分別しつつ、分別しない「心」から生じる世界 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(19)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を意味分節理論の観点から”創造的”に濫読する試みの第19回目です!
これまでの記事を読まなくても大丈夫。
今回だけでお楽しみ(?!)いただけるはずです。
このシリーズのエッセンスは下記の記事に書いていますので、ご興味ありましたら参考にどうぞ。
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二重の四項関係はダイナミックな脈動の波紋であり
二重の四項関係が実体として「ある」わけではない
これまでの一連の『神話論理』を読む試みを通じて、私は下記の二重の四項関係=八項関係の図式でもって表層の四項関係の分節を(つまり、感覚可能な事物たちが互いに他ではないものではないものとして分かれること)捉えようとしてきた。
レヴィ=ストロース氏は、四項関係と、四項関係を分けつつ結ぶ両義的媒介項のペアについて、下記の図を描いている。
この図は『神話論理』の続編にあたる三部作『大山猫の物語』『やきもち焼きの土器作り』『仮面の道』のうちの一冊『仮面の道』に描かれたものである。
このレヴィ=ストロース氏の図を参照しつつ、場所と時代を大きく飛び越えて、平安時代のはじめにかの弘法大師空海が記された『吽字義』や、そのベースとなった密教経典に記された二重の四項関係の分節の論理を加味して私が勝手に描いてみたのか上の図1である。
このあたりのいきさつについては下記の記事が分かりやすいと思いますので、参考にどうぞ。
図1は、私という人間が「神話論理を読む」という活動に際して、自分の利便性のために仮に設定した読みの補助線である。これがうまい補助線になっているかどうかは正直よくわからないが、個人的にはそこそこ便利だと思っている。
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図は静的にみえるので困る
図1のような図式にひとつ問題があるとすれば、図が静的、スタティックあるがことが災いし、α未分離→(β分離→Γ結合)の反復→Δ分離のダイナミックな脈動が覆い隠されてしまう危険性があることである。
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この図が固まったまま独り歩きしないよう、ダイナミックな動きが浮かび上がるような記述の方法を模索しなければならない!
神話分析の出発点は、あくまでも目に見え、感覚できる物事の間の差異、対立関係である。これは図1で言えばΔたちに相当する。そして神話の語りのなかでは、Δはもちろん、Γ結合も、β分離(半分離)は、Δたちが不思議な世界を上下に遠近に動き回る大冒険ととして言葉に託される。
語りの中で、Δたちは、動く。旅をする。
木に登ったり、木から降りられなくなったり、危険な動物の力を借りて木から降りたり、カヌーで川を降ったり、空に登って星になったり、上/下、遠/近、水/陸の、分離した二点のあいだをはるばる旅する。
このΔの上下運動や旅こそ、図1のような「読み」をスタティックなものに固めないための肝であろう。
Δたちが二地点のあいだを、二極の間を移動する姿にに改めて注目して、レヴィ=ストロース氏が参照する神話を読んでみよう。『神話論理1 生のものと火を通したもの』のM87「栽培植物の起源」の神話を見てみよう。
冒頭から「星」の上から下への移動と、二重の変身によって幕が上がる。
ここで知識の移動が生じる。
ここで人間たちは”植物を栽培することを知らない者”から”植物の栽培を知る者”へと、いわば変身する。
次に、夫が星の妻を瓢箪に隠し、後に弟に発見される、というくだりが続く。話の本筋からすればこのくだりはいらないようにも思えるが、神話の場合はむしろ逆、このくだりこそ、極めて重要である。なぜなら、ここで複数のΔのペア(つまり妻Δ1と夫Δ2と、夫Δ2とその弟Δ3)が分離したり結合したりする様が描かれているからである。
次に、星のΔ1妻とΔ4義母と一緒にΔa陸/Δb水の境界領域である水辺(どちらでもあってどちらでもない)に移動し、水浴び、つまり半分陸界に半分水界に属する状態にはいる。水辺での水浴びによって、二つのΔのあいだの分けつつ結びつける分離と結合の脈動は、完全に分かれているでもなく完全につながっているでもない、どちらともいえない、どちらか「不可得」な状態になる。
この徹底した”どっちつかず”の中間状態に入ることで、星の妻は更に強力な媒介力を得る。そうして星は今度は「オポッサム」に変身し、「大きな木」つまり地上と天上の中間にあり両界を繋ぎつつ分け・分けつつ繋ぐ中間的な媒介項を駆け上る!
そしてついに、人間たちのもとへ主食である「とうもろこし」をもたらす。
上へ下への大移動である。
ちなみにオポッサムもまた二つのΔの間の中間性を象徴する項であるという。この詳しい話は本記事の後半でまた出てきます。
神話は続く。
天地の媒介項たる「大きな木」を切り倒す。
それによって人間の世界が(この場合は「とうもろこしという栽培植物が存在する人間の世界」が)そうでない世界から分離・分節される。
しかし、この大木の切り倒しは簡単なことではない。
大木に切り込みを入れても、すぐに塞がってしまうのである。
ここで人間はより強力な切断=分離のための力をとりにいくことにする。するいどい斧がこの分離の力を象徴する。ただしこの斧の移動は”置いてあるものをふらりと持ってきました”という具合にはいかない。斧の移動の過程で、少年たちが老人に変身する。若いことと年老いていることは、これまた鋭く対立する二つのΔである。この鋭く対立する二つのΔの一方から他方へ、二人の少年が急激に移動する。
と思ったら、すぐに呪術師が登場し、老人に変身した若者を、元の若者に戻す。若いことと年老いていること、この両極の間での往復運動、分離していたものが結合し(未分離になり)また分離し、そしてまた結合し(未分離になり)また分離する、この脈動こそが重要なのである。
オポッサムと呪術師の若返りの術は、この結合=未分離を作り出す。
するいどい斧という”結合したものを分離する”強い力を出現させるために、この力と対立関係を組むことができるような”はっきりと分離したものを結合する”強い力が必要になる。「結合を分離する強い力」は「非-結合を分離する強い力=分離を結合する強い力」と区別され対立する限りでそれとして出現する。
若者と老人というはっきりと分離したものを結合し”若者なのに老人”という中間的な存在を作り出す「オポッサムを食べること」こそが「非-結合を分離する強い力=分離を結合する強い力」の位置を占める。
こうして斧を得た人間は天地の中間の大木を切り倒す。天地の分離に成功するのである。
そして星も、天空に帰っていく。
変身したり、移動したり
この神話の主人公たちは、変身したり、移動したり、大忙しである。
星:カエルに、人間に、オポッサムに、次々と変身しつつ、天空から地上へ、地上から水辺へ、水辺から天地の間の木の上へ、そしてまた地上へ、最後は天空へと移動する。
星の夫:星との夫婦関係と、母や弟との家族関係を同時に生きる。
二人の少年:若者から、”若者でありながら老人”という対立する両極を二のまま一にした状態を経て、再び若者に戻る。
大きな木:天地をつなぐもの。
この四者はいずれもそれぞれ他ではないある項として、経験的に他と分離できる事柄であり、その点では日常的で経験的な意識のなかで「Δ」の位置を占めることができる者たちである。
しかしこの者たちが変身したり、移動したりを繰り返し、あるAであると同時に非Aであるという両義的で媒介的な存在になる。
この時、神話の言葉は、Δの名を用いて、Γとβを記述する。
すなわち、Δを主語にした場合のその動きを表す動詞としてΓを記述できるようにする。、
そして、対立する二つのΔのどちらにも置き換えることができ=且つ置き換えることができない項として、βを記述できるようにする。
徹底して、Δだけを用いて、Δを動かし、移動させることで、Γを、βを、言葉にする。
こうすることで、”分節されたもの(スタティックにみえる)”を使って、”分節すること(ダイナミックな動き)”のことを表すという、とんでもないことをやってのけるわけである。さらに、こうしてΔでもって記述されたβとΓの動きをひっくり返して、βの動きΓの結果として、今日現に経験的に存在するΔたちの起源を語る。
β→Γの動きを通じて、人間1.0が人間2.0に、栽培作物を知らなかった人間が、栽培作物を知っている人間へと、変身する。そうして人間2.0の世界が始まるのである。
項は波である
粒子は波動であり波動は粒子である
とんでもないついでに、さらにとんでもない言い換えを試みてみよう。
仮に上の図1で説明するなら、Δ1の値は、いわばΓ1とΓ4の周期が揃い振幅が最大になるときの値によって決まる。Δ2、Δ3、Δ4の場合も同様である。
逆に言えば、Γ1とΓ4の周期がずれていると、双方の振幅が打ち消しあってしまい、Δの値を決めることができなくなる。
三角関数と曼荼羅様の二重の四項関係、いったい何の関係があるのかと思われるかもしれないが、三角関数で二次元座標に記述される波を重ね合わせることで、曼荼羅様のパターンを得ることができる。
これを書いている私が、レヴィ=ストロース氏の構造や密教の曼荼羅を短絡して「同じようなもの」と読むのを訝しく思われる方も多いと思う。
これに関して言い訳(?)をしておくと、実は私は、曼荼羅と構造を直接結びつけているわけではない。ベースにあるのは下図のようなリサージュ図形と呼ばれているものがそうであるような、複数の波の合成のイメージである。
リサージュ図形とはサイン(sin)やコサイン(cos)で記述される単振動する二つの波を合成してプロットした図である。電気通信の勉強をしているとときどきお目にかかるものである。構造にせよ、曼荼羅にせよ、そのパターンを複数の振動がある軸上に投げかける値をプロットしたものと見る。
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まあ、突拍子も無いことを書いていると思われるかもしれないが、自然言語の配列(Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-)を生成できるAI(ChatGPTとか)がの盛り上がりを見せている今日、言葉(Δ)を言葉(Δ)それ自体としてのみならず、あるΔがあるΔとして発生してくるプロセスにまで遡って(つまりあるΔが”意味のある言葉”として発生してくるプロセスにまで遡って)、そのプロセスをコンピュータでシミュレートしようというのであれば、Δだけではなく、Γやβに関するモデルを組む必要がある。
その際、「もの」としての項ではなく、「(波として記述される両極の間の)動き」としての”項”(他と区別される単位)を用いたモデルが、いろいろと可能性を開いてくれそうな気がする。
・・・
はたしてどうだろうか?
過剰な結合からの、過剰な分離
神話の分析に戻ろう。
「M89 栽培植物の起源」をみてみよう。
もうすっかり見慣れた光景である(?)。
主人公「星」が、空から地上へと降りて=大移動してくる。そして人間の男という、星とは著しく隔たった存在と「結婚=結合」する。果てしないほどの遠距離に分離した二項が寄り集まって一つに結合するのである。
そしてさっそく「木」が登場する。この場合の木は天/地の分離をひとつに結びつける媒介項である。しかもご丁寧に、この媒介項たる木の足元には「水辺」がある。水辺は、水界/陸界の境界領域であり、水/陸の対立する二極を二のまま一にする。「水辺にあり天地をつなぐ木」は、多次元で分離した両極を別々のままつなぐ媒介項である。
その「水辺にあり天地をつなぐ木」から、とうもろこしが落ちてくる=人間に与えられる。
先ほどの神話とは異なり、M89ではこの木、「とうもろこしの木」、「水辺にあり天地をつなぐ木」はあっさりと簡単に切り倒されてしまう。
媒介項たる木を取り除き、とうもろこしは完全に人間のものになる。こうして現にある「とうもろこしを栽培している人間たちの世界」が、そうで無い世界からはっきりと分離され、めでたしめでたし、となるはずが、ひとつ問題がある。まだ「星」が地上に残っている。
ここでこの神話は一挙に過激になる。
人間の夫と”付かず離れず”(結婚しているが純潔である)’の中間状態を保っていた星の妻が、人間と強引に結合させられてしまう。それに対して星は、人間たちを毒殺することで、こちらも過激に分離を果たす。
付かず離れずの中間状態から、急接近しひとつに結びついた二者が、すかさず急激に分離し、二度と交わることがないほどに遠ざかる。
結合→分離→結合→分離の脈動が、急激に展開し、そして最後の分離のあとに、もう結合することは決してないほどの距離が隔てられる。
しかしそうして、「とうもろこしを栽培している人間たちの世界」が、そうで無い世界からはっきりと分離される。
二極の間の距離が(二つのΔの間の距離が)広がったり縮まったり、0になったり最大化したり、見事に波打って動いている。
次もみてみよう。「M90 栽培植物の起源」である。
水辺での水浴びと大木である。
繰り返すが、水辺は陸界と水界を媒介する領域であり、大木は天地を媒介する領域である。水辺の大木においては、陸界の区別が、天地の区別が、区別されつつ微妙に繋がりあい、どちらともいえない中間領域が滲んでいる。
この神話が面白いところは、この水辺の大木で、動物たちが喧嘩をしていることである。鸚鵡 VS 猿の実を巡る喧嘩である。
別の記事で「さるかに合戦」の分析をしたが、まさにこれ。
樹上の猿と、水辺の蟹、これが対決する。中間領域からの対立=分離を引き起こす。
つづきを読もう。
これは本記事の冒頭で取り上げた神話と同じパターンである。
木を切ろう(天地をつなぐ中間領域を取り除き天地を分離しよう)とするが、簡単には切ることができず、より強力な分離の手段(斧)をとりにいく。ただし、この強力な分離の手段をアクティベートするためには、これと真逆で対になる”強力な分離の結合”をどこかから連れてくる必要がある。そこで登場するのが浦島太郎。老人に変身した若者である。しかもこちらの「老人としての若者」は、元に戻ることができなかった。中間的なまま、分離に捧げられてしまったのである。
しかしそのおかげで、人間たちは天地の分離、「とうもろこしを栽培している人間たちの世界」と「そうで無い世界」との分離に成功する。そうして人間たちはさらに細かく、いくつもの言語集団や部族に分節していく。ひとつのΔが、さらに二つに、二つにと、分離していくことができるようになった。
両義的媒介項
以上の神話に、Δ分離の切り離しが完了するところまで、β→Γの結合と分離の波を打って脈動する様子をみることができる。『神話論理1 生のものと火を通したもの』では、これに続いて他にもM91、M92、M93、M94など、よく似た栽培植物の起源神話が紹介される。
これらの神話では星と結婚していたり、水浴びをしていたりと、Δの四項関係からみれば中間的で媒介的な位置へ”半分シフトしている”人々がまず登場する。
「水辺のネズミ」や「星でありながら人間の妻になった者」といった中間的で両義的な存在が、人々にとうもろこしがなる「大きな木」のことを教える。もとよりとうもろこしはイネ科の草(?)であって、巨大な樹木に実るものではない。この大木はとうもろこしを栽培する人間の世界とそうでない世界が未分離であることを象徴する両義的媒介項である。
この大木は切ろうとしてもすぐに切り込みがふさがるなどして切ることができない。つまり分離しようにもすぐに結合してしまう。
斧を入れたはずの木の切り込みがすぐに塞がってしまう!
これほどうまく「分離と結合の間の往復・脈動」を捉えた象徴もほかにないだろう!
人間がより強力な分離の手段、よく切れる斧や、たくさんの斧を用意する。そしてこのより強力な分離の手段によって大木は倒されるのだが、そこに至る途中で若者が老人に変身するという、浦島太郎的な話がからんでくる。大木での分離が成功する代わりに、まるでそれとバランスを取るように、人間の方で老/若の分離という経験的にあまりにもクリアな分離が短絡結合する。その後、人間たちはいくつもの部族に分かれていった、というオチである。
オポッサム、あるいはネズミ、そしてカメ
これらの神話が木の硬さと茎の柔らかさ、女性と男性、人間と動物、天と地、生のものと火を通したもの、老/若などの対立を組み合わせ、自然/文化、自然/社会の区別、そして文化や社会の側の民族、言語、習慣のさらなる分化の起源の説明へともつれ込んでいく様子にレヴィ=ストロース氏は注目する(pp.245-246)。
特にレヴィ=ストロース氏はオポッサムをめぐって詳細な分析を展開する。南北アメリカの神話では、オポッサムは「(下半身ではなく)鼻で交尾する」とか、「雄がいなくても雌だけで子をつくれる」とか、性にまつわる分節に関して、どちらでもあってどちらでもない曖昧な位置を占める。オポッサムは二重の四項関係の図式に置き換えて言えば、代表的なβ項ということになろう。
β項もまた四項関係をなす。
南米の神話では、オポッサムとの対立項として、しばしば「カメ」が登場するという。M102「カメとオポッサム」をみてみよう。
カメ好き(?)としてはなんとも後味のわるい話であるが、これは神話、こういう分節である。項それ自体(Δ)への感覚的好き嫌いではなく、対立関係の間の移動と変身に注目しないとけない。
このカメは「食べ”ない”と言いながら食べる」。
”ないのにある”。
このどちらだかわからない、どちらか不可得な感じは「ウサギとカメ」でも同じである。うさぎとカメでうさぎに勝利するカメは「遅いのに速い」。
レヴィ=ストロース氏は次のように書く。
食べているのか食べていないのか、遅いのか速いのか、感覚的な区別では鋭く対立する二つの事柄のあいだのどちらだかよくわからない「不可得」になる存在、それがカメという両義的媒介者である。このカメと対立してペアを組む項には、オポッサムばかりではなくジャガーやワニがおさまることもあるという(M100、M101)。
カメと対立する相手方は、経験的に何らかの点で”カメと対立している”ことが明白なものであればなんでもよい。
”カメの相手が何であろうとも”とレヴィ=ストロース氏も書かれている。神話では、”二項が対立関係にある”ということが論理展開の起点になる。ある一つの項それ自体が他の項と無関係に論理展開を起動するのではない。
神話の二重の四項への分離と結合を動かすのは、孤立した個々の項ではなく、ペアになった二項であり、ペアになった二項”の”ペアである。
「親族構造」の両義的媒介性
ペアのペア、対立関係の対立関係・・・。
それによって四項関係が分離しつつ結合し結合しつつ分離する・・・。
対立関係の対立というとなんとも分かりにくい抽象的なことのように思えるが、神話ではこれをごくありふれた日常の経験的な”ペア”の”ペア”でもって記述する。
すなわち、夫婦というペアと、兄弟姉妹というペアである。
婚姻関係において異性の兄弟姉妹を持つ者は誰でも自分と配偶者との関係と、自分と兄弟姉妹との関係に、同時に属することになる。ここで夫婦という対立関係と兄弟姉妹という対立関係、この二つの対立関係が”兄弟姉妹をもちながら配偶者ももつもの”を共有して結びつく。
β1主人公 ー β2配偶者
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β3兄弟姉妹 ー
ここで、主人公β1の配偶者β2と兄弟姉妹β3の間をショートするような結合が生じた時、βの四項関係は、各々のβが他のβと真逆に異なりながらも同一であり、二でありながら一であり、一でありながら二であるという関係に入る。そこでβの四”項”関係の”項”たちはどれがどれだか不可得になる。
各β項は、それが対立させられるβ項”ではない”ものとしてのみ、ひとつのβとして他から区別される。上の図で言えばβ1は、β2でもなく、β3でもないものである限りにおいてβ1なのである。β2、β3、そしてβ4と無関係に、β1がそれ自体としておのずから単独で存在するわけではない。
親族構造といえば、レヴィ=ストロース氏の初期の主要な業績である。
親族関係のネットワークのハブ(ノード)としての個々人は、他の複数の人との関係の中で両義的で媒介的な存在である。ここから後に『神話論理』における両義的媒介項のペア(のペア)へと展開していったとすると、おもしろい話になりそうである。
両義的媒介項の四項関係
神話の分析に戻ろう。M110「栽培作物の起源」を見てみよう。
ここでは星が主人公である。
星は、天上の天体から地上の人間に変身し、姉の婿候補でありながら妹の婿に”変身”し、老人から若者へ変身する。
星は対立する両極の一方から他方へ移動・変身を繰り返す。この移動と変身を繰り返す中で、ひとつのβ項として他のβ項から分離したり(双子の姉の方に求婚するも断られる)、Γの動きで対立する二極の間を繋いだり(姉と結婚するつもりが、妹と結婚する。陸界/水界の境界である「川」に入ったり、2本の足の間を流れる川から作物を拾ったりする)、また引き離したり(ついてきてはいけない、みてはいけないと命じる)、そしてΔ項同士の分離を引き起こしたりする(双子の姉妹の永遠の分離)。
いくつものペアの対立する二極のどちらか”不可得”な「星」の姿は、上のオポッサムの姿と重なるとレヴィ=ストロース氏は指摘する。
「逆の世界」これは図1でいうところのβの四項関係である。
βの四項関係には「未来のすべてに対応するもの」つまり、最終的に外側のΔの四項関係の一角を占めるΔへと分離していく可能性を秘めたものが「すでになければならない」。
オポッサムや星は、この最終的にはΔの二項関係へと分離する二極が、二極へと引き裂かれつつ一である事態を、対立する世界の間の自在な移動によって象徴する(有袋類では、子供はすでに生まれているのに、親の体の中に自由に出入りする)。
オポッサムや星に類するものとしてレヴィ=ストロース氏は「水」や「火」もあげられるとする。
水は一方では「空を起源とする創造的な水」でもあり、他方では「大地を起源とする破壊的な水」でもある。
また火は一方では「破壊的な空の火」であり、他方では「創造的な大地の火=料理の火」でもある(p.272)。
あるいは「双子としての太陽と月」もこの、ある両極に引き裂かれつつ一である項、ある両極のあいだを行ったり来たりして、どちらの極よりなのか不可得なβ項の一角をなしうる(p,274)。
地上に近く暑すぎる太陽の神話を見てみよう。
M120「破壊的な火」である。
経験的には天/地の分離を前提として、地に対する天の側に属しているはずの太陽と月が、地上にいる。太陽と月が、天上のものだか地上のものだか、不可得になっている。(α未分離→β分離)
ここで直接そうは書かれていないが、太陽が地上にあるということは、地上は太陽の熱で熱せられ、暑すぎる状態である。この暑すぎる世界には、まだ人間はもちろん生き物が暮らすのは難しいだろう。つまりこの段階で、まだ経験的な意味で人間が生きることのできる世界が、そうでない世界(人間が生きることのできない世界)から分離されていないのである。
生き物が暮らせない、といった矢先に水鳥がでてくるではないか!と思われるだろうが、この水鳥は経験的な水鳥ではなく、神話におけるβ四項関係の一角である。
「水鳥」は、天/地/水中を自在に往来できる、人間にとっては鋭く対立する両界の間を簡単に往来できる、たいへんな両義的媒介項である。
この「水鳥」が「壺」に水を溜めている。
閉じ込められた水、封じられた水、これは水であって水ではない。
まだ経験的な水がそうであるように天から地へと降ってもおらず、地上を流れてもいない、経験的な水と経験的な非-水とが未分離の状態にある「水」である。
この経験的なΔの側から見れば、分離しているのか結合しているのか「不可得」な状態から、Δたちの分離が始まる。
禁じられているのに、言いつけを守らない。
無理に結合しようとして、分離してしまう(壺を持ち上げて落とす)
怒った相手に追いかけられて逃げ出す。
逃げたのに追いつかれる。
熱を加える”遠隔作用=分離しながらの結合”。
風を送る”遠隔作用=分離しながらの結合”。
そこからの最終的な分離。
分離から結合へ、結合から分離へ。
動き回り、接近したり離れたりを繰り返す水鳥たちと月と太陽によって分離と結合の脈動がみごとに浮かび上がってくる。下の図で言えば、βの四項関係が鍵になる。
四つのβたちは、離れたり近づいたり、一つに繋がったり二つに分かれたりと動き続ける。
そうしているうちにその脈動から生じた波たちが干渉しあい、複雑な波紋の重なり合いを描くようにして、四つのΔそれぞれの輪郭が、他のΔとは区別される限りで前景化してくる。それが見ようによっては曼荼羅のようにも見える。
曼荼羅、人類文化の構造、そして人類が物理現象を記述する際に用いる波の関数。これらは全く無関係な別々のことのようでいて、どうやらひとつのことに繋がっている。そのひとつのこととは、空海が『秘密曼荼羅十住心論』でいうところの「心」、密教の経典で説かれる「心」である。
つづく
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