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新年早々:ライカの呪い再び、というかカメラの暴力性
正月は家族でバンコクに行ってました。
キャセイパシフィックの香港乗り継ぎ、初日と最終日は完全移動日という弾丸旅行でした。
バンコクでは、富士フイルムカメラのアンバサダーやナショジオ・タイランドの写真家をやっているEさんのスタジオにお邪魔したり、タイで幸せを見つけたNさんに自動車でガイドしてもらったりと、盛りだくさんの旅行でした。
Adobe Lightroom cc のクラウドに苦戦をして、未だ写真に手を付けられてません。
Instagram や Threads にアップしますので、お待ちください。
(と、原稿を書きながら解決した!
なんかしっかり写真データが読み込まれていなかったようだ。)
前回もちょろっと書いたが、いま〈ライカの呪い〉を考察している。
本来なら、写真を撮ることによって得られる幸せを、カメラを操作するという意味に変換して手段を目的化をし、ライカという魔法の言葉で論の飛躍してしまう。
それを保坂は〈ライカの呪い〉だと考えてる。
ありがたいことに、正月から石井朋彦さんが『すべては距離感である』というノートを書いている。
このテキストの胸をかしていただいて、〈ライカの呪い〉を深めていきたいと思う。(^^)
『すべては距離感である』という写真の極意が、人生の極意につながる。これは僕も非常に同意するところだ。
しかしながら、これをカメラを持つ撮影者の立場でまとめてしまうと、〈ライカの呪い〉にとらわれてしまうように思う。
ご存じの通り、カメラは長らく光学兵器とも言われてきた。
最近の米国警察ドラマなどでは、銃を構える警察官に市民がスマホで撮影をすることで対抗する、というシーンがよく見られる。
ペンは剣よりも強し。現代米国ではスマホカメラがもっと強い。
すぐに写真がアップできるSNS時代において、カメラを持つ撮影者の立場はインフレーションするばかりだ。
撮る/撮られる、という関係は絶対的でひっくり返ることはない。
これはカメラの暴力性だと、僕はずっと考えてきた。
石井さんの『すべては距離感である』という良い言葉が、本人はそんなつもりは全くないだろうが、ライカという言葉が全てを持っていく。
〈ライカの呪い〉によって、“撮影者”という立場からの距離だけに意味の変換、論に飛躍してしまい、撮られるものの立場、距離が透明化、不可視化、論から抜け落ちてしまう、ように僕は思えた。
これこそカメラの暴力性、〈ライカの呪い〉。
もしかすると、自分からの距離を測ってしまうレンジファインダーの悪夢かもしれない。
もっと言うならば、外付けファインダーで、目測で、ピンボケでもいい、アウトオブフォーカスでもいい、と石井さんが言い出したときに『すべては距離感である』の語り方、僕らの聞こえ方がまた変わってくる気がする。
どっとはらい。
2025/01/09 12:37