見出し画像

腹一杯のかけそば


 皆さん、こんにちは。蕎麦はざるそばが好き。木賃もくちんふくよし(芸名)です。
 ざるそばとかけそばが上位2強なのですが、美味い蕎麦ならざるそば。普通以下ならかけそばが好きです。
 ワタクシ、蕎麦はかなり好きな食材に入るんですが、妙なジレンマがあって、トップ争いには入れない食材でもある。


 (´・Д・)」 何かってーと、

 めっちゃ美味い蕎麦ならイイんだけど、


 イマイチな蕎麦の
 ガッカリ感って、
 超ガッカリじゃね?


 って事なのである。まあ、正直言って、蕎麦の香りもへったくれもない蕎麦は山ほどあって、それが嫌いな訳じゃないのだ。
 しかし、割と蕎麦の専門店って銘打ってて、それなりの値段も取ってて、



 (´・Д・)」 味も香りもイマイチ。


 って店に出くわすと、物凄く損した気分になるからだ。
 つまり、上限と下限の振れ幅が大きい。しかもワタクシ、蕎麦の味も香りも大好きなので、


 (´・Д・)」 そばがき
 大好きなのよね。


 つまり、よっぽど「この蕎麦、味よし! 香よし! 舌触りよし! 歯ごたえ良し! 出汁よし! 温度よし! 薬味よし!」って揃わない限り、蕎麦の食べるのは、


 (´・Д・)」 麺じゃなくて
 いいんじゃないかなあ…?


 ってな事を考えてしまうのである。
 個人的にはフランス料理にある蕎麦粉のガレットとか凄い好きだし。蕎麦で大当たりの店を探すより、そっちの方が確実。
 そして、麺である事にこだわるなら、うどんやパスタの方が、麺としては優秀だと思うのである。要するに、


 (´°∀°)」 ウマイ!


 って思える店以外でハズレを引くなら、蕎麦以外を食う方が正解だと思うんですよ。
 あるいは最初から「並」の品質を適正価格で食える店とか。

 なので、蕎麦は好きであるが故に、評価が厳しい食材だと言える。

 さて。なんで蕎麦の話を始めたかと言うと、理由は「一杯のかけそば」だ。


 「一杯のかけそば」


 かの「時そば」に次ぐ知名度である、この「一杯のかけそば」を知らない人は少ないのではないか、というぐらいに有名な話である。
 要するに、夫を亡くした妻とその2人の子供の3人が、閉店間際の蕎麦屋に現れ、かけそばを1杯だけ注文して、事情を察した店主が、蕎麦を黙って1.5玉湯掻いてあげた。って話だ。

 美談として、実話として語られることの多い「一杯のかけそば」であるが、


 (´・Д・)」 フィクションです。


 栗良平の創作童話です。
 ワタクシはノンフィクションやドキュメントでも、絶対に作る側の恣意を抜き切ることは出来ない、と思ってるので、この話が実話かどうかなんてどうでもいい、ってのが本音である。
 まあ、創作を「実話です」って売るやり方は感心しないが、一家庭、一店舗に起きた話なんて、創作でも実話でも確認のしようがないから、実話である可能性も否定は出来ない。

 また、ワタクシもこの記事を書く際には、よく「実際には3人の人間が居たんだけど、話がややこしくなるし、説明が長くなるから、2人の人物を統合した身代わりを用意する」なんて事は山ほどやっている。
 本当は3日間の出来事だけど1日にまとめたり、5年前の話だけど昨日起きた話にしたり。

 別に嘘をつきたい訳じゃなく、話の本質を伝えるために枝葉を切り落としているだけだ。

 だから、一杯のかけそばにベースとなる実話が存在しているかどうかは、ワタクシに取ってはどうでもいい話なのである。

 また、作者である栗良平の素行不良により、大ブームとなった「一杯のかけそば」は語り難い存在となっていった経緯がある。
 「実話、と謳われたのに」と言う感想から始まり、作者の経歴詐称。不倫。寸借詐欺。更にはブーム後に詐欺行為を重ねたとかで、更には元愛人が週刊誌で暴露すると言う数え役満ぶりだが、ぶっちゃけ、ワタクシはコレもどうでもいい。

 作者の素行が悪いなんて言ったら、太宰や中原中也なんてクズの中のどクズですし、谷崎潤一郎や田山花袋なんて変態中のど変態である。



 (´・Д・)」 作者と作品は
 切り離して考えるべし。


 ワタクシはそう思ってるので、栗良平の人格や素行なんてのもどうでもいい。

 単純にベッタベタの白々しい出来過ぎの「泣ける話」として、



 (´°⊿°)」 ツマンネ。


 って感想しか出て来なかったからである。
 野菜から肉から米までが全部テリヤキ味に染められた弁当を食わされたかのような胸焼け感が、まるで受け付けられなかった。
 物語は嘘でいいが、嘘くせえ、ってシラけさせるのはよろしくない。

 特にワタクシはこの作品を伝聞で知っていたものの、ホラどうした? 泣けよ! と言わんばかりの「泣かせる話」なんかに興味がなかったので、まともに触れたのは渡瀬恒彦の実写映画版が最初だったのである。

 ちなみに、母親役は泉ピン子。店主が渡瀬恒彦(おかみは市毛良枝)なのだが、



 (´°Д°)」 ピン子!
 お前の居場所は、
 客席やない、店側や!


 って「渡る世間は鬼ばかり」を連想してしまい、もう苦笑いしか出なかった、と言うのが正直なところである。

 で。なんでこの話を始めたかと言うと、ツイッター上で「一杯のかけそば」ならぬ「二人前のうなぎ」が話題になっていたからである。


 まあ、要するに三人家族で二人前を注文した家族に対し、「ちゃんと三人前注文できる私達は幸せ」って発言をしちゃった母「幸せかどうかはあっちの家族が決める事だ」と言い放った父、という状況だ。

 ワタクシはこの親父さんの発言を全面的に支持したい。
 実際にワタクシは、自分の幸せを他人に決めつけられるのが大嫌いなので。

 正直「母ちゃん、他所様のテーブルを凝視しない方がいいし、更には他所様の家族に口出ししない方がいいよ」とは思う。
 また、元飲食店経営者としては「3名様の場合は、なるべく三人前の注文してあげて…」と思わなくもない。(これも他所の店の話なので口出しするつもりはない)

 だが、その家族構成の子供が未就学児だったりしたら、


 (´・Д・)」 2人前なのも
 普通なんじゃないの?


 とか思ったりする。
 他にも色んな事情で、あえて2人前である可能性はあるんだし。

 例えば、子供がうなぎは脂が強くて苦手だけど、タレ付きのご飯は大好き、とか。



 (´・∀・)」 タレご飯、
 めっちゃ美味いよね。



 てな訳で、色々と(特に母親の発言が)物議を醸しているけれど、令和の「一杯のかけそば」が出現したなあ、と思った次第である。


 
 なお、ワタクシはこの話が事実でも創作でもどうでもいい。「一杯のかけそば」よりは得るものがある小咄だとも思う。ツイ主や家族の素行にも特別な興味はない。

 その価値観もまた、自分が感じるままでいい。それを表明するかどうかで正否は問われるだろう。だが、思うことそれ自体に正解だとか間違いはない。
 価値観を他人に決められる事は、他人に感情を決めつけられるに等しい蛮行だと思う。

 そう。ワタクシの幸せは、
 ワタクシだけに決める権利がある
のである。


 だって、ワタクシは1人で、



 (´・Д・)」 3杯のかけそばが
 食いたい腹ペコ野郎なのだ。



 ( ;∀;)  腹一杯のかけそばが食いたいのよ。


 ※ この記事はすべて無料で読めますが、無駄に大食いなので、投げ銭(¥100)で大盛りが注文出来るようになります。
 なお、この先にはワタクシの麺序列が書かれています。


ここから先は

324字

¥ 100

(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。