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現世界グルメ『美味しいということ』


 グルメとは何か。美食とは何か。こう言うと、どうにも哲学的な空気が漂うが、実のところ答えは案外シンプルなものだと思っている。
 「食を楽しんでいるか」 ただそれだけの事ではないのか。
 グルメとはそもそも「大食漢」を示すグルマン、グルモンドから来ている。キリスト教七つの大罪に数えられる「暴食」(グラトニー)こそが美食の起源であると考えるべきだろう。
 残念だが「傲慢」「強欲」「色欲」「憤怒」「嫉妬」「怠惰」とこれらはほぼ全て「楽しいから罪」なのである。
 近頃のSNSとやらを見てみればわかるだろう。傲慢、憤怒、嫉妬が娯楽として垂れ流されている。
 街には色欲が溢れ、心は強欲にまみれ、生活は怠惰で満ちている。そう。大罪の正体とは安易に手を出せてしまう「簡単で普遍的な娯楽」に過ぎない。
 暴食もそのひとつだ。セックスも食事も、無くしてしまうと大問題だが、際限なく求めるのはよろしくないのだろう。
 生産も流通も安定してきている現代社会からはイメージしづらくなっているが、人間の歴史は飢餓との戦いでもある。つまり、飢えと向き合わねばならなかった人間にとって、満腹とは、何にも勝る至上の喜びだったに違いない。そして、それを超えてもなお食う、という行為は「卑しく、浅ましく、贅沢で、羨ましい姿」に映ったことだろう。
 宗教とは主に、誰にでも、すぐに実践可能だが持続が難しく判断が曖昧な事を「禁欲」として修行に組み込みたがる。
 食事という当たり前の行為に制限を与えるのは、マインドコントロールしやすくする「前準備」なのではないかと疑いたくなるほどだ。
 確かに、暴食は健康に良くはないだろうが、かと言って、禁欲が体や心の健康にいいかと言われると、いささか疑問は残る。
 そもそも、暴食とは何か。
 端的に言うと、腹一杯以上に食う事であろう。
 では、その腹一杯の目安とは? という単純な疑問にぶつかる。
 何が言いたいか、おわかりいただけるだろうか。そう。満腹に至るまでの食事量など、人によって大きく違うという事である。
 そう。パンを3個食べれば満足という人と、8個でもまだ食べられるという人。倍以上違う。
 そして、同じコストなら、普通のパン3個より、美味しいパンを2個食べたい、と願う人もいるのである。
 無論、美味しいパンを8個食べたいと願う人もいるだろう。また、美味しいパンなら10個でも食べたいと考える人もいる。
 では、あえて問いたい。
 美味しいものを、あと一口食べたい、という所で止めるか。
 ちょうどいい、という所まで食べるか。
 あるいは、「もう要らない! しばらく食べたくない!」という所まで食べまくるか。
 これのどれが「正解」だと言えるだろう?
 食事の際に、好物を「最初に食べる?」「最後に食べる?」のどっちが正解なのか。
 言うまでもない。こんなものは人による。性格や習慣や好みだ。そんなものに正解など存在していないのだから。
 存在しているとするならば、それは己の中にさえあればよい。これが正解だなどと喧伝して回る必要もないのだ。
 ならば美食とは何か。ただひたすらに、己の美味しいものを追求するだけの趣味なのか。
 無論、それもいい。それでいい。だが、果たしてそうだろうか。
 例えば貴方が無類の「映画好き」だったとして、1,000本の映画を、2,000本の映画を観て愉しむ事を至上の喜びとしていたとしよう。もちろん、それで終わっていい。
 だが、観た映画の良かった所や悪かった所を論じ合える友人がいたら、それはもっと楽しくなるのではないだろうか。
 おっと。誤解しないで欲しいが、美味しい料理をどれだけ食べるか、と同じく、映画の楽しみ方なんて人それぞれでいい。
 別に「映画の感想を友人と論じ合える方が、一人で楽しむよりも上等である」なんて事は思ってもいないのだ。どっちだっていい。個人的な意見として、「エクストラステージがあった方がお得」だと思ってるだけの話だ。
 人と話すのが億劫な人もいるだろう。意見が合わない時に愛想笑いをするのが嫌な人だっている。そもそも、一人で楽しむ映画こそ至上という考え方かも知れない。それはそれでいいのだ。前述のように正解などない。
 だが、あくまで個人的意見としては、趣味について楽しく論じ合える仲間がいた方がいい、と思うのである。
 意見の合う・合わないは、この際どうでもいい。
 感想が合致し「そうそう!」となるも良し、違う視点からの感想を聞き「なるほど、そういう観点があったか」と気付かされる楽しみは「ボーナスステージ」ではなかろうか。
 美食において、味覚が90%以上合致するなんて事は、経験上、まずないと断言する。
 あるとするなら、それはむしろ「食に興味がなく」「別に何でもいい」という人たちの間でしか成立しない。つまりそれは美食ではないのである。
 だからこそ「美味しかったもの」「美味しいと思うもの」の意見をぶつけ合い、時には衝突し、時には笑い合える方が楽しいのではなかろうか。
 無論、この意見交換が上手く行かず、ギスギスした空気になる事もあるだろう。だが、それも含めて、それでも意見交換はあった方がいいと思うのである。
 さて。個人的に、美食であれ映画であれ店であれ仕事であれ、一定割合で「ハズレ」を引いておくべきだと言うのが持論だ。
 時折、ハズレを引いておかなければ、アベレージが上昇してしまい、普段の「普通」を楽しめなくなるからである。
 これが学校の成績だとしたらどうだ。平均点が90点を超えていたら、もっと高みを目指すのは困難になる。充分以上の80点でさえ平均点を大きく下回ることになるだろう。
 個人的に、そんなピリピリした空気を楽しめるタイプではない。
 平均点は60点もあれば大した問題じゃないし、意識しても高得点を取るのは難しいが、わざと低得点を取って平均点を下げる事は出来る。
 だったら、ある程度は意図的に「ハズレ」を摂取して、そのハズレを楽しむべきであり、何ならその「ハズレ」を共有して、一緒に笑い飛ばせる「仲間」がいた方がいいと思う次第だ。
 別に、独りを愉しむ事が悪だとか駄目だとか言ってるんじゃない。
 美味しい料理に「美味しい」と感動を分かち合い、あるいは「これはイマイチ」と感想をぶつけ合い、ハズレを引いたら「コレは酷い!」と笑い合う。
 この行為は「食事を楽しむ」という意味で、相当に重要だと思う訳だ。
 繰り返すが、独りの方が楽しい事は否定しない。しかし、友達がいようとも「独り」を楽しむことは出来る。
 おつむが足りないのにテストで高得点を取る事は難しいが、高得点を取ることが出来る脳味噌なら、点数を下げる事は簡単だ。それをやる意味があるのか、とか、それで得られるものがあるのか、と言った点は無視しての話になるが。
 例えば、コシのあるうどんと、柔らかいうどんのどっちが好きか、という話にしよう。
 個人的にはコシのあるうどんが好物ではあるが、ただ硬いだけのうどんが食べたい訳ではない。また、すき焼きの後のうどんはある程度柔らかい方が美味しいし、その後のおじやを楽しむなら、出汁を吸って、くたくたになったうどんの切れ端は最高に美味い。
 そもそも、うどんで重要なのは麺か出汁か。
 こう言った好みを追求していくうちに、「好みの方向性じゃないけど、確かに美味い」という未知の美味しさに出会う事もあるだろう。
 別に未知と出会う事だけが美食じゃない。自分の好みのみを追求するのもいいだろう。だが、先鋭化はアベレージを上げ、排他的になってしまいがちだ。
 ならば、友人と飯を食い、好みの違いを論じ、時折は「好みではない味」に手を出すのも一興ではないだろうか。
 そう。どれだけ完璧な飲食店ばかりを選んで食べようと、どうせハズレは引くのだ。
 その時に、「ハズレを引いてしまった…」と落胆するよりも、「ひさびさにハズレを引いた!」と笑える方が楽しくはないだろうか。
 そのハズレを楽しめなかったとしても「ハズレを引いてしまったんだよ」と分かち合える相手が、「その店どこ? 行かないように気をつける」と言ってくれる相手が、「そんなに酷いのなら、逆に行ってみたい!」と笑ってくれる相手が、「俺も一緒に行くから、再チャレンジしよう!」と同席してくれる相手のいる方が、より美食を楽しめる気がしてならない。
 先日、うどん好きと色々話していたが、中々に好みが合わず会話は混迷を極めた。
 前述のように個人的にはコシのあるうどんが好きなのだが、どうやら他人から見ると「相当に硬いうどん」が好きらしい。
 その話の中で、山梨県の名物とされる「吉田のうどん」の話にもなったが、「吉田のうどん」が美味いかどうかと言う議論にもなった。
 曰く「アレはイマイチ。アレを食べるなら、ほうとうの方が美味しい」という意見であり、残念ながらこれには同意せざるを得ない。
 正直な話、「吉田のうどん」を食べた経験が少ないので、語れる資格があるとも思ってはいないが、「粉物」として判断すると、ほうとうの方が完成度が高いとは思う。
 そして、このほうとうも、すいとんに近く、ほうとうが「うどん」の亜種なのか「すいとん」の亜種なのかという判断も難しい。
 そして、吉田のうどんが「うどん」の亜種なのか、「ほうとう」の亜種なのかも判別が困難である。
 残念ながら、カテゴリ場所で点数は変わってしまうからだ。
 そして、うどんとして考えた場合、吉田のうどんの硬さは「コシ」ではなく「硬さ」なのである。
 その点で言うと、吉田のうどんの得点は高くない。これが現実的なところだ。しかし、個人的にはどう言う訳か、


 割と好きなのである。



 さて。個人的に、とても好きで、既に十数回繰り返し観ている映画がある。
 話題作ではあったが、映画の出来は酷く、評判も悪い。何が駄目だったかをあげつらうなら、30分以上悪口を言える。本当に駄目な映画なのだ。
 だが、この映画はつい何度も見てしまうぐらいに好きなのだ。無論、好きな理由や良い点を延々と述べる事も可能である。
 しかし、それは理屈なんかじゃない。好きと言う感情は理屈ではないのである。所詮、理由付けは後からされる分析に過ぎない。
 吉田のうどんも同様だ。讃岐うどんに敵わず、ほうとうにも及ばないのかも知れない。だがそれでも「なんか好き」なのだ。
 いわゆる、誰にでもある「ソウルフード」がそれだろう。
 駄菓子や母親の手料理、空腹時の思い出。何でもいいだろう。分析したら、別に、特に美味しい訳じゃない。良い点を並べ立てる事もできる。しかし、そうじゃない。
 「とにかく、なぜか好き」があって良いじゃないか。
 そんなのは前提で、その上で、それでも美味しいものを求め、美味しくないものにブチ当たり、食べたり、作ったり、分析し、言語化し、語り合ったりして楽しむ。それこそが「美食」であり、それを求める者こそが「グルメ」なのだと思う次第である。
 そして、この話を長々と書いたが、正直な話、


 こんなのは前提じゃないのか?


 その上で「この食い方が最高なんじゃないの?」って話をしているし、別の意見があって当然だし、正解なんて何処にもないのに、


 食べ方なんて
 人それぞれでしょ?


 と冷や水を浴びせてくる人がいる。
 実に残念であると言うか、正直なところ、


 こーゆー人とは
 食事を一緒に
 楽しめないな、と。


 そう思ってしまうし、前述の話に繋がるのだが、そーゆー人達って、


 友達いないんだろうな。


 と思ってしまう次第である。
 という事で、この話を「現世界グルメ」の序文とさせていただきます。

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 なお、この先には「一例として出てきた映画」のタイトルしか書かれてません。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。