意味を生む置き換えを「彷徨わせる」こと−読書メモ『変成譜 中世神仏習合の世界』
前回のnoteでは「神話」の思考ということを紹介した。
神話には、人間が動物たちの暮らす村に迷い込む話がある。動物たちが人間たちのように村をつくり、狩猟し、料理をし、家族の関係を結んだり仲間割れをしたりする。
神話の思考では、人間が動物になり、動物が人間になる。
神話に登場する主人公は、人間でありながら同時に動物であり、またその逆でもある。主人公は人間と動物の境界を超えて、異なるものへと変身する。変身しながらも、なんらかの同一の存在であり続ける。一身に、次から次へといくつもの衣装を纏いながら別の存在へと変身していく。
神仏習合
こういう「変身」という神話的思考は、古くは日本でもひろくみられるものであった。しかもそれは社会の片隅にひっそりと埋もれていたものではなく、国家の中心にまで及んでいた。
「変身」のための儀礼について、山本ひろ子氏の『変成譜』が圧倒的におもしろい。ある何かが他の何かに成ること、変わること。もともとの存在と連続した同一性を持ちながらも、別のなにかに成る。生者から死者へと変成し、そして死者から新たな生者へと変成する巡礼の儀礼から、天皇の即位の際に行われた「即位灌頂」の話まで、この国土で繰り広げられた「変成」の驚異が蘇る。
興味深いのは、この「変成」を論理的に説明し、儀礼の場で演じようとした試みが、神仏習合の形をとったことである。
神仏習合というのは、日本古来からの八百万の神々を、大陸伝来の諸仏と「同じもの」として扱うことで、神々を理解し、神々とコミュニケーションをとる技術を構築しようとしたものである。
日本古来の神々を、仏という宇宙の摂理と直結した力がこの国土において具体的な姿をとって出現したものと考える。「垂迹(すいじゃく)」という考えである。
神の概念を表象する
古来、日本では神々がしばしば蛇の姿をとって現れると考えられた。このあたりの話は吉野裕子氏の『蛇』がとても詳しい。
四肢を持たない蛇は、まずその形からして他の動物と異なっている。いわば動物という概念の「外部」との境界を体現したような姿をしている。脱皮して抜け殻を残してみたり、大きな獲物を丸呑みにしたりする生態もまた、他の通常の動物や、人間レベルの存在を遥かに超えた力を、人の目の前に引っ張りだして体現しているように見える。
人間の日々の暮らしのすぐ隣に居りながら、「外部」を緊張感とともにありありと押し付けてくる蛇。
未知のものを既知のものに「置き換えて」理解する癖をもった人類にとって、この身近で謎めく両義的存在としての蛇は、その他のいろいろな不思議な謎を「それに例えて理解する」ための、とても使い勝手の良い「既知」であったようだ。
蛇に例えることで、世界を動かす不思議な力を理解する。
蛇が特に便利なのは、その両義性である。
蛇は、その毒で一瞬にして人の命を奪う悪しき災いを象徴するものでもあれば、全身脱皮して生まれ変わるように見えるその生態は、圧倒的な再生の力を象徴するものでもある。蛇は生と死という対立する項を一身に、同時にあわせ持つ両義的な存在である。
生と死のような真っ向から対立するふたつの極のあいだでの「変容」を体現するもの。その変容を、同一性の連続を侵犯するイレギュラーな事件として受け取るのも人間であり、同時にアンビバレントな対立を超えて死を生に転じる不思議な力の可能性を見出すのも人間である。
両義的存在に例える
生と死、破壊と生成をあわせ持つ両義的な力。
昔の人にとっては、いや、現在の私達にとってもそういう破壊力であると同時に生成力であるような力は容易に理解できない代物である。それはとにかく圧倒的で、人界の日常の外にある、恐ろしいなにかである。それとどう折り合いをつけてよいかよくわからないが、しかしおそらく人間の存在自体がその破壊的生成力に依っているらしいなにか。
そういう謎でありながら無視できないなにかを「理解する」ために、蛇は便利なのである。
理解するということは、未知を既知に置き換えてみることである。これは私達がいつも何気なく、ほとんど無自覚にやっていることである。辞書なども未知の言葉を、既知の言葉の組み合わせに置き換えて理解しようというものだ。
自然の圧倒的な破壊と生成の力を、蛇で象徴してみる。
そうすると、あまりに謎だった自然の両義的な力は、「蛇のようなもの」として、なんとなく身近な、人間が関与しうる事柄のように見えてみる。
とはいえ「蛇」もまだ依然として、人間の願いどおりにうまくコントロールできるようなものでもない。酒で酔わせて退治する、というあたりが現実的なところだろうか。
蛇より先へ、より確実なものに置き換えたい
古来の農耕社会にあっては、自然の力をコントロールし、破壊的側面を抑え、生産的な側面を引っ張り出すことこそ、その宗教的な権威にとって最重要の課題であった。
とはいえ、祈祷がいつも期待通りの「成果」を産んだように見えるとは限らない。いくら祈祷しても雨が降らないこともあるし、降りすぎて洪水が生じることもある。祈祷が効かないとという印象をもたれることは権威に関わる。
そんなとき、この国土にあふれる様々な神々、しばしば蛇の姿をとる神々を、大陸伝来の仏教の経典にあった諸仏の関係のネットワークの中に置き換えてみるというアイディアをひらめいた人たちが居たのである。
神々を仏に置き換えてみることで、災いを引き起こす神々の力をよりハイパワーな仏の力で抑えたり、より前向きな構成力にあふれた仏の力でなだめたり、成仏させたりして、逆にうまい具合に生成の力だけをコントロールして取り出し、日常世界の再生産を保証する守り神にしてしまうことさえできる。
置き換えがそこでストップする限界を求める
自然の力の猛威を「蛇」に置き換えて理解しただけでは、どうも充分に「分かりきっていない」という感じがしたのかもしれない。
もしかするとどこかに、もうそれ以上は置き換えを重ねられないような、置き換えがストップする、最終的な限界があるのではいないか、そこまでたどり着かなければ何かを理解したことにはならないのではないか。
避けたいのは、中途半端な置き換えで、理解したつもりになって停滞してしまうことである。置き換えていくことを、いつまで繰り返せばよいのか。限りなく「正解」に近い、最終的な置き換え先というものがあるのではないか。そんなことを考えてみたくもなる。
それは、自然の中に隠れた法則としてあるのか?
それとも、神の言葉を伝える書物の中に文字で書かれてあるのか?
先祖伝来の「これはあれだよ」といった類の伝承の中にあるのか?
いずれにしても最終的な置き換え先は、日常の意識や言語では直接把握できない隠されたものである…はず、と考える。
それは隠されて入るが、どうにもならない気まぐれな謎ではなく、秩序をもった言語のような体系をなし、しばしば法や命令の形で記述されている…はずであると考える。
そうして適切な「コミュニケーション技術」としての儀礼的な身振りや音声、文字を用いることで、現世にありながら、この隠された秩序の言葉とリンクしたり、同期をとったりすることができる…はずである。おそらく弘法大師空海という人は、このあたりのことを理解し尽くしており、一挙に体系を形にして見せることができたのであろう。
おわりに
この世はこの世のままで自足しており、これ以上はどうにもならないと考えるのか。それとも現世とは異なる所に、あらゆる謎を説明し言語的にコントロールできる、最終的なコードがあるのではないかと考えるのか。
前者から後者への変容は、古代の日本人が文字で書かれた真理というものを仏典を通じて知ったときに始まり、空海の時代にひとつの極に達したのかもしれない。
この極に達した所には、ふたつの道が残されている。
第一の道は、最終的な置き換え先(とされるもの)への置き換え儀礼を反復しつづける道である。それは同じところを回り続けるようなものであり、そのコース上に無い他の置き換えの可能性は顧みられることがなくなる。
第二の道は、暫定的に最終とされるところから、さらにその先、その深層、深奥へと、他の置き換え、他への変容の余地を探し続ける道である。どこかのゴール、最終形態に向かうことを目的とした変容ではなく、どこへゆくかもわからないまま変容し続けること自体を目的とするような変容。
この数百年で、科学的知性が宗教的な知を圧倒したかに見えるのは、たまたま宗教的知性が第一の道にはまりこんでしまった時代に、科学的の方がうまい具合に反復の道を踏み外し、第二の道へとさまよい出てしまった為であるかもしれない。
しかし、そういう科学的知性によって開かれた現代の私達の世界が、そのまま自動的に第二の道を歩み続けることができているかというと、そうでもない。ある程度体系化された科学的な知の体系は、第一の道をぐるぐると回り続けることもまた許すからである。
そんなとき、一度は科学によって吹き飛ばされたかに見える宗教的知性の中に、第二の道へと「踏み外し」てゆく姿をみることは、なんとも魅惑的なことである。
そしてなにより、第二の道をさらにさらに踏み外し続けながらも、置き換えを、「変成」を止めないということが、人類の知というものがひとつの生命として生きているということなのであろう。
おわり