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「上を向いて(或いは果てまで)歩けば。」

其れに値する哀しみが、泪が、僕の中には有るだろうか。
蓋然性の無い詩人として、其れを許して佳いのだろうか。
ボーイングの中でクシャクシャに成った音楽性に、僕も何か言えたら佳いのだろうけど、其処で詩篇を遣うのは絶対間違っていると感じざるを得ない。

僕も夜には上を向きがちだ。
しかし其の分、日中は常に下に俯いている。
何故なら、人の感情は足で道路に刻印してる様に思うからだ。
そうで無くても、下と言うのは魅惑が甚だしい。
手袋に縫い包み、ハンケチに珈琲缶、記憶喪失の人に其の死骸等、様々なモノが誰彼の懐から離れ、道に堕ちている。
かと言って其れを撮影してインターネットに流すのはもう御止めなさい。
テレポーテーションする際にドレスコードを配慮しない程度には品が無いので。
僕の足はモザイクの歩道で、出来るだけ境目の線を踏まない様に、毎日頑張って気を付けている。本当に毎日毎日飽きもせず。余所から観たら、僕が今、何リットルの麦酒を飲み干したと予想するだろうか。
残念、生じゃ無いレモンサワーに話を聴いて貰っているのだ。

詩人とはこう有るべきだ。文人とはこう有るべきだ。
そう言って新しさの欠片も無い傲慢に奔ったから、文学は若者の恥の象徴に成ってしまったのでは無いか? 所謂止せ止せ問答問題で有る。
しかしだからと言って、誰もが詩人で、誰もが文人、は言い過ぎだと感じる。
そんな安易な言葉で片付けて欲しくない。
調子に乗った意識をドローンで飛ばしている人が介入して来るからだ。
彼らがする、自在の主張や、思想の押し付けや、狂人のフリは、余りにも凡庸で味気無さ過ぎる。
確かに、誰でも判る様な言葉で素晴らしい詩篇を書く方はいらっしゃる。
でも、其れは、簡単な言葉でも詩情を表せるから成立しているのであって、言葉の奥までピストンしなければ、只の意見で終わる事に案外気付いてない人達が多い。
だから僕が其の人達の作品にされそうに成ったら、情けなくてもキットこう怒鳴る。
「外に出せ!」

鯔のつまり、外より躯。躯より裡、が佳いのだ。
ジクジク痛むモツ鍋で、僕は詩篇を煮込んでいるのだろうから。
作詩とは常に、解釈との闘いだ。
自分の解釈で構成して、初めて、言葉を詩篇に出来る。
別に其れを誰彼に教える必要は無い。何処かに遺書を置く必要も無い。破れかぶれで叫んでナイフを振り回して暴れる必要すら無い。
只、解釈には責任を持って、最後まで組み立てる事は約束するべきだ。
そして其の詩篇がちゃんと死ぬまで介護をして、時にはブチ殺さないともいけない時も有る事も知らねば成らない。
結局、傷塗れに成りながらも、ちゃんと扶養した言葉しか救われる価値は無いのだから。
御願いだから、覚悟を置いておいて呉れ。
涼しい部屋で、大切に飼育するから。

経験上、意味を匂わせるだけで其れらしく視せてるモノが一番危ない。
何となくらしさの有る言葉の配列に対する恋は、何時だって読者を盲目にする。其れは、詩篇の中で最も有効だが、最も最低の行為である。
確かに僕は詩篇では貴方に指差す事は出来ないが、もしかしたら心を追い掛ける事は有るかも知れない。
其の時は精々、僕の中のフレンチブルドッグに警戒しなさい。
彼女は邪推が大嫌いで、御菓子を食べるのが怖くて、本を纏めて買っては読み耽ってしまうタイプの心象風景なので。
喩え、両足がミンチに成っても、息をするのが苦しくても、存在しない恋人の祈りの気配を感じても、僕は僕を証明したい。
結局、今日も誰かが、感傷に騙されている。
僕達の詩篇を除いた、聴こえの佳い、貌に阿った、管理と教育と捕縛と監禁も果たしていない癖に、詩篇と名乗って憚らないモノ達に。

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