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今年こそ長野県を訪れてほしい!

はじめまして。わざわざの尾崎と申します。わざわざでは「社長係」として社長アシスタント業務や会社としての活動・取り組み・PRに従事しています。昨年長野県東御市に移住し、わざわざのある東御市をはじめ、長野の自然の美しさや、古代から残る歴史・文化にはまっています!そんな魅力あふれる東御市と長野県のことをお伝えしたいと思います。

2022年は長野県で大きなイベントが実施されています。今回ご紹介したいのは長野市の善光寺御開帳です。善光寺御開帳は7年に一度の大イベントで前回2015年に開催され、期間中700万人以上が訪れました。昨年はコロナ禍で実施できなかったため一年延長して、4月3日~6月29日まで実施されています。

今年はコロナ対策として、分散参拝ができるよう開催期間が例年より長く設定されていますのでぜひ6月末までわざわざ店舗と一緒に回ってみませんか?わざわざのある東御市は、関東方面から善光寺に行く場合はちょうど真ん中あたりにありますので、善光寺と東信地方のかかわりについてご紹介していきますね。

宗派を問わない歴史あるお寺・善光寺

善光寺に伝わる「寺伝」によると642年の創建とされています。日本に仏教が伝来したのは538年もしくは552年とされており、百済(現在の朝鮮半島)から仏像・経典などが日本に伝来しました。外国から伝来した宗教である仏教と、日本古来の土着宗教が衝突し、仏教派の蘇我氏(そがし)と土着宗教派の物部氏(もののべし)の争いが起こります。

その争いの最中、疫病が流行るなど不穏な社会情勢になり、物部氏やその一派はその原因を外国から伝わった仏教のせいにして、仏教伝来で伝わった仏像を物部氏が難波の堀江に沈めてしまいます。それを拾ったのが、信州麻績(おみ)の里の住人であった、本田善光です。仕事で都に行った際、難波の堀江で阿弥陀如来に巡り合い、故郷に連れておまつりしたのが、元善光寺(長野県飯田市)です。

善光寺近くのお屋敷(本文とは無関係です)

その後、阿弥陀如来のお告げに従い現在の地にお堂を建てて元善光寺から善光寺へ移しました。日本全国のお寺は宗派を持ちますが、善光寺は仏教伝来直後に建てられた古い歴史を持つお寺です。日本仏教が各宗派に分かれる前からあるため、天台宗と浄土宗の共同運営ではありますが、特定の宗派を持たないお寺としても有名で、老若男女誰でも訪れることのできるお寺と言われています。

御開帳とは?

善光寺のご本尊は、日本で最も古い仏像と言い伝えられており、絶対秘仏という、誰も見ることができないご本尊です。御開帳とは言え、この絶対秘仏が拝観できるわけではありません。同じお姿をしている前立本尊を身代わりとしているのです。

(本文とは無関係です)

これを七年に一度だけ見ることができるのが御開帳です。この時にだけ巨大な回向柱(えこうばしら)という柱が立てられます。これは、卒塔婆(そとうば)のことで、語源はストゥーパ・お釈迦様の骨をまつった塔=仏塔のことです。回向柱は御開帳される前立本尊の右手の中指と「善の綱(ぜんのつな)」と結ばれており、この回向柱に触ると、仏のご利益を得られると言われ、参拝される方はみな参列して柱に触るのが定番となっています。

東御市にもやってきたことがある絶対秘仏

実はこの絶対秘仏が少しだけ東御市に滞在したという記録があります。戦国時代、武田信玄が川中島の合戦で上杉謙信と戦った際、善光寺の焼失を恐れ、1558年に善光寺から秘仏であるご本尊の他、宝物を守るために現在の甲府駅近くにある甲斐善光寺を建立し、そこに移す前の約二年間、東御市祢津にある大日堂(東御市指定文化財)に一次的に保管されていたそうです。

諏訪の万治の石仏も東御市から車で1時間ほど(本文とは無関係です)

御開帳が盛大に開催されているのとは対象的にひっそりとしたお堂ですが、長野県の善光寺、甲府の善光寺とも関係の深い御堂と説明されています。ご本尊は武田氏が滅亡した後、織田信長によって岐阜に移され、岐阜にある善光寺安乗院にまつられました。織田信長が本能寺の変で討たれた後、徳川家康、豊臣秀吉など有名な戦国武将によって転々とされ、最後にご本尊が豊臣秀吉の夢枕に立って信濃に戻りたいとお告げをして、1598年にようやく長野市の善光寺に戻されたそうです。

牛にひかれて善光寺参り

「牛にひかれて善光寺参り」ということわざがあり、「思いがけないことが縁で、また、自身の発意ではなくて、偶然、よい方に導かれること。(日本国語大辞典より引用)」という意味で使われています。

このことわざが、わざわざのある東御市のお隣の小諸市にある布引観音に結びついて、布引観音は「牛にひかれて善光寺参り」発祥の地として知られるようになりました。昔、強欲な老婆が布を洗濯していたところ、突然牛が現れて老婆の布をさらって走り去ってしまいます。老婆は牛を追いかけて、ずっと追いかけて、とうとう善光寺まで来てしまいました。実は牛は仏の化身であったことを知った老婆はその後改心し、信仰に目覚めるという伝承です。

小諸市から長野市までは60km以上離れており、Google Mapで調べると徒歩で11時間かかるようですが、本当に老婆が走って牛を追いかけたかどうかはさておき、車で1時間ちょっとの距離です。江戸時代大ブームだった三重県の伊勢神宮を参拝する「お伊勢参り」の帰りに中山道を通って善光寺に寄るルートが定番だったようです。

「遠くとも一度は詣れ善光寺」と言われるほど、全国から多くの参拝者が訪れてきた善光寺。善光寺だけ参ると「片参り」になってしまうので、元善光寺もお参りすると、良いと言われています。元善光寺も御開帳しています。この記事を読んだ方が、牛にひかれて善光寺参りで、善光寺まで行って偶然何かに出会えたら嬉しい限りです。

御開帳の詳しい内容や、駐車場、シャトルバスなどの情報は、御開帳特設サイトに載っていますのでご参考にしてください。

善光寺御開帳について

東御市と善光寺の位置関係

関東エリアから善光寺に行く場合は、上信越自動車道を通る場合、わざわざのある東信エリアは通り道です。上信越自動車道の東部湯の丸ICがわざわざの最寄りのICです。一度ここで高速道路を降りて、パンと日用品の店 わざわざと、問touに立ち寄りいただいてから、再び上信越自動車道で長野ICで降りて善光寺を目指していただけます。善光寺周辺には駐車場がありますので、お車でまわることをおすすめします。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にまつわる近隣スポットの紹介

諏訪大社もわざわざから車で1時間ほど(写真と本文は無関係です)

もう一つ歴史好きなスタッフが推したいのが、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にまつわるエリア散策です。4/3の放映で初めて出演した、青木崇高さんが演じる源義仲(木曽義仲)は、東御市に隣接する上田市丸子エリアで有力豪族であった依田氏(よだし)と合流し、当時京都で政権を握っていた平家に対して挙兵したと伝えられるスポットがあり、関連スポットでは「木曽義仲挙兵の地」というのぼりがたてられるなど、盛り上がっています。

(写真と本文は無関係です)

東御市にある北国街道のかつての宿場町であり、重要伝統的建造物群保存地区である「海野宿」に隣接する白鳥神社には、1181年に白鳥神社前に広がる千曲河原「白鳥河原」に木曽義仲勢が挙兵したことが記録されており、平家物語や源氏盛衰記に「白鳥河原の勢揃い」として描かれています。

ここ東信から、当時の有力豪族であった海野氏、祢津氏、望月氏、滋野氏らが馳せ参じ、平家を破った倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いに従軍しています。また4/10の放映で源義仲が源頼朝に人質として、息子の源義高を鎌倉へ送りこんだ際、東信から海野幸氏(うんのゆきうじ)が源義高に帯同しました。

源義仲は、平家を破った後、源氏勢力で一番最初に京都に行き、京都の警護にあたりました。しかし、警護にあたるどころか連れて行った自軍の兵士によって京都の治安が不安定化し、京都から追い出されるように、源頼朝の命令により、源義経に打ち取られてしまいました。その結果、源頼朝の人質になっていた義仲の息子の義高も命を奪われてしまいます。

東信から源義高に帯同した海野幸氏は、主君である義高の身を守るために命を失うことを恐れず最後まで忠誠を通しました。その心意気を源頼朝に評価され、その後、鎌倉幕府にとどまり源頼朝に仕え、弓の名手として名を残しています。

東御市海野宿の現在の様子

あまり有名な観光スポットにはなっていませんが、ところどころに史跡が残っており、歴史好きな方なら東御市の海野宿周辺や、上田市丸子を散策するのもおすすめです。七年に一度の善光寺参りの道中にぜひ、善光寺ゆかりの地でもある東信地方にぜひお立ち寄りいただき、パンと日用品の店 わざわざと問touにも遊びに来てください!

文責>尾崎 写真>若菜紘之


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