どうして言語は一つではないのか──ベンヤミン&デリダと考える「翻訳」
どうして言語は一つではないのでしょうか? (もし言語が一つだったら、人類のいざこざ少なくなると思うんですよね。)
言葉をしゃべると言えばしゃべるんだけど「違う言葉」をしゃべってるよねという謎について、今回はベンヤミンとデリダの翻訳論から、次回はチョムスキーとピンカーの言語起源論から考えてみたいと思います。
聖書の創世記の「バベル」という出来事
どうして言語は一つではないのか? 聖書では言語がバラバラな理由が創世記の「バベル」の物語によって説明されます(この時点で西洋の匂いぷんぷんなんですけど)。
「バベル」は一般的には混乱を意味するとされますが、ヴォルテールによればそれは神の名でもあり、また神の都、聖なる都をも意味するそうです。つまり、「バベル」という名の都市が、「父なる神の、しかも混乱と呼ばれる都の父なる神の名をもつ」(デリダ、3頁)というのです。
人々はバベルという固有名詞を持つ一つの都市で、一つの塔を築こうとしました。それは自分たちが散らばらないように、「一つの名」のもとに集合しようとしたということです。
これを神様は許しませんでした。
「神はおのれの名を与えることによって、あるいはむしろ(というのも、神はそれを何ものにも何ぴとにも与えないのだから)、おのれの名を叫ぶことによって、つまり将来、彼の刻印、彼の印章となる『混乱』という固有の名を叫ぶことによって」人々を罰したのだ(デリダ、6頁)。
「バベル」が、翻訳を課すると同時に禁じたのです。
ただし、この「掟」が有効なのは、読まれる限りにおいて、翻訳される限りにおいてです。原理的に読めないはずの「バベルの掟」を、翻訳して読め!って聖書には書いてあるわけです。ダブル・バインドが神自身のなかにあります。
ベンヤミンの翻訳論は一味違うぜ
私たちは混乱した諸言語を「翻訳」します。いや、翻訳しなければならないのです。あるテクストが「翻訳すべきもの」として現れるからです。(例えばこのnoteの文章も英語とか中国語に訳してくれや!と読み手に主張しているわけです。)
とはいえ、翻訳不可能な領域は残り続けます。その領域とは内容ではありません。内容と言語の「あいだ」です。個々の言語のうちでは触れることはできず、翻訳の際にチラッと垣間見えるような領域です。
翻訳者は、触れられないものに触れようとしている、別な言い方をすれば「理念的に」目指しているのと言えるのです。(「理念」だから現実においてがっちり摑むことはできません。)
翻訳は、諸言語を成熟させます。ベンヤミンによれば、それぞれの言語に種子があり、それが「真なる言語(die wahre Sprache )」を志向し生長していくのです。
つまりベンヤミンは、諸言語が翻訳されることで相互に刺激され、より豊かになっていくのだ!ということを語っているのでしょう。
翻訳不可能なテクストとは、意味を伝達しないテクストである
「真なる言語」、すなわち「純粋言語」によって書かれた最も聖なるテクストは、どのような性質を持つのでしょうか。「意味を伝達する」という意味での「翻訳」ができないという性質を持つのです。
なぜなら、「聖なるテクストの出来事においては聖なるテクストは何ごとをも伝達せず、この出来事そのものの外で意味をなすような何ごとをも言いはしない」からです(デリダ、57頁)。
あなたは一つの署名──ヤハウェ、バベル、ベンヤミン──を翻訳しようとするだろうか、とデリダは言います。
つまり、テキスト=そのもの、出来事ってことでしょうか。予言、約束、命令、名づけ、などが似たようなものとして挙げられます。
(「言葉=現象」、これは「光あれ」と神が言って光が生まれたという聖書的世界観に他なりません。)
あとがき
今回は、聖書チックな言語論でした。僕は英語とかドイツ語から日本語への翻訳をする機会が多いのですけど、ベンヤミンが言うように、翻訳しているときにしかアクセスできない「特別な領域」があるような気がします!(ちょっとスピリチュアルかも笑)
次回は、バチバチに「現代科学」の視点から、「言語の起源」に迫ろうと思います。
なおこの文章は、ジャック・デリダが1983年10月24日18時から東京日仏会館で行った「バベルの塔」という講演の内容に依拠しています。
思考の材料
使用文献 (今回のメインの文献です)
参考文献
久しぶりの投稿でした!!😂 いかがだったでしょうか。
ほとんど更新できていないのに、つい先日noteのフォロワーが100人になっててビックリしました。ありがとうございます🙏
頻繁にとはいきませんが、これからもnote更新していくのでよろしくお願いします!