる様子もない。また、美人局でもなければ、朝昼晩の食事も彼女の自腹だ。不可解な嘘をついてまで、金も魅力もない僕に近付く理由がないのだ。
それに、彼女自身からも記憶障害では説明がつかないような発言があったりする。
例えば、調理器具だ。
「フライパン用の透明なフタ、知らない?」
彼女がそう訊いて来た。碌に自分で料理しない僕が知るはずはないし、持っている筈もないが、曰く便利だからと一緒に買いに行ったらしい。
「私の物を捨てちゃったのは仕方ないとしても、フライパンのフタまで徹底して捨てなくてもいいじゃない」
彼女は怒り気味に言ったが、他にも共用していたシャンプーなどがなくなっていたり、
「たった3日居なかっただけで、どうやったらこの散らかりようになるワケ?」
と言っているし、彼女自身も不審に思っているのだ。
そう。言われてみて気付いたが、彼女との共用ではない「自分用」のシャンプーは残量が多くはなかった。つまり、身に覚えのないシャンプーを捨てて買い直したとしたら、この残量では辻褄が合わない事になる。しかも、シャンプーのボトルの底には風呂垢のようなカビのような物が付着しており、記憶が間違っていなければ、僕自身が数ヶ月前に購入したものなのだ。
更に、部屋を掃除していた彼女は、
「ちょっと前に綺麗に磨いた筈のトイレが、ありえない汚れ方をしている」
と首を傾げているのだ。
これは一体どう言う事なのだ?
状況から考えるに、僕と彼女が同棲していた痕跡は見つからなかった。
だが、僕がそれに気付くのは仕方ないとして、彼女が自らそれを明かすメリットはない。
むしろ、僕は毎日の仕事に追われ、心に余裕がない状態である。そこに押掛け女房が現れ、押し切られる形で同棲を始めた。輪を掛けて余裕なんてあるはずがない。言われなければ、それに気付いてない可能性は高いのだ。
それに、彼女自身が心底、同棲の痕跡がない事を不思議に思い始めている。
この違和感は何なのだ? 彼女の口振りや表情からは、とても嘘を言っているようには思えない。騙す理由もない。例えば、僕の数少ない友人の事を知っていて、僕は彼女をその友人に紹介しているらしいのだ。
自分が嘘を付いているなら、そんなリスキーな嘘をつく筈はない。
これはまだ彼女には告げていないが、僕はその友人にメッセージで確認を取っているのだ。
ーーこの間、恋人を紹介したよな?
と。
だが、答えは予想していた通りだ。
ーー初耳だが、ようやくカノジョでも出来たのか?
同棲から2週間目を迎えようとした日の事である。
あまりにも唐突過ぎて、性格や状況から自信が揺らいでいた。しかし、この事で確信は持てる。どうやら僕の記憶は正常らしい。だとすれば、彼女は一体何者なのだ?
わからない。どうやら僕は、彼女を知らないらしい。僕の記憶は消えてなどいないのだ。
だが、彼女は僕を知っていて、そこに嘘はなく、僕を騙すメリットもない。
それに、とても気が狂っているようには思えないし、出会ったあの日以外にエキセントリックな面も見せてはいないのだ。
確かに最初は頭のおかしな女が部屋に侵入していると思ったが、それも微妙である。
もし、彼女が嘘をついていない前提で考えてみよう。
3日ぶりに同棲している彼氏の家に帰って来たら、部屋は荒れまくりで、私物は見当たらない。ようやく帰って来たと思ったら自分のことを覚えていないと言い出す。
もし、これが事実だとするなら、エキセントリックな行動に出ても致し方ないレベルだ。そこは納得せざるを得ない。
だが、ないのだ。
僕が彼女と同棲していたなんて事実は、何処にも見つからないのである。
いや、仮に彼女の言っている事が事実だった場合、僕は記憶をなくした不甲斐ない彼氏で、彼女は甲斐甲斐しく世話してくれる優しい恋人だ。
そこには何の問題もない。
現に彼女は優しいし、頭も良いし、綺麗だし、実家は金持ちらしい。仕事に対する理解もあり、料理も上手で、小まめに掃除もしてくれる。別に彼女に家政婦をやれと望んでいる訳ではないけれど、わかりやすい言葉で言うなら、彼女は完璧だ。
自分の好みだとか、性格が、とか言い出せばキリがないだろう。だが、傍から見れば完璧な彼女そのものである。
それに、僕を騙して得をする訳でもないらしい。僕からすれば利点しかないのである。彼女と僕が同棲していた話が妄言だったとして、それが何だと言うのだろう。
よく、出会い系サイトで知り合ったなんて言うと、そこに愛がないような錯覚が生まれる。無論、出会い系サイトでなくとも大半の愛が幻想であるのと同じように、あるいはそれより高い確率で嘘っぱちかも知れない。だが、その中に真実の愛がある事もあるだろう。それに、偽りが真実になる事だってあるかも知れないのだ。
そう考えれば、出会い方が他人とは大きく違った。ただ、それだけの事かも知れないのだ。
確かに、女性に優しくされればすぐに舞い上がる性格ではある。けれど、その度に上手く行かず、諦めて来た。
突然、訳もわからない状態のまま恋人が出来て、勘違いの恋をしているだけかも知れない。
けれど、僕はもうカズミを好きになっていたし、彼女が来てから景色に彩りが加わり、食事が美味しくなった。仕事にも気力が湧いている。薬も飲んでいない。
長時間彼女と話したお陰か、吃音症も軽減されている気がするくらいだ。
出会い方が奇妙だっただけ。あるいは、彼女の記憶に何らかのバグがあっただけ。それはきっと、そんなに重要な事じゃない。
その日の夜、いつものように同じベッドで眠る2人。
どうしてもまだ、頭の片隅に引っかかっているのだろう。
「そう言えば先月、米田と会ったって言ってたけど」
「うん。ヒロくんの親友にしては、割とぶっきらぼうな人よね」
「そ、そう?」
人物評としては外れていないし、嘘をついているようにも思えない。しかし、米田は彼女の存在を知らないのだ。
「んん。まぁでも、なんだかんだブツブツ文句を言う割には、結局は優しい人っぽくて、ヒロくんと友達なんだなって思ったよ」
狭いベッドの中、顔を寄せて笑うカズミ。暗いベッドの中でも、彼女の白い肌の笑顔が浮き上がるように見えて、眩しかった。
「ほら。えーと、コレ」
彼女は枕元のスマホを手繰り寄せ、指でくるくると操作する。目的の何かを探しているのか、見つからないのか、スマホの画面の光に照らされ、彼女が一人で百面相している。愛らしい、という言葉が頭に浮かぶ。
「あった。はい」
彼女がスマホの画面を僕に見せる。
急な光に慣れない僕の目が、スマホに表示されている何かを捕らえようとした。
おそらくそれは、目が光に慣れるまでの数秒。たぶん、3秒にも満たない短時間。
けれど、僕にはそれが何十秒にも感じた。
次第に輪郭がはっきりとしてくる、画面上の写真。
そこにはぎこちない顔の僕と、
堪えきれずに笑っているであろう、
カズミとのツーショット写真が映し出されていたのだ。
馬鹿な。僕にはそんな記憶はない。米田にもそんな記憶はない。だけど間違いなく、画面の中では僕と彼女が一緒に写っている。
「米田さんが撮ってくれた写真」
「ごご、ごめん、ちょっと他の写真も見ていい?」
「えっ? 別にいいけど何かヤだ」
特に隠したいものがなさそうなのは、いかにも彼女らしい。
「す、すぐに返すから」
僕はそう言って、指で写真を次に捲る操作をした。
いわゆる「自撮り」した、僕とカズミと米田の写真。
これは一体どういう事なんだ?
こんな所に物証があるなんて。でも、僕にも米田にもカズミの記憶はない。確かに僕は間違っていなかった。
だが同時に、彼女も嘘はついていなかったのである。
写真を捲る。写真。写真。写真。風景や食事の写真に紛れて、僕の写真は他にもある。
訳がわからない。
だけど、世界という存在そのものが何らかのバグを生んでいたら、こんな事は起きるかも知れない。
「ちょっ、早く返してって」
彼女が僕のスマホを取り上げる。
「ご、ごめん」
「どしたの? 深刻な顔して」
僕は無茶苦茶に動揺していた。当たり前だ。僕も米田も嘘を付いていない。だが、彼女も嘘をついていないのである。そんな馬鹿な事はあり得るのか? いや、隅々まで観察した訳ではないから、写真は合成写真かも知れないのだ。今の時代、CGで加工すれば世界の法則は簡単に書き換わる。今回だってそうかも知れない。その可能性はある。それぐらいは考えた。
「ねえ?」
彼女の顔が、焦点が合わないほど近く。息を呑む。
先ほどとは違う動揺が、僕を襲う。暗闇の中でも、彼女と目が合っているのがわかる。
写真の衝撃か、目と鼻の先の彼女か。
狂おしいほど高まる心臓が、彼女に聴こえてしまうようで恥ずかしい。
けれど、そんな事はどうでもよく、
それに、彼女がいた所為で、一週間以上自慰行為が出来なかったってのもある。普段なら無気力でそんな気にもならなかっただろう。でも、今は違う。
今、目の前にいるのは、僕の彼女なのだ。
暗闇の中で、彼女の瞳が濡れたように輝いてる。
僕の目が吸い寄せられる。もっと近くに。お互いの息が混じり合う。
僕は意を決して、彼女の唇を奪う。彼女の白い指が、僕の身体に巻きつく。もう止まらなかった。止められなかった。
僕は彼女の上に覆い被さり、彼女の肉体の上を泳いだ。
その朝は、恐ろしいほど世界がくっきりと鮮やかに見える。
先に起きていた彼女が、朝食の用意をしていた。
何か、よくわからない事は沢山残されているけれど、彼女が存在している事は間違いないのだ。
僕はダイニングのソファに腰掛け、普段はつけもしないTVの電源を入れる。
朝っぱらから、ニュース番組のアナウンサーが、無機質な声で陰鬱な事件を読み上げていた。
老人の運転する車が、集団登校で通学途中の小学生たちに突っ込んだとか。
現時点での死者は8名。痛ましい事件だ。
だけど、それはモニタの向こうの話。僕には微塵も関係ない。
そう思った時、彼女がテーブルに朝食を置こうとして、動きを止めた。
「えっ?」
相当に驚いたような、短い悲鳴とも思える声。彼女は時間でも止められたかのように、動こうとしない。
「ど、どうしたの?」
この小学生達に知り合いがいるとは思えない。知っているとすれば、加害者の方か。問いかける僕に、彼女はTVの画面から目を離さず、こう答えた。それは、僕が思ってもいない、意味不明な質問だった。
「ねえ。その、今って、何年なの?」
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。