BORN TO RUN " ONE "
打撃に、一撃必殺などない。空手にその身を捧げて30と数年。それが、空手家唐沢英一朗の導き出した答えだ。
幼少期は何もわからず、ただ親の勧めで伝統派空手を習っていた。
唐沢自身は子供の頃から、ずっと凡才であったと言う。確かに成績表だけを見れば、学業や運動において、秀でた才能はなかった。しかし、同時にそれは目立って劣った能力もなかったという事である。
唐沢から空手を抜いてしまえば、無味無臭な人間が出来上がるか。否。
唐沢は普通の人間なのだ。普通に楽しく友人と遊び、学び、家族と仲良く過ごし、恋もすれば受験もする。普通に人生を謳歌するだけの才能は、充分に持っているのだ。
おそらく、唐沢がどんなスポーツに打ち込んでいても、あるいは学業や芸術にその身を捧げたとて、ひとかどの人物には成れていたであろう。
何故なら、唐沢が他者よりも優れていたのは、他ならぬ「努力」の才能だ。
それがたまたま空手だっただけなのである。
偶然、良き師に出会い、空手が「楽しかった」から、苦もなく「努力」を続けられたのだ。
だが、唐沢が小学校三年の時に、伝統派空手の師範が急逝する。
その道場の後継ぎは、唐沢と反りが合わなかった。時を同じくして、唐沢はふとした事で殴り合いの喧嘩になり、惨敗する。
「空手を習っている癖に弱いな」
そう言われた事が、唐沢にとっての大きな転機となる。伝統派空手から、いわゆるフルコンタクト空手へと鞍替えだ。
普通に友達と遊び、普通に喧嘩も恋もする。普通に漫画のヒーローにも憧れ、普通に強さや暴力への衝動もある。それが唐沢という人物だ。
だから、ヒーローへの憧れが止まらない時代に、フルコンタクト空手へ転向した事で、唐沢の才能は開花したのである。
基礎はすでに習っていた。いや、伝統派空手から入った事もあって、動作や技に荒さがない。それを褒められた事が、唐沢をより一層空手と結びつける事となる。
フルコンタクト空手は中学卒業まで続いた。
中肉中背の唐沢だが、最も選手層の分厚い階級別でも、相当に優秀な成績を残す。
流石に無差別級での成績は伸びなかったが、それでも充分に健闘したと言える。
高校でフルコン空手を離れたのは、親の転勤の都合だ。唐沢自身もそれに合わせて高校受験した。そして、その新天地にフルコン空手の道場がなかっただけの事だ。
幸い、親がそれなりには裕福だった事から、フルコン空手の道場を退会はせず、在籍し続けた。大会などへの出場権を保持するためである。
問題は、練習だった。しかし、引っ越し先には偶然、防具付き空手の道場が開設され、そこに通う事となる。
伝統派、フルコンタクト、防具付き空手のそれぞれを経験する事で唐沢の「空手」は、より完成されたものへと近付く。
この、すべての空手にはそれぞれメリットとデメリットがある。
間合いも違えばタイミングも違う。その技の持つ意味さえも違えば、スタンダードな正拳突きひとつをとっても微妙に違うのだ。
基礎を積み上げては壊し、より強固な基礎を積み上げる。唐沢は期せずして、武の真髄のひとつを身につけていたのだ。そして、大学に進学する際、唐沢はそれに気付いた。
大学は東京を選んだ。
なるべく大きな、人の多い場所の方が学びが多いからである。世にある様々な空手に触れるためだ。
続けていたフルコン空手は、同派の道場を紹介されて移籍した。唐沢の主戦場はフルコン空手だ。
だが、肉体的に恵まれたとは言えない唐沢は、大学でいくつもの空手サークルや格闘技サークルに属し、渡り歩く。すべてはフルコン空手で勝つための手段だった。
ひたすらにフルコン空手を続け、磨き上げ、別の空手に触れてはそれを壊し、またフルコン空手を磨き上げる。
さながら、ひたすらハンマーで叩き上げられた鍛造品のように。
技のコレクターになるな、と師の一人は言った。その言葉に従い、唐沢は軸となるフルコンタクト空手を変えなかったのだ。
磨き上げたフルコンタクト空手を壊すために、グローブ空手もやった。ボクシングや拳法にも専心した。だが、軸はぶれない。無論、唐沢も普通の人間だ。他流派で褒められ、試合に勝てば慢心する事もあった。しかしそれでも、目的は変えなかったのだ。
フルコンタクト空手の世界選手権優勝、それが唐沢の目標だった。
大学在籍中に全日本大会を制覇。大学を卒業し、そのまま空手道場に就職した。
翌年、世界大会中量級で5位を達成。無差別級はベスト16という好成績である。
4年に一度しかない世界大会に優勝する、この頃の唐沢にとっては、それだけが目的だった。
だが、そんな唐沢にも転機が訪れる。32歳の誕生日に、新しく設立する東南アジア支部長へと就任した。
その間、怪我での欠場が1度。最高成績は5位のまま。
確かに、まだ体力に衰えは感じていなかったが、それはいずれ訪れる。ならば自分より強い選手を育てるという道を選ばなければならない。
そう決心し転勤を快諾したが、残念ながらそれは、唐沢にとって良い導きとはならなかった。
選手のレベルが低すぎたのだ。その間、唐沢自身は鍛錬を欠かさなかったし、現地の武術に触れる事で衰えはしなかった。
だが、世界大会がベスト16にとどまり、唐沢自身は進退を考え、日本へと帰国する。
そこから、唐沢は死に物狂いでの鍛錬を開始した。肉体の衰えは確実に来るだろう。
世界大会に出られるのはあと1度。よくて2度だろう。
その1度は、史上最高の3位を達成するも、優勝には届かなかった。
残されたチャンスは4年後。その時の唐沢は42歳である。もう勝てないかも知れない。
だが、世界大会3位の栄光は、唐沢に新しい道を提示した。
雑誌取材をはじめとし、TV番組やネット、映画などへの出演である。
確かに唐沢は空手以外に取り柄はない。しかし、一方では何でも卒なくこなせる側面もあり、顔立ちも悪くなかった。会話にも問題はない。
これでタレントへの転身を考えるほど愚かでもなかった。
だが、メディアへの露出が増えた事で、いわゆる他流試合への道が拓けたのである。
幸いなことに、グローブ空手やキックボクシング、また柔道をはじめとするその他の武道、武術の心得もあった。
ちょうど、メディア露出で幾許かの元手も出来たところだ。唐沢は空手道場を退職し、自らの空手道場を設立、立ち技を主体とする総合格闘技への転向を表明した。
その華々しい総合格闘家としての、40歳と言う遅すぎるデビュー戦。
唐沢は、総合格闘家を相手に、見事な勝利を収めた。
そして、この勝利者インタビューで、こう語ったのだ。
「打撃に一撃必殺などない」
と。
そう。一撃必殺は、空手をはじめとする打撃系格闘技の華であり、ロマンである。
だが、実際には一撃必殺など存在しないのだと、唐沢は語った。
無論、何の警戒心もない相手に、不意打ちでプロの格闘家が打撃を打ち込めば必殺となる可能性は高い。
しかし、そんな事はないのだ。料理中に飛んで来た見えもしない揚げ油でさえ、人間は瞼を閉じて身を守る。
相手もプロの格闘家であり、まして試合ともなれば、反応しないはずはないのだ。
そして、ほんの1ミリでもいい。その身を捩る事さえ出来れば、打撃のダメージは激減する。それが現実だ。
そもそも、フルコンタクト空手はよく、「我慢比べ」と称される。
理由は簡単だ。素手で殴り合うため、危険を防止する策として「顔面へのパンチ」を禁じている。それが最大の理由だ。
脚へのローキック、腹部へのブロー、胸部への正拳突き。
相手が素人ともなれば、その一撃で雌雄が決する事もあるだろう。だが、相手も空手家だ。同じように鍛錬している。
だから、相手の体力が尽きるまで殴るのだ。ただ、ひたすらに。
自分も、相手のスタミナを削り取るために耐える。
殴るも蹴るも、相手の体力を奪うためのものだ。相手の呼吸が乱れ、隙が生まれるまで攻撃し続ける。相手の体力が尽き、肉体が故障し、心が折れるまで、手を弛めない。
あらゆる攻撃は、そして、あらゆる防御は、その「必殺」の「一撃」を叩き込むためにあるのだ。
だから、我慢比べだ。
唐沢にとっては、攻撃も防御も「蓄積」なのである。
ただひたすらに積み上げ、壊し、密度を高めてきた唐沢に一撃必殺などない。
相手が我慢できなくなって根を上げるまで、自分が耐える。
相手の心身が折れるまで、必殺の一撃を叩き込む隙が生まれるまで、ひたすらに攻める。それがフルコンタクト空手であり、それが唐沢なのだ。
総合格闘技デビュー戦の戦績は、1ラウンド0分4秒。
打ち下ろし気味の右ストレートが相手の顔面を捉えた。
相手のタックルの入りの瞬間に、カウンターで命中した。
見事なKO勝ちである。
その勝利者インタビューに、唐沢は「打撃に一撃必殺などない」と答えた。
この度の試合の結果は、唐沢にとってはラッキーパンチが当たった、などと言うものではない。
唐沢が空手家として、鍛錬し、我慢し、蓄積し続け、磨き上げた経歴あってこそ、「必殺」の「一撃」を叩き込めただけなのである。
シリーズ BORN TO RUN
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。