現世界グルメ・デラックス版
大盛り。なんと素敵な響きだろう。
そうは思わないか。大盛り。素晴らしい。一皿では我慢できない、辛抱できない料理を大盛りに出来る。最高だ。
大食漢(グルモンド)にとって、大盛りは魔法の呪文である。
少食の人間には無縁かも知れない。何しろ、どれぐらいの量なのか把握できないのだから。
しかし、大食漢にとっては「足りない」より「過ぎた方が良い」のだ。自分の胃袋と相談するまでもなく、大盛りを選んでしまう。
特に「大盛り無料」と言う禁断の魔法の魅力には抗いがたい。
なお、この上位魔法には「特盛り」や「メガ盛り」なんてものもある。ごく稀に「特盛まで無料」なんて魔術も存在しており、大食漢はこれに対する抵抗値が低い。
そう。大盛りや特盛りはそれだけでスペシャルなのである。
確かに、大盛りや特盛にする事で、味のバランスを欠く事はあるだろう。顕著な例では、味の濃い料理、特濃ラーメンなどにありがちだ。
ラーメン鉢一杯で過度な満足度を与えるように調整された特濃ラーメンなどは、塩分や脂分が限界ギリギリまでブチ込まれている。よって、大盛りならまだしも、特盛りなどにすると体調に悪影響を及ぼす可能性がないとも言えない。
しかし、これは全体量が増しているため、味のバランス自体が崩れている訳ではないのだ。
つまり、最もわかりやすい例は特濃ラーメンではなく、カレー&ライスの方である。
カレーライスではなく、カレー&ライスと書いた事で、その意図はご理解いただけると思う。
そう。カレーのみ増える大盛りや、ライスだけ増える大盛りの存在だ。
カレーばかりが多くてもバランスを欠くし、ライスばかりが多くてもそれは同様なのである。
もっとも、カレーライスについてはカレーでご飯を食べたい派と、ご飯でカレーを食べたい派に分かれるため、その黄金律を求める事は難しい。
基本は両方がバランスよく増量される事であろうが、しっかり辛いカレーほど、ライスに重きを置きたい所だ。
長々と書いてしまったが、いずれにせよ、こういった選択肢が増える事は、美食を求める上において、喜ばしい事である、、、とでも言うと思ったか?
ハッキリ言おう。
言語道断である。
至高の美食を求める上で、そんな選択肢は不要。要らない。全くもって論外だ。
何故と問う勿れ。自分で作って自分で食うなら、味も量もバランスも好きにすればいい。勝手にしろ。
だが、美食を求め、レストランで食事をする際にそんな選択肢は要らないのである。
美食とは、料理人が作る完璧な一皿を味わう事なのだ。
そこに客ごときの「好み」なんてものを反映させようなどと、烏滸がましいにも程がありはしないか。
料理の味を決めていいのは料理人だけである。
考えてもみろ。高級フランス料理のテーブルに塩や胡椒が添えられているか。否。答えは否だ。
美食とは、料理に身を捧げた料理人が考える、究極のバランスを堪能する事である。それを客ごときが勝手に壊すなど言語道断の蛮行。
大衆食堂には塩も醤油もソースもあるだと? それは「そうしていい」と料理人が判断しただけのこと。そして、それは料理人が「客が自分で好みに味付けしてね」と、自分の味を決定する事を放棄したからである。
もし貴方が、自分で作った渾身の料理に、味見もせずに醤油をかけられたらどう思う?
「何もつけなくて完璧」な味付けにしたところに、「味が薄い」とソースをドボドボ掛けられたら?
きっと悔しい事だろう。自信に傷が付く事だろう。それは料理人の敗北なのである。
料理に貴賎はない。しかし、美食とは、料理人が思う究極の味付けとの真っ向勝負なのである。
その味が気に入らなければ二度と足を運ばなくていい。お互いに妥協などない。その真剣勝負こそが美食の道なのだ。
誤解しないで欲しいが、大衆食堂や家庭料理を否定している訳ではない。
自分で作る料理には好き勝手やれる楽しさがある。大衆料理には、好みの味付けにできる魅力がある。美味しければ、楽しければそれでいい。少なくとも、耳学問の知識偏重で味がわからない自称グルメや、美食だからと眉間に皺を寄せて楽しむ余裕もないよりはいいだろう。
だがそれでも、それはわかった上で、納得できない料理のスタイルがあるのだ。
激辛、特濃、トッピングなどなど、「とりあえずコレやっときゃ客が喜ぶんでしょ?」というスタイル。そして、それに飛びつく連中である。
激辛。もう、説明するまでもない。個人的に、かなり辛い料理でも好んで食べる方だが、明らかに度を越した「激辛」は、もはや美食の範疇にないと言えるだろう。
何処からが激辛であるかを示す事は難しい(スコヴィル値で測れない事もない)が、過剰な辛さを追い求めるのは美食ではない。それが美味いのだと言う個人を否定はしないが、舌が鈍感である事を触れ回っているようなものである。
特濃。これも勘弁願いたい。濃厚な味は実に蠱惑的だが、とかく「特濃」を謳い文句にしている料理は、ただ「濃いだけ」で美味くないものが大半だ。
しかも、単純に濃度を上げただけ、希釈度を下げただけと言うような「特濃」は完全にバランスを逸している。
確かに、一口目だけは美味い。しかし、食べ終わる頃には食傷気味になる。やはり料理は一皿を食べ終わって、なお美味くあらねばならないのではないか。
トッピング。先に断っておくが、トッピングそのものが悪いとは思っていない。ただ、トッピングの種類が多いほど客が喜ぶ、というような浅はかな理由で、料理に合いもしないトッピングの数を無駄に増やしている事に対しては異を唱えたい。
特に、過剰なトッピングは愚の骨頂である。
近年よく見るのは、ただ「チーズをトッピングして、それがとろけてさえいればいい」という風潮には懐疑的だ。まだ、チーズが料理にマッチするならともかくとしても、もはや料理かチーズかわからないほど大量にチーズを載せる事などあってはならぬ。
これまで色々な種類のチーズを食べてきたが、チーズ単体で多量に摂取する事はない。パンに載せる、料理の味付け、酒の肴と活躍の場は色々あれど、もはやチーズの味しかしないのでは、元来のチーズの味さえも損ねてしまっている。
実際、多量のチーズは加熱すると無駄に脂を出すし、独特の苦みが強調されてしまう。
いや、チーズならまだいい方だ。近年は植物性油脂から作るチーズの贋作が多く出回っており、これがまた何とも残念な味である。
贋作チーズが全て悪いとは言わないが、少なくともチーズを名乗るべきではないだろう。
産地を偽ったチーズが出回る事と比べて、その罪は重いのか軽いのか、悩ましい所ではある。
そして、トッピングと言えば「玉子」だ。それも、みんな大好きな「半熟玉子」という存在を外す訳にはいかない。
確かに、半熟玉子は美味い。それは当然だ。しかも、多くの料理の邪魔をせず、何なら引き立てもする素晴らしいトッピングとなる。しかし、しかしだ。
半熟玉子とは、半熟玉子以上の何者でもないのである。
ちゃんと料理として調和しているならいいが、とにかく何でも「半熟玉子さえ載せれば美味そう」と言うのは閉口モノだ。
もう一度言う。半熟玉子は半熟玉子以上の何者でもない。
さて。ここまでかなり強い勢いで述べてきたが、個人の嗜好を否定するつもりはないのだ。単に、美食とは何かを求むる時、やはり食に対してシンプルに向き合っていきたいだけなのである。
食べる側の好みは千差万別であり、その好みでああだこうだと議論する事こそが、美食の楽しみのひとつであろう。
そして、それは同時に、作る側の好みもまた多種多様であるということ。
だからこそ、作る側の「最高に美味いものが出来上がった」という自身の逸品が、自分の好みに合うかどうか、食べてみたいのである。そして、その美味さに唸りたい。いや、唸らせられたいのだ。
今回筆を取ったのは、このところ少し、ハズレを連続して引いてしまった事が引き金になっている。「特濃」を謳う料理が、単に希釈を下げただけで、何の工夫もされていなかったり、見栄え以上に何の意味も持たないトッピングに落胆させられたからだ。
極上だの特上だの特濃だのという名前と値段ばかりが立派で、取るに足らぬ料理。そして、その名前に踊らされる消費者。
何も、濃い料理やトッピングが悪いのではない。そういった使われ方に辟易としているだけの話である。
さて。特上と言えば、日本の国民食とも言えるであろう「カップ麺」の大手ブランドが、最近になって「特上」というシリーズを展開した。
カップ麺好きとしては、外せない商品である。
早速、全種類購入して味見してみた訳だが、
なお、通常盤の評価は上から、1.カレー、2.ノーマル、3.チリトマト・シーフードという順位だが、特上版は1.シーフード、2.ノーマル・カレー、3.チリトマトという並びになる。
そして、4種類を食べ終えて、しみじみと思ったのだが、
やっぱり、通常盤が
一番美味いのである。
実に完成された味だな、と。
そんな風に思って今回の記事を書こうと思うに至った訳だが、この記事を書き始める前に、公式のコマーシャルが、
やっぱり普通のが
いちばん美味しい
って言い出してて、
(´°皿°)」オマエ、
ちょっと体育館裏まで
顔出せやオラァ!
ってなった次第である。
https://x.com/cupnoodle_jp/status/1703619859454591141?s=20
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。