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『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』を読みつつ、前-科学的思考について考える

カルロ・ロヴェッリ氏の著書カルロ・ロヴェッリの科学とは何かが発売開始になったということで、さっそく入手してみる。

目次を眺めてみると、最後の章である第11章の章題が「前-科学的な思考」とあり、しかもその中に「神話-宗教的思想の本質」と書いてある。ここは自分の趣味に正直に、まずは第11章から読み始めてみる。

この本でロヴェッリ氏が問いかけ、呼びかけていることのエッセンスが、この第11章にも書かれている。すなわち、次の一節である。

空虚な確かさに閉じこもるのか、あるいは、知の不確かさをうけいれるのか[…]後者の道を選ぶなら、地球のように空虚に宙吊りになり、堅固な根のない好奇心に身を委ねなければならない。」

カルロ・ロヴェッリ著 『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』pp.240-241

確かさと、不確かさ

堅固な根と、宙吊り

この対立関係が立てられている。

ここでロヴェッリ氏は「科学」を、堅固な根ではなく「宙吊り」の方を選ぶことであり、確かさに留まるのではなく「不確かさ」を行く道であるとする。そして「わたしとしては、確かさよりも、不確かさの道を選びたいと思う」と書かれている(カルロ・ロヴェッリ著 『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』p.241)。

この科学観との対比の中で、ロヴェッリ氏は「確かさ」や「堅固な根」の側に「宗教的思想の本質」としての「神話」を置いている。

「いまから三千年前、人類は[…]不動の真理に基礎を置く思想の体系を構築した。そして、今度はその真理を守るために、規則、禁忌、権力関係の複雑な体系が編み出された。だが、現実とは変化そのものであり、何世紀もの時の流れは、政治的、真理的、概念的な枠組みを根底から変えてしまった。」

カルロ・ロヴェッリ著 『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』p.239

「不動の真理」なるものを何かに設定しつつ、その不動性や真理性を否定しようとする異端者たちを組織的に罰し排除する組織をイメージしつつ「宗教」や「神話」ということが論じられる。この場合でいう「神話」なるものは「不動の真理(堅固な-確かさ)はこれですよ。他は嘘ですよ」と言ったり書いたりする言葉だ、ということになる。

ここだけ読むと、特にレヴィ=ストロースの『神話論理』などで展開される神話的思考の”分節を組み替えるダイナミックな動き”のことを思うと、このロヴェッリ氏の”確かさを固める”神話の理解は一面的で部分的に見えてしまうが、大丈夫である。

ロヴェッリ氏は次のようにも書かれている。

「人類はおそらく十万年以上も前から言葉を用いて会話していた[…]。それにたいして、文字の痕跡は、もっとも古くても六千年前のものしか残っていない。文字を使うようになるまでの十万年(ひょっとしたら百万年)、ヒトがなにを話し、いかなる概念的な枠組みを試行し、何度にわたり考えを変えてゼロから再出発してきたのかは、おそらくこの先も、けっして判明することはないだろう。もし、いつの日かこのテーマについて新しい発見があったなら、わたしたちはあらためて、深い驚きに打たれるはずだ。」

カルロ・ロヴェッリ著 『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』p.232

ここで人類は文字を使う前に、「ひょっとしたら」文字以前に百万年も、声だけで会話をしていたのではないかと書かれているが、これについてはダニエル・エヴェレット氏の本なども参考になりそうである。

同じ言葉といっても、音声、文字、手書き、印刷、画像、スクリーン、対面、非対面、放送、双方向…などなど、その物質的媒体(メディア)の多様な組み方によって、意味分節体系の動的、静的な特性もまた大きく左右されるのではないか、と個人的には思う。

この点で、3万年前の狩猟民の声で考えるのか、1万年前の農耕民の声で考えるのか、それとも三千年くらい前の都市の人々の文字で考えるのか、それによって「神話」の言葉ということがどう分節されるかも大きく、時に真逆に変わってくる。

前に引用したところでロヴェッリ氏が書いている「神話」というのは、あくまでも、この六千年前以降に始まった文字の時代を数千年経た後に書かれたもののことなのであろう。

そしてなんといってもおもしろいのは、ロヴェッリ氏が、文字以前の言語的思考についてはよくわからず、新しい発見があれば深い驚きに打たれるはず、という意味深な言葉を記されていることである。

* *

実は(と個人的に思うのだが)人類学者のレヴィ=ストロース氏がモデル化し記述しようと試みた人類の野生の思考神話的思考、今日の人類学の分野で改めて注目されている「アニミズム」の思考というのは、ロヴェッリ氏のいう「十万年以上も前から言葉を用いて会話」の残響を、そこに聞き取ることができるものかもしれない。

そこで「神話」は、確かさを固めようとしつつも、常に発生しつつある、柔らかい意味分節システムの揺らぎのようなものということになるだろう。

例えばロヴェッリ氏が今日のアニミズムなどを読まれると、まさしく驚愕されるのではないか、と思う。

実は、ロヴェッリ氏といえば、すでに『世界は「関係」でできている』でナーガルジュナ(龍樹)の『中論』のレンマの論理に言及したり、ものごとのを主観/客観、上/下、内/外、といった二項対立関係の両極のどちらかに還元しないで思考することの重要性を指摘されているので、話が通じるのは速そうである。

ちなみにロヴェッリ氏が”確かさを固める”宗教的神話について考察する中で、ジュリアン・ジェインズ氏の『神々の沈黙』を参照されているのも面白い。

この本の話もまさに、固まらない意味を固めようとし不確かな意味を確かにしようとするという人類の営みの姿の変容過程を、音声、音声の記憶、文字、そしてなにより主語の立て方や概念の組み合わせ方、意味分節体系の構造化の仕方、といった物質的媒体に残された痕跡から辿ろうというものである。

このあたりの話は、ティム・インゴルド氏の『ラインズ -線の文化史』の問いかけとも通じるところがある。

いずれにしても、意味分節システム動かしつつ止め、開きつつ閉じるというようなことが科学的思考前-科学的思考も含む人類の「思考」の力の鍵を握るものとして注目されていることがとてもおもしろい。

絶対無分節からの分節化の動き。

この動きを動かしたり止めたりする媒体、と仮に呼びうるような諸々のモノやシンボルの組み合わさり方がどうなっているのか。

そこからどういうイメージ的にして言語的な意味分節システムが無数に現れては消えているのか

このようなことを少しでも仮設的に理解することは、人類のひとりひとりが多種多様な「コミュニケーション」(などという言葉ではとてもひとまとめにできないようななにか)をくぐり抜けていく上で頼みの綱になるような気がしてならないのであります。

などと書きつつ、実はまだ第11章以外を読んでいないので、『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』を引き続き読みます

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