猫の恩返しが、絶対に迷惑行為でなければならないその理由
『猫の恩返し』が絶賛放映中、ということで思う所をツイートしてみた。
おそらく20年位前にはじめて手にした中尾佐助氏の『栽培植物と農耕の起源』という岩波新書。その帯が、宮崎駿監督の言葉であった。
栽培植物の起源というのは人類の神話のメインテーマのようなもので、レヴィ=ストロースの神話論理の分析も、『生のものと火を通したもの』『蜜から灰へ』『食楽作法の起源』と、このテーマの周りを回っている。
植物の栽培というのは食べられる植物を他の植物とは異なるものとして、植物全般から区切りだす。この区切りだすということが、自然と人間を区別する。栽培植物の起源は、単に食べ物を効率良く得ようという経済的な問題だけでなく、自然と文化の対立、人間と生き物の世界の対立が生まれる瞬間を含んでいる。それはつまり人間の世界なるものの意味が、そうでないものとの区別において溢れ出す瞬間である。
人間の世界とはなにか?
それは人間の世界ではないもの「ではないもの」である。
宮崎監督はこのある意味恐るべき瞬間のことを考えているのかと、勝手に想像しては、その作品を改めてまじまじと見るようになった。
宮崎監督が描く二つの世界が、「人間」の世界と、精霊的なものたちの姿で視覚化される「自然的なもの」であること、その接触面で、人間と精霊がすれ違いつつ出会い、そして分かれる。そうして後には、少しだけ成長した人間が残される。ことによると精霊の側も少しだけ成長しているようにも見える。
そんな作品たちの後で、とりわけ圧倒されたのは『風立ちぬ』であった。
『風立ちぬ』で、空を飛ぶ飛行機が残す飛行機雲は、何らかの二つの世界の接触面の存在を知らせる。しかし、そこで接触している二つの世界が何と何なのか、それが様々に解釈できる。
戦争と平和、科学の創造力と破壊力、生と死、地上と天空。あるいはそのどれでもないのかもしれない。
他の作品では、何と何が対立しているのか、目に見えてわかるものが多い。そこで「人間と自然」と総称できる二つ世界は、例えばトトロと子どもたちだったり、山犬の姫と先住部族の最強の男子だったり、魔法で老婆にされた帽子屋の少女であったり、猫の命を助けた少女だったり、という媒介者たちによってつかの間ズレつつも繋がれ、またその繋がりが切れるとともに、少しだけマシになったそれぞれの世界が生き続けていく。そこにめでたしめでたしという感じが残る。
もし猫の恩返しが迷惑行為でなく、心底ありがたいものであったら、主人公はそのまま猫の国に行って終わりである。主人公は帰ってこない。そうなれば、人界と精霊的な世界を区切りだすことで、人間の世界に新たに息吹を吹き込むということはかなわない。猫の恩返し、猫が心底喜ばれると信じて行っていることは、人間にとって迷惑でなければならない。なぜならそのことが、人間の世界とはなにであるのかを人間たちに思い出させる、いや、始めて気づかせるのであるから。
その点、『風立ちぬ』はめでたしという感じがないまま、こつ然と話が終わるように見える。媒介者である飛行機は、山の中から不意に現れたりしない。それは人間が何年もかけて、失敗を乗り越えて、必死に作り出した工業製品である。人間が媒介者を作ろうとする。その媒介者は、つかの間、いくつもの二つの世界のペアの影を見せたかと思えば、死とともに堕ち、飛べなくなる。
そこには媒介の試みのあとに、果たして成長した世界が残されたのかどうかもわからない。
人間の世界をそうでない世界から区切り出し続けるプロセスは、ことによると進歩でも成長でもなんでもなく、ただ永遠に「区切りだそうとする」衝迫があるのみではないか。
人間の世界とは、人間の世界ではないもの「ではないもの」である。という、恐るべき「無意味さ」の深淵を覗き込みながら、それでも人間の世界を区切りだそうとする人類を賭けたプロジェクトを、ひとつの象徴の相で描き出しているようにも感じたわけである。
おわり