人類学で関係論をアップデートできるかも
ここしばらく人類学の本ばかり読んでいる。
いや、「人類学」というと領域が大きすぎるかもしれない。最近話題のパースペクティヴ主義であるとか、多自然主義の話である。
特にこのヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』は圧巻だった。
私は人類学についてはまったくの素人であるが、パースペクティヴ主義も多自然主義も、もともと「人間と機械のコミュニケーション」といったことを研究テーマにしていた身としては、とても腑に落ちるところが多い。
人間と機械の関係。それをどう問題にするのか、という問題。
この通常の大学院であれば「博士論文になりそうもない」と研究指導を拒否されてもおかしくないテーマ。これに気長に付き合ってくださった博士後期課程の指導教官から、最大のヒントとして提供されたのが「関係論」の考え方である。
関係論と実体論
関係論、というのは「実体論」と対比される考え方である。
「人間」でも「機械」でも「AI」でもよいが、そういう呼び名で考え始めると、「人間というもの」「機械というもの」「AIというもの」がそれ自体として存在するような気がしてくる。
その名で呼ばれるものは何なのか?
この問いは、応えることを要求する。
では、どう応えるか。
よく使われる応え方の技法は、例えば「人間」のようなコトバを、別のコトバに置き換えることである。「人間とは●●である」という類のやり方である。
人間は考える葦である。
人間は浮草である。
人間は気が狂った猿である。
いやいや、人間は神の論理をコピペしたものである。
この手の言い換えは、探せばいろいろ、いくらでも出てくるだろうし、新しく作ることもできるだろう。
それでは一体、どの置き換えが本当に正しいのか?
・・・・と、問いたくなる気持ちを落ち着かせてみよう。
この「応え方」、その「やり方」そのものについて考え直してみる。
正解は「ある」ものではなく「決める」もの(あるいは決められたこと)
「人間」は、「〜とは」という問いと応えによって別のコトバに置き換えられる。その別のコトバもまた「〜とは」という問いによって次なる別のコトバへと置き換えられる。
この置き換えは延々とつづくのであるが、どこかに、それはとても遠いところかもしれないが、それ以上他に置き換えられない最終的なコトバへとたどり着く「べきである」と考えること。
それが人間というものの、いつも変わらずに保たれているなにか本質的な事柄、「人間の証」のようなものの名前である。
それは「人間とはなにか」といった問いに対する最終的で決定的、他ではありえない正解になる。
置き換えの「さかのぼり」が止まった所が実体
この最終的な、それ以上遡れないものとはなんなのか。
それは本当に、かならずひとつの正解に行き着くのか?
それともいくつもの正解らしきものに分散したままになるのか?
こうした問い方、応え方を支えているのが「実体論」の考え方である。
人間についてでも、機械についてでも、AIについてでも、それをこういう「それ自体として、他とは無関係に決まっている、不変の本質をもつもの」として見るものの考え方を「実体論」と言う。
実体論は「そういうもの」がそれ自体として他のものとは無関係にまず存在していることを前提にして考えを始め、問題を立て、答えを探る。
これに対して、問題設定の前提に実体を持ち込まないほうがよいのではないか、という考えもある。なぜかといえば、煎じ詰めると、実体はそもそも「そんなもの存在しないから」である。実体論が特に害をなすように思われるのは、それが客観的な事物がそれ自体として存在するという素朴な実在論に化けがちだからである。
実体論を、あくまでも「そういうものがあるという設定にしておきましょう」ということである。もちろんそういう設定も役に立つことがある。
いくつかの実体を設定し、その実体の動き方のパターンを設定し、そのルールを共有したうえで、ある種のコトバの組み合わせゲームとして記述の一貫性と整合性を競うことはできる。
そうした記述の妥当性を競うゲームが、観測技術(あるいは後に説明する「実体と錯視される関係の項を区切りだす」技術)と一体となって、人間にとって有用でコントロール可能な対象を創り出すこともある。これは素朴実在論と紙一重であるようみえる。が、しかし、「仮設」であること、「ゲーム」であること、「生産技術」であることを自認し、その他の可能性、その外部もまたあり得ることを予感している限り、それは素朴実在論とは違う。
仮設、ゲーム、生産技術の使用は、実体を「それとして作り出された対象」であると知っている。これを知っている点で、それはすでに「実体論」ではない。
素朴実在論と見紛うほどの実体論は、実体を実体として作り出すプロセスをすっ飛ばして、見なかったことにして、ある実体を、はじめからそれとして存在するとしている。何らかの歴史的な経緯で他の実体から変化し、他の実体を組み合わせて、出来上がったということにせよ。
実体に先立ち、実体と錯視される項を他の項から区切りだす動き
これに対して、実体(というか、実体と錯視される項)をそれとして「作り出す」プロセスを含めて考えようとする立場が「関係論」である。
関係論でいう関係とは、もともとある実体が、後から集まって、連携し、積み重ねられ、組み上げられ、相互に支え合う関係に入るということではない。こういう実体の並べ方を楽しむのは実体論である。
関係論の関係は実体に先立つ。
関係は、「動き」である。
それは関係を作り出す動きである。
関係を作り出すとは、つまり関係を取り結ぶ二つの「項」を作り出すということである。関係論の関係は、関係する項をつくる動きである。
関係の項は、関係に先立って、予め存在する実体ではない。関係とは、予め存在する二つの実体が寄り集まって、二次的に取り結ぶものではない。そうではなくて、ある項を、他の項ではないその項として、相手方の項と区別する動きこそが、項と項の関係を関係づける動きとしての関係である。
しかもこの関係論の「区別する」動きは、目的を持って設計図に従って進行する生産的なプロセスではない。区別はいたるところで、時に従来ほとんど行われなかったような仕方で発動する。いたるところに区別が生じる。ある区別は他の区別にとって、その反復動作を阻害する点で、破壊的であることもある。
こうした区別されつつ関係を取り結ぶ項と項。
そのミクロな二項対立同士の間で、第一の対立関係の第一項を、第二の対立関係の第一項と「異なるが同じとして結びつける」操作。これこそが最初に述べた意味を生じる「置き換え」である。
区別すること、いくつもの区別をすること。そして区別された項と項の二項対立の関係を重ねていくこと。これが意味するということ、記号あるは情報ということの根っこである、と。
多自然主義で関係論をアップデートできるかも
こういう具合いで、関係論は、ある対象が対象として区切りだされるプロセスを問うのであるが、しかし、この対象化のプロセスを純粋に「精神的な」動きとみなす議論に転じてしまうことがある。
つまり一方に、あれやこれやの対象を好き勝手に切り分けて作り出す人間の精神のようなものがあり、他方に、そうした対象によって様々に表象されはするものの、それ自体としてはまったく不変の唯一の物質的な世界が実在する、と。そうすると、この不変で唯一の物質的な世界の有り様は…、表象を生み出す精神の有り様は…というところで、また実体論に回収されていく(回収されていかない、という人もいるが)。
最近の人類学の多自然主義は、まさにこの問題を踏み越えようとする。
従来の人類学では、全人類と全非人類(先住民であろうが、近代化された都市の住民であろうが、人類学者であろうが、獲物となる動物だろうが、家畜だろうが)にとって共通の唯一の実在する自然というものがまずあり、それを様々な多様な文化が、それぞれの表象の体系を使って区別したり、名付けたりする、と考えられてきたという。ひとつの実在にいくつもの表象が貼り付けられる、ということで、これを「多文化主義」と呼ぶ。
これに対して、多自然主義の考えが問に付すのは、最初の想定「全人類と全非人類にとって共通の自然というものがまず実在して…」というところである。多自然主義は、「自然」はいくつもあると考える。自然とは、様々な人類や非人類の各々の身体との関係において、各身体との関係にある自然として関係づけられ、区別される。
ここで自然と身体の関係は実体論的なものではなく、関係論の枠組みで理解される類のものであるようだ。
『食人の形而上学』
関係論の考え方を探る中で、「情報」の観点から、レヴィ=ストロースの『神話論理』を読んでみるということを手探りで試みていたが、ヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』はこの取組に大きなヒントをあたえてくれた。というか、「そうそう、これこれ」という感想である。
『食人の形而上学』は、レヴィ=ストロースの『神話論理』で提示される構造の概念を、ドゥルーズとガタリの「リゾーム」の概念に近づけて、「区別すること」や「つなぐこと」の動態として読む試みでもある。
後期のレヴィ=ストロースが、ドゥルーズーガタリの、とりわけ『千のプラトー』の生成やリゾームの議論と深く重なり合う。リゾームや生成という観点が…レヴィ=ストロースの『神話論理』を解読する際にも、そして今後の人類学の議論を推進していくためにも不可欠であること。(『食人の形而上学』P.361)
と、この話はまた詳しく書いてみたいと思う。
そもそも人間とは…、そもそも機械とは…。
というか「そもそも〜とは」という問の立て方”とは”…。
そして人間という対象、機械という対象を、対象として観察するとはいかなることか。
そして極めつけ、人間と機械を区別するとは…。
昨今盛り上がりを見せている「AI対人間」がらみの議論もまた、このあたりの問いにさかのぼっていくことになるだろう。こうした問いに踏み込んでいくときに、関係論の考え方が足元を照らし出してくれたように思う。
例えば、この久保明教氏の『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』もまた、おもしろいヒントが満載のようである。こちらも詳しく読んでみたい。
いずれにせよ、「機械もまた人間である」という思考を可能にすること。そのための概念を生産すること、こういうことが人類学の領域で試みられているということがおもしろいのである。
一読者としては、しばらく読むべき本がたくさんありそうで、喜ばしい限りである。
つづく