精霊の王は人界と異界の媒介者である -中沢新一著『精霊の王』を精読する(3)
中沢新一氏の著書『精霊の王』。その第二章「奇跡の書」、第三章「堂々たる胎児」を読んでみる。
第一章「謎の宿神」では、宿神が蹴鞠の精霊、「鞠精」として姿を現した。それが第二章「奇跡の書」では、今度は宿神が能楽の「翁」として姿を現す。
幽玄の世界に入り込むと同時に、それを言葉によって理論化した金春禅竹。その善竹の筆による『明宿集』には「「翁」が宿神であり、宿神とは天体の中心である北極星であり、宇宙の根源である「隠された王」であるとの主張がはっきりと書きつけられて」いるのである(中沢新一『精霊の王』p.31)。
宿神は、鞠精だったり、翁だったりする。
さらに、それだけではない。
宿神は、村の内外の境界を司る神として祀られる場合もあれば、諏訪信仰では天と地あるいはこの世と異界を媒介し、結びつける強力な神「ミシャグチ」として祀られてもいる。『精霊の王』第三章「堂々たる胎児」は諏訪のミシャグチの話である。
この精霊の王は、関東、中部、そして西日本の各地まで日本列島の各地で、同じような「サの音」と「カ行の音」を組み合わせた名で呼ばれ、また、さまざまな姿で現れる。
「考えられるのは、「シャグジ」の音で言い表される何か特別な意味内容についての思考が、かつては列島上の広い範囲で行われていたのではないか、という仮説であろう。」(中沢新一『精霊の王』p.45)
この「シャグジ」の音で呼ばれる神、宿神は、「列島上に国家というものが形成される以前の、古層に属する宗教的思考の痕跡」なのではないかと中沢氏は論じる(p.57)。
さらに、話は日本列島を超えていく。この精霊の王と同じような姿、同じような作用を人間の世界にもたらすと信じられる神、はユーラシア全域に、さらには人類の知性に普遍的に出現するのである。
境界性
シュクジンの普遍的な性格とはどういうことか。
それを考えるヒントは、シュクジンの名が「サの音」と「カ行の音」の組み合わせであるという話にある。
今日の日本語でも「さかい」であるとか「さく(柵)」であるとか「さき(先、岬)」であるとか「そこ(底)」であるとか、「咲く」「裂ける」「避ける」のように、「サの音」と「カ行の音」の組み合わせは「境界性」を現す言葉にみることができる。
そしてどうやらシュクジンと呼ばれる神もまた境界性に関わるらしい。
「この神は「サ+ク」音の結合で表現される、一連の境界性や裂開性を示す概念と結びついている。」(中沢新一『精霊の王』p.71)
ここでいう境界性とは、極めて広い意味での境界性である。
シュクジンと呼ばれる神は、しばしば村のはずれの寂しい場所に、村とその外部との境界を守るように祀られている姿から、中心と周縁の対立で言えば、周縁の方に属する神というようにも考えられる。しかしこの空間的な内と外の境界は、数ある境界性のうちの一つである。
シュクジンは村はずれの寂しい場所に限らず、人間の世界の中心に出現する場合もある。そしてシュクジンは、人界の中心を一挙に「異界」へと接続し、異界の圧倒的な生産力を人界へと流入させたり、持ち帰ったりする役割を演じる。
能楽の「翁」は、まさにそういう性格である。
また、地下に根を張り天へと伸びる樹木をつたって現れる「鞠精」も、人界と異界を結びつける。鞠精は放っておくとその力を消耗して弱っていってしまう人界に、異界にみなぎるパワーを運び込んでくれるものと信じられたのである。
人界は区別によって成る
人間にとっての世界は、多数の境界線を引くことによって成り立っている。
例えば、朝と夜、天と地、上と下、右と左、暑いと寒い、食べられるものと食べられないもの、老若男女、などなど、ある事柄をそれと対立する事柄と分けて、そして分けつつペアとしてつないだものが、私たちが日常を、意味ある世界として経験するための枠組みを作る。
無分節の流れに裂け(サ+ケ)目を入れて、ある事物Aをそれ以外のものから区切り出す。
人間にとっての日常の世界というのは、事物がそれ自体の本質によって他のものから区別されると信じられる世界である。そういう世界がそういう世界として存在するようになるのは、その世界の手前で、根源的な分節作用、区別することが、動いているからである。
分節すること、区別すること、裂け目を入れることは、人間にとっての現実世界を、不断に進行する解体プロセス(エントロピーの増大)に逆らって再生産し続けるプロセスを動かす、もっとも基本的なアルゴリズムなのである。
サ音とカ行の音の組み合わせで呼ばれる精霊の王は、まさにこの人間にとっての世界を、未だ人間の世界が分節化される手前のカオスの中から区切り出す作用それ自体のことである。
区別すること・分節作用が止まってしまう?!
この区別する作用、人界を人界として異界から区切り出す作用は、放っておけば自動的に動き続けるものではない、といにしえの人々は考えたようである。
区別すること、分節すること、裂け目を入れること、そうした作用は徐々に力を失っていき、やがては止まってしまう。
区別する作用が止まってしまうのは大問題である。
人界と異界が区別できなくなり、人界が壊れ、異界へと溶け出して、両者が区別できないところにまで流れ去ってしまう。
そうならないよう、区別すること、分節作用それ自体を励起し、生き生きとした人界を常に新たに異界から区切り出し直し続けることが極めて重要になる。
シュクジンはここに出現する。
シュクジンが人間の日常の世界(人界)とその外部(異界)の間に通路を開くのである。
◇
人間の世界は、整然と区別された事物の配列として作り上げられるが、作り上げられると同時にそれは解体、崩壊のプロセスに入る。
そうして次第に活力を失い弱まり古びていく人界に、再び若々しい生命力を注ぎ込むために、人界をその外部へと開き、今一度人界が人界として区切り出される以前の人界とその外部とが未だ分かれていなかった状態に繋ぎ直すことが必要になる。この再接続、別々に区別しながらもつなぎ、通路を開くことによって、そこから人界を新たに再生させるのである。
シュクジンは、人界とその外部(天界でも地下世界でも隣接する並行世界でも)との通路を開く神であり、こちらとあちらの間を往復してパワーを人界へと持ち帰ってくる神である。
そういうことでシュクジンにはこの世とあの世、人界とその外部の世界との間を移動するための交通手段が必要になる。
ここで桃太郎の話になる。
二つの世界の間を移動する中間的存在 -壺に入って水界を渡る子供
初めに紹介した金春禅竹について、中沢氏は次にように書かれている。
「善竹の思考では、つぎのようなアナロジーの連鎖がおこっている。秦河勝を密封した「うつぼ船」が海上に浮かんでいる。その様子は、羊水の中の胎児を守る「胞衣」を連想させる。[…]荒々しくも若々しい生命が、胞衣の船に乗って、この世に向かって漂流してくるというイメージが、その背後にある。」(中沢新一『精霊の王』p.42)
ここで聖徳太子との伝説で知られる秦河勝というのは、金春禅竹もその一員である猿楽者たちのグループの神話的な祖先である。
善竹は、秦河勝が「壺」に入った子供の姿で人界に出現したり、また年老いては「うつぼ船」乗って海を渡り、流れ着いた先で荒ぶる神になった、という話を書いているのである。
「壺」に「うつぼ船」。
この「密封された「容器」に守られて、水界を渡りきってみせる」姿は、まさに人界と異界、二つの世界の間に通路を開き、その通路を通ってこちらかrあちらへ赴き、そしてあちらからこちらへ戻ってくる「精霊の王」の姿そのものである(中沢新一『精霊の王』p.41)。
「中空の容器に密封されていた霊的存在が、殻を破って出現するときには、人の世界にとって恐るべき力をはらんだ荒神となる」(中沢新一『精霊の王』p.41)
昔話でお馴染みの桃太郎が、赤ん坊の姿で「桃」に入って流れてくるというのは、まさにこのシュクジン的な存在の出現の仕方と同じである。
この「中空の容器に密封されていた霊的存在」のイメージは、羊膜(胞衣)に包まれ守られた胎児の姿にも重なる。
そしてこの羊膜をあたまに被ったまま生まれてきた子どもを、特別な幸運を持った子ども、つまり常人を超えて、異界の力に守られ、祝福された存在と見なす習慣が、ヨーロッパにもあるというのである(『精霊の王』第四章 「ユーラシア的精霊」)。
区別すること、そして区別しながらも、その区別される二項を付かず離れずの対立関係に保ち、そして両者の間を行ったり来たりしては「あちら」から「こちら」に生命を躍動させる力をもち帰ってくる両義的媒介者の活躍を描くこと。それは人類に普遍的な野生の「神話的思考」に見られる普遍性の高いパターンである。その辺りの話を徹底して追求したのがレヴィ=ストロースである。
レヴィ=ストロースも非常に面白いので、また別の機会に精読してみたい。ちなみに、すでにいくつかnoteを書いたことがあるのでご参考にどうぞ。
※
日本列島の各地で祀られた「サの音」と「カ行の音」の組み合わせで表される「中空の容器」に入った「精霊の王」は、まさにそういう神話的思考が生み出した両義的で双面性を持った媒介者である。
そして猿楽の「翁」もまたその系譜に連なる媒介者なのである。
「猿楽は、ある特殊な空間の感覚を主題にした芸能なのである。その空間はあの世(他界)の余韻を保ったままこの世(現実世界)に出現をとげている、高次元のなりたちをしている。その空間には若々しい、そして荒々しい生命力がみなぎっている。その生命力は胞衣や壺やうつぼ船の皮膜によって守られていることによって、傷つかない。」(中沢新一『精霊の王』p.43)
人界と異界の間を、中空の容器の中に入って、容器に守られて行ったり来たりする両義的媒介者は、異界から人界へと「生命力」をもたらす。
この生命力。
狩猟採集を生業の中核にする社会では、森の動物や植物を増やす力ということになるし、定住農耕を生業の中核にする社会では、耕地のみのりを増やす力ということになろうか。
サナギは「サ」プラス「ナグ・ナク?」
日本列島では、いわゆる大和王権が成立する数百年も前に、すでに農耕が広まっていた。弥生時代である。
ユーラシア大陸の農耕技術が最初に九州北部に伝わって以来、国家以前の農耕民たちが、数百年をかけて東へ南へ北へ点と点を海路で結びつつ農耕文化を伝えていったらしい。
シュクジンが国家=大和王権以前からの神だということになれば、それは直接には弥生時代の信仰の痕跡ということになるだろう。もちろんシャクジンの御神体として縄文時代から伝わる「石棒」が祀られたりする場合もあることから、シャクジンの由来は縄文時代にまで遡るとも言えるかもしれない。何より弥生の農耕社会は縄文文化とのハイブリッドである。
弥生時代の稲作儀礼といえば、国家形成の直前には首長霊の祭祀という形を撮るようになるものの、それに先行して、未だ集落内の階層分化が進まない頃には集落全体で自然や大地の生命力そのものを祀っていたらしいと考えられている。
そこで祀られた神は、人界から異界へと「中空」の乗り物に乗って出かけていって、異界の生命力を人界へと持って帰ってくる存在、後のシュクジンのようなものだったのかもしれない。
ちなみに首長霊祭祀以前の弥生の祭祀とへば、幅広に作られた青銅製の武器形の祭器や、それこそ大きな石棒や、銅鐸など、地域によってさまざまなものが知られている。
◇
このうち特に「銅鐸」は面白い。
銅鐸の古い呼び名は「サナギ」であるという。
サナギというと、今日の私たちは虫の蛹のことだと思っているが、実は虫の蛹をサナギと呼ぶのはその姿が銅鐸に似ていたからだという説もある。つまりサナギの本家は銅鐸で、今日一般的な虫のサナギの方はたまたま銅鐸に”似ていた”からサナギと呼ばれたということである。
ちなみに虫のさなぎと銅鐸のサナギが似ているのは、その形についてだけではない。機能もまたそっくりなのである。
虫のサナギは、虫の生命を守り、そして幼虫時代とは大きく異なる姿へとパ虫を変身・パワーアップさせるための容器である。
そして銅鐸もまた、そういう中空構造のものであり、おそらく弥生の稲作農耕民たちにとっても極めて切実だった稲の生命力・水田=大地の生産力を地表へと引っ張り出して励起するために、異界の力を人界へと引っ張り出してくるための媒体だった可能性もある。
何よりサナギは「サ音」と「ナク?/ナグ?」の組み合わせである。
「サ」はシュクジンとも通じる音である。
そして「ナク?/ナグ?」は、弥生時代にどういう音だったのかよくわからないが「鳴く」や「凪ぐ」や「薙ぐ」にも通じる音の可能性がある。
鳴く、凪ぐ、薙ぐ。いずれも振動と、その振動を安定させることに関わる言葉である。うねる波がなぐ、風に揺れる草原を薙ぐ、そして荒れる呼吸をリズミカルな音にする「なく」。
異界の強力な生命力は、欲しい。
しかしそれは下手に手を出すと、荒ぶる危険な破壊力にもなる。
雨乞いをしても台風が来てしまっては、全て吹き飛んでしまう。
核分裂のエネルギーが欲しいからといって無闇に「爆縮」してしまっては人類が滅亡する。
凍結防止に冬の水道を小出しにしておくように、自然のパワーを人界の再生産に寄与する平和的なエネルギーのレベルに抑えながら、人界の森や田畑に注ぎ込まなければならない。そういう時に「サ」を「ナグ」こと、つまり境界を産業プラントの弁のようにうまく制御することが必要になる。
「サナギ」はそのための神話的な調整弁として役に立つといこうとになろう。
何より銅鐸は心地よい金属音で「鳴る」ものであったという。
「サ」の音で呼ばれる境界が開き、どっと押し寄せる激流を、コロコロと心地よく水田に注ぐ湧水の流れのようなものに変換すること。
リズミカルで穏やかな金の鳴る音と、異界からちょうどいい加減で流れ込む生命力。いにしえの人の神話的思考力は、この両者をアナロジー思考で結びつけ、「サナギ」として結実したのかもしれない。
なお、この銅鐸の話は私が勝手に書いていることである。
中沢氏の思考は、一挙に縄文の方へ向かっていく。
『精霊の王』の表紙にある縄文の土器もまた、まさにそうした中空の容器、自然界から狩ってきたばかりの荒ぶる肉を人界の食べ物へと変換する中空型のコンバーターだったのである。
関連note
前回のnoteは下記のものです。