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区別・分節作用それ自体の象徴としての"精霊"へ -中沢新一著『精霊の王』を精読する(4)

中沢新一氏の著書『精霊の王』を精読する連続note。その第四章「ユーラシア的精霊」と第五章「縁したたる金春禅竹」を読む。

(前回はこちらですが、前回を読んでいなくても大丈夫です)


精霊の王というのはその名の通り「精霊」の「王」である。

精霊には古今東西色々なものが居り、人類によってさまざまな名で呼ばれてきた。精霊は多種多様でさまざまな名を持っている。

しかし、そうした精霊たちの間には、違い=差異が際立つばかりでなく、同時に相通じるものがある。特に精霊の「王」、数いる精霊たちの中でもとりわけ強い力を持つと考えられる親分というか大将というかグレートマザー的な精霊となると、その力の作用の仕方には古今東西、時代と地域と言語文化圏を超えてよく似た作動パターン=ダイナミックに反復するリズムとそれが描き残す痕跡としての"構造"をとる。

それはおそらく時と場所を超えて、人類=ホモ・サピエンスの生命+神経システム+言語システムのハイブリッドが図らずも動き示してしまう基本的な動作のパターン、あるいは癖のようなものだ。

区別する・分節する

精霊は、精霊の王は、人類の「心」が作り出している。ちなみに、ここでいう「心」は、物と心の対立関係の一方の項としての心のことではない。この「心」はホモ・サピエンスの生命システム+神経システム+言語システムのハイブリッドとして記述される統合的なシステムのことである。

このシステムはシステム自身とその外部環境とを「区別する」ように働くことでシステムとして動的に自己を再生産し存立し続けているという外観を呈する。

そして人類が言葉のシステムに託して語る物と心の対立もまた、この「区別すること」の多様なミクロシーケンスが生産する無数の区別のうちのひとつなのである。つまりこのシステムの作動に先立って、ある事柄が物か心か、外か内か、などなどと、何事かを互いに区別される二項のどちらに帰属させるべきかを論じることなどできないのである。

物と心の区別もまた、精霊の息吹が吹き上げた砂煙の濃淡の区別のようなもの。

区別する作用・力それ自体の象徴

日本列島各地で語り継がれてきた精霊的なものについての伝承をめぐって、『精霊の王』ではこれまで、まず初めに蹴鞠の精が、そして能のが、さらに諏訪のミシャグチが登場した。

そして第四章「ユーラシア的精霊」では、ついに日本列島を飛び出して、ユーラシア大陸の反対の端、英国におけるケルト文化由来の伝承と考えられる「胞衣を被って生まれた子供」が取り上げられる。

英国には、出産の時に子供の頭にのって一緒に出てきた「胞衣」を、水難除けのお守りとして用いるという習俗があったという。

なぜ胞衣が水難除けのお守りになるのか?

その理由を語ることができるのが「神話的思考」のアナロジーの能力である。

詳しくは『精霊の王』を読んでいただくとして、要するに、胞衣は羊水という水界を「漂っていた」生まれる前の子供が、水に溺れないように守っていた袋である。この袋には、人間を水界から分離する力がある。そういうものであれば大海を漂う船に乗る者を水界から分離し引き離す力の象徴として、携えておいて損はなさそうだ。

同じ構造の話として童話の「赤ずきんちゃん」も、他ならぬ「胞衣を被った子供」であるという。赤ずきんちゃんの「赤ずきん」は「胞衣」なのである。胞衣に包まれ強烈な分離作用・引き離す力を備えた赤ずきんちゃんは、悪い狼に飲み込まれても、消化されてタンパク質の材料にまで分解されて狼の身体の一部に取り込まれることなく、その腹の中で狼にとっての「異物」として生き延び、そして再び狼の体の外へと二度目の誕生をすることができる。

他にもヨーロッパ各地の伝承には、胞衣を被って生まれた子供は動物と会話する能力があるとか月夜に狼に変身するという話もあるという。

胞衣を被った子供は、人界と異界との境界に密着し、こちらとあちら、人界と異界の間のコミュニケーションの通路を開いたり閉じたりする力があると考えられたのである。

「胞衣をつけた子供は、ものごとを隔てる境界が溶解して、別の存在への変身が可能になる、流動的な空間を本来の住まいとしているのだ。…胞衣をつけて生まれた子供は、まるで妖精のような存在だから、水にも溺れなければ、ものごとを固定に向かわせようとする現実原則からも、自由でいることができると考えられた。…ヨーロッパの「古層の神々」は、胞衣をめぐる象徴的思考から、たくさんの養分を吸い上げていたのである。」(中沢新一『精霊の王』p.83)

ここで中沢氏は「別の存在への変身が可能になる、流動的な空間」を象徴的に(つまり人間の感覚器官と知覚システムで理解できる形に)作り出すイベントとして、能、諏訪のミシャグチ、そして現代の「サーカス」を読み直していく。

そうして第五章「縁したたる金春禅竹」へと入っていく。ここで取り上げられるのは善竹の作である能『芭蕉』である。

『芭蕉』は植物が人間の女性の姿に変身して、僧侶の前に現れる話である。

テーマは"変身"である。それも人間の表層の現実=表層の意識に従属した欺きのための変身ではなく、植物と人間意識があると考えられる存在と意識がないと考えられる存在、あるいは男と女若者と老人、出家者と俗人などなど、人間の表層の現実=表層の意識においては互いに厳然と区別され対立関係に置かれる二項の間での変身である。

「猿楽能はものごとが変容と変身をおこす、境界膜に守られた不思議な時空を現出させようとする芸能である。そのため植物の霊が人間の姿に変身して、ことばを語り出すことなども、ごくあたりまえのようにおこる。」(中沢新一『精霊の王』p.104)

この変容と変身を生じる基体、即ち物質、生命、精神、意識、言語、などなどさまざまな体系性へと分節化していくプロセスにある根源的な無分節の一者の存在を、人間の身と心と言葉を以って感じ取り知覚することこそが芸能がもたらすところの究極のものだというのである。

「即」の論理で、区別することそれ自体の発生の場を開く

金春禅竹がこうしたことを論理的な言語の概念体系の中に浮かび上がらせる際に用いたのが仏教の言葉たち、特に天台本学論の言葉であった。

天台本学論とは「森羅万象を網羅する統一的な存在論を打ち立てようと」する思想である(中沢新一『精霊の王』p.113)。そこでは人間と植物、意識ある存在と意識のない存在、人間の言葉を喋るものと人間の言葉を喋らないもの、そしてありとあらゆる互いに区別される対立関係が、そのように区別され、対立させられる以前、その手前の「存在」を考える。

ちなみに、こうした意味での「存在」の概念について知るには、井筒俊彦氏の『存在の概念と実在性』がとても参考になるのでまた別の機会にご紹介します。

天台本学論は「相即」の論理で対立関係にある二項を一つに結びつける。

そうしてついには煩悩即菩提ということになる。

煩悩(迷い)も菩提(悟り)も、どちらも根源的な存在一者に備わる分節化の傾向が現す多様な表現のあれこれであり、互いに鋭く対立するが、しかしそのままでひとつなのだ、と。

こうした強力な「即」の論理、異なること差異化されてあることこそがひとつであるということである、という形のレンマ的な論理は、仏教の中でも「煩悩」と「悟り」、「迷妄」と「真理」の区別と断絶を強調する二元論的な立場からすると容易には受け入れ難いものでもあるという。

いずれにしても、二元論的な方向にも一元論的な方向にも、どちらにも展開しうる可能性を持った仏教の論理が日本列島に持ち込まれれた途端に一元論の方へと向かったことに中沢新一氏は注目されている。

仏教思想が日本列島で相即の論理の方へといっそう進化した背景には、善竹に受け継がれてきた「宿神的思考」がその好例であるような区別以前、分節以前の、区別がそこで生じるところ、互いに区別される二項対立関係の中の一項としての存在者がそれとして現れ生気を吹き込まれるプロセスを重視した「野生の思考」の躍動を見てとることができる。

「宿神的思考は、もともと縁したたる列島の自然とともに発達をとげてきた。しかもその来歴は、おそろしく古い新石器的思考「野生の思考」にまで食い込んでいる。この思考は諸存在をダイナミックな変身・変容の過程として捉えている。そこではもとより非情と有情の区別があろうはずはなく…」(中沢新一『精霊の王』p.118)

人間でも、動物でも、ある存在者は放っておいてもそれ自体として自ずから確かに堅固にあり続けるわけではない。いにしえの野生の思考を生きる人たちはそのように考えたようだ。確かに、人間たちが自然の中で、自然の一部のようにして生きていた時代のことである。人間と自然の対立、自然と対立する限りでの人間の存在も、人間と対立する限りでの自然物の存在も、日々意識的に気をつけてこれを区切り続けない限り、かんたんに吹き消えてしまうようなおぼつかないものである。

区別以前、分節以前の混沌に直接触れながら、それでいて区別することを止めることなく、互いに他から区別される限りで「それ」としてあるようになる諸事物をそれとして出現させる根源的な意味作用としての呪術を止めないことこそが、野生の思考の人々にとっては大問題だったはずである。

そういう観点からするとさらに面白いのは次の点である。即ち、能や蹴鞠のような芸能は、対立を「即」で一つにする営みを、言葉の体系の中でレンマ的論理の思考によって行うのではなく、実際に人間の身体が動くこの時空の中に開こうとする。

それはことによると、いにしえの「野生の思考」の実践者たちが、まだ文字を用いない声の響のみであった言葉を発しつつ取り行った、天と地を接続しつつ区切り分け、両極の間を緩やかな流路で繋ごうとした「呪術」の気配をも伝えるものであるのかもしれない

この辺りのことは井筒俊彦氏の『言語と呪術』や、さらには折口信夫のコトバをめぐる思考につながっていくことだろう。

この辺りはおもしろいのでまた別の機会に。

続く


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