終わりの終わりと始まり
昨晩の東京四角階段@Clubhouseで、noteになんか書けー、八百字だー、せっかく視点が面白いんだからまとめるんだー、とまで強く強く勧められたので、久しぶりに書いてみる。
正直いま、自分の興味がとっちらかっている。
そもそもの原因がクラブハウスを週一にしてから、音声メディアの入力を増やしたことにある。
音声メディアから世の中の空気を吸ったから、頭の中が入力過多オーバーフローなんだと思う。
これは出力をして、脳圧を下げた方がよい。(^^)
そう言われた気がした。
いま、世紀末(死語)?がまさに、高らかに叫ばれいるような気がしてる。
・シンギュラリティ(AI万能論)
・人新世(環境問題)
・新しい人文学(なんとか思考)
などの世間の受け止め方が、一種の「世紀末ロマン主義」に見えてならないのだ。
Covid19だからしょうがないじゃーん。
というのは、もちろん言うまでも無いんだけどー。
まて、あわてるな、これは孔明のの罠だ。
らららノストラダムスの大予言の子=保坂としては、これが1999年7の月繰り返しとしてみえてしまうのだ。
もちろん、一回ちゃんと終わらせないと、次に進めない。
というのは、保坂も非常に同意することで、いま「終わりの終わり」の作業をやっているように思う。
終わりの終わりは“始まり”だ。
保坂的には文化人類学のキーワード
モア・ザン・ヒューマン
が気に入ってる。
モアザンヒューマン、人間以上。
という感じで、保坂の興味の整理。
どっとはらい。
(申し訳ない700字に満たなかった。)
2021/09/23