カエルの跳躍で、観念のもつれをほどく -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(55_『神話論理3 食卓作法の起源』-6)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第55回目です。
これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
観念はどのように相互作用するか
グレゴリー・ベイトソンが『精神の生態学へ』の冒頭に書いている、ひとつの問い。
「観念はどのように相互作用するのか」
この問いは、もう何年も、わたしを捕らえて離さない。
観念がどのように相互作用するか。
これは切実な大問題だと思われるのである。
観念の相互作用の仕方によっては、それは明晰さをもたらすどころか、かえって理解を曇らせる暗雲を形成してしまう。なんとも恐ろしい話である。
そういう暗雲と化した観念たちの縺れに対するベイトソンの「”研究促進的”概念」という名付けも相当なものである。促進するどころか阻害しているだろう、と言いたくなるところを、強いて「礼儀を重んじて」「促進的」と呼ぶ。
私たちは日々、
「結局、XXは何であるか?」
という形での問いを問いながら生きている。
いや、日々問うということはないかもしれない。
こうした問いを問うことなく淡々と繰り返すことができるというのが日常性の強みであるとすれば、こういう問いは、むしろ日常性の平穏が脅かされた危機的状況でこそ切実に発せられる。
理解を超える経験を、理解したい、説明したい、言葉にしたい。
そうしたときに私たちはついふらりと「結局、XXは何であるか?」と問うてしまう。
そうしたときに、上に引用したところでベイトソンが書いている「”自我””不安””本能””目的””精神””自己”」のようなものが、ぞくぞくと登場してくることになる。
などと、AからZZに”自我”や”不安”や”本能”や”目的”や”精神”や”自己”が代入されていく。このやり方は、人間が実行したとしても、非常にGPT(Pre-trained Transformer)的である。
ところが、この言葉たちこそ、「その場その場で適当に作られたバラバラの観念」である、とベイトソンはいう。
つまり、「結局、XXは何であるか?」式の問いを深く問えば問うほど、即ちXXからZZへの言い換えの連鎖の中に「その場その場で適当に作られたバラバラの観念」たちを適当に当てはめていけば行くほど、適当に作られたものたちがもつれ絡まり合い、こんがらがって、わけがわからなくなるわけである。こうして「理解を曇らせる暗雲」が形成されるのである。
*
秘密のヴェールを取り除いて真実を明らかにする・・かと思わせる観念たちが、実は理解を曇らせる暗雲となって、どんよりと覆い被さっている。
晴れ渡ったかにみえる空が、実は目に見えない暗雲であった。
なんとも神話的な光景である。
観念のもつれをほどく
ここでレヴィ=ストロース氏が『神話論理』の第一冊目『神話論理1 生のものと火を通したもの』の冒頭に書いていることを思い出してみよう。
観念がつなぎ合わされた命題。
これがベイトソンによれば、しばしば理解を曇らせる暗雲になることもあるというのであるが、この”観念たちの繋ぎ合わせ”ができるようになるためには、前段として、抽象的観念をそれとして「抽出」しておかなければならない。
いったいどのようにして?
答う。さまざまな区別を、概念の道具として、である。
さらに問う。ではその「さまざまな区別」とはなんのこと?
答う。経験的区別である。
問う。経験的区別とは?
答う。生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどである。
理解を曇らせる暗雲がおのづから霽れ、浄心の玉が明らかになり、真如の月もまどかになるように、観念たちの”より集まり方”のありえるパターンをクリアにしておきたいところである。
理解を曇らせる暗雲を徹底的に霽(は)らすためには、「経験的区別」たちが、未だ分かれているとも分かれていないともつかない状態にまで、立ち戻らないと=踏み込んでいかないといけない。
レヴィ=ストロース氏が『神話論理』でモデル化しようと試みた野生の思考の神話の論理は、あるひとつの観念がまだないところからあるようになるための仕組みに表現を与えたものであると言える。
「理解を曇らせる暗雲」をはらす
分かれているとも分かれていないとも分けられるでもなく分けられないでもない。そこから思考を歩み直す。なにやらとてつもないことに思われるが、人類の中には、すでにその歩みを実行している方々がいる。レヴィ=ストロース氏もその一人であろうし、弘法大師空海もまたその一人と言えるだろう。
例えば、空海が『秘密曼荼羅十住心論』や『秘蔵宝鑰』で論じている十の「心(しん)」のさまざまなあり方というのは、この観念たちの”より集まり方”のありえる十のパターンの大枠、として読むこともできる。
もちろん他にも、千年以上前に、いや、一万年以上前には、すでに幾人もの私たちの祖先たちは、観念たちのもつれの生まれ方と解き方を知っていたのではないだろうか(如実知自心)。
あるいは原始仏教、ブッダが説いた最初期の教えにある「二辺を離れる」というのも、このバラバラの適当な観念たちが寄り集まって形成されたもつれを振動させ、ほぐし、理解を曇らせる暗雲を霽らす(はらす)ための秘訣と言えるかもしれない。
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人は、言語を喋る他者たちのあいだに産み落とされるという宿命からして、出来合いの適当な観念をバラバラと与えられるところから思考を始めざるを得ない。
そこからはじめて
「結局、XXは何であるか?」と問い、
「結局、XXはZZである!」と回答を与える。
そうしているうちに理解を曇らせる暗雲に飲み込まれるわけである。
しかし、ここで急いで絶望する必要はない。
人類は太古から、おそらく人間的な言語ということが始まった瞬間から、つまりある何かで別の何かを意味するということを自在に設定できるようになったときから、この暗雲を霽らす方法を知っていた可能性がある。
その方法とは即ち、問いと答えの連鎖がもたらす語から語への言い換えの連鎖を、どれかひとつの適当に作られた出来合いの観念を終端装置にしてブツリと切ってしまわない、ということである。
どれかひとつの適当に作られた出来合いの観念を終端装置にするとは、すなわち、この終端器として設定された語よりあとに新たな鎖を連らせない、次の言い換えを禁じる=置き換え禁じるということである。
連鎖に終端器を入れることで、毛糸玉をハサミで切ったような
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ(terminator)
という姿をした「線」状の鎖が出来上がる。
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言葉が、語りが、おしゃべりが、こういうリニア=直線状の鎖の姿で固まらないようにするということこそが、理解を曇らせる暗雲をはらすための秘訣になる。
では、いったいどうすれば、言葉はリニアな鎖の姿で固まらないようになるのか。
人間の言葉は、その口から発せられたり、文字で書かれたりする限り、ひとつひとつの最小構成単位を時空間上にひとつひとつ順番に並べるという姿をとらざるを得ない。つまり放っておくと、勝手にリニアな鎖の姿になる。
この鎖を、一本の固まった線にしたいために、終端と始端をつなぎ合わせて、ぐるぐる回転させるようなことをする必要がある。
この終端と始端をつないで輪をつくって振り回すようなことをするのが野生の思考の神話論理である。
最初の言葉、最後のことば
人間が言語で考える場合には、仮にいずれかの二項対立から語り始めざるを得ない。前回紹介した神話で言えば、男/女だったり、夫/妻だったりする。この”いずれかの言葉で語りの口火を切ること”と、”神話的な男女が世界を創造した最初の存在(Δ項)であると言うこと”とは、まったく違う話である。
ここはまさに肝心要である。
言葉は、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-という線形配列をしている。
このΔは、あらかじめ他のΔ項と区別される限りで、他ではないある一つのΔである。例えばΔ1の場合なら非-Δ1と区別される限りで非-非-Δ1である存在がΔ1である。
こういうΔたちが順番にひとつひとつ並んでいくことで、私たちは口から声に出して発せられた形での言葉を喋るし、それを耳で聞くことができる。
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ところが、野生の思考は、このΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-と連なっていくことになるΔたちひとつひとつの「起源」を考えようとする。ある一つのΔ1は、それと対立する非Δ1と区切られる限りで、非-非-Δ1としてのΔ1になる。そしてこのΔ1と非-Δ1との区別を区切るために、もうあと二つのΔ項の対立関係が必要であり、このΔ二項対立関係の対立関係を分けつつ繋ぐ蝶番のような働きをするのが、四つのβ項なのである。
神話の語りは、Δ二項対立を二セット区切り出すために、β二項対立二セットを過度に結合させたり過度に分離させたりする。
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ところが、この語りもまた、言語に託されるやいなや、Δ1がそれ自体としてポンと転がっているような印象を与えてしまう。
このあらかじめ転がっているように見えるΔ1を拾い上げて、
「Δ1の原因は、実はΔ-1だったんですよ。」
という具合の語り方をすることができてしまう。
それで「へえ、Δ-1なのかあ」と納得できればよいのだが、世の中にはこれを書いている私のような素直ではない人間もいるもので、「それなら、Δ-1の原因は何かな?」と問いたくなるのである。
この問いに対して、
「Δ-1の原因は、実はΔ-2だったんですよ。」
という。それで「へえ、Δ-2なのかあ」と納得できればよいのだが(中略)「それなら、Δ-2の原因は何かな?」と問いたくなる。
こうして二つのΔ項を、原因と結果という、これまた二つのΔ項の対立関係に重ね合わせて連結していくというやり方では、いつまでもどこまでも、根源的なはじまりのΔを求めて、ΔxからΔ-xへの遡りをやめられないことになる。世にいう無限遡行である。
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野生の思考の神話論理は、無限遡行では迷いの森から抜け出すことができないのだということをよくわかっていたので、
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-
を
因/果
因/果
因/果
因/果
…
果→因=果→因=果→因=果→因=果→因=果→因=果→因…
と繋いでいくという言い換え操作を組むことはなかった。
その代わり、野生の思考は、図1に示した二項対立関係の対立関係の対立関係である八項関係を組む。
この八項関係の中のどの項も、他の項の原因になったり、根拠になったり、発生源になったりするものではない。この辺りの話は、清水高志氏の『空海論/仏教論』が詳しいので、ぜひ詳しく知りたい方は参考になさってください。
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どの項の、他の項との関係において、この八項関係の中で、はじめて仮にその安定的同一性と観察される姿を獲得する。
レヴィ=ストロース氏が『神話論理』の第一冊目『神話論理1 生のものと火を通したもの』の冒頭で論じていることを、このように解釈することもできる。
以上のことを肝に銘じて、レヴィ=ストロース氏の『神話論理』に掲載されたひとつの神話を読んでみよう。
かぐや姫はカエルを連れている
図1のような関係を切り結んでいく上で重要なのは、両義的媒介項である。
例えば、カエルという動物は、分離と結合の両極の間を分離したり結合したりする媒介項として、様々な神話で重宝されている。
前回の記事で取り上げた神話M374aにも、人間の子供を親の元から分離したり、赤ん坊を大人に変身させたりする役でカエルが登場している。
あるいは下記の記事で分析したM241なども、M374aとそっくりである。
このカエルのような両義的媒介項についてもまた「端的にそれとして、宇宙が始まる前から存在しました」ということはできない。カエルもまた非-カエルと区別される限りで非-非カエルとしてのみカエルであると言える。
βカエル
両義的媒介項「カエル」の起源神話として、つぎのようなものがある。
この神話では、語りの終わりに、ヒキガエルとハリネズミがペアで、セットで、生まれている。ヒキガエル単独ではなく、ハリネズミとセットになっていることに注目しよう。
両義的媒介項となりうるカエルもまた、いくつかの二項対立関係を振幅の最大値と最小値の両極として区切り出す脈動の効果として浮かび上がる。
一 / 多
男 / 女
美 / 醜
老 / 若
上の神話では、これらの経験的感覚的に対立する両極の間を、自在に「変身」できる魔女が登場する。この変身できる魔法使いは、よその子供を攫い自分の子にしてしまう者でもある。
親 / 子
この経験的対立の両極の間をも、”自在に”切り離したり繋ぎ変えたりしてしまう魔法使いは振幅を描く走査点そのもののようである。
そうしてこの変身する魔法使いが動き回ったところから、ヒキガエルとヤマアラシとの対立関係が析出する。
ヒキガエル / ヤマアラシ
この二項の関係についても、ヒキガエルとヤマアラシが、それぞれ別々に本質に依って存在していて、それが二次的にセットにされたとは考えないほうがいい。ヒキガエルは、あくまでも非-ヤマアラシである限りにおいて非-非-ヒキガエルであるヒキガエルとして区切り出される。
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ヒキガエルが非-ヤマアラシであるのは、一体他のどの二項対立関係との関連でそうであるのか。Wikipediaのヤマアラシの説明を引いておこう。
ヤマアラシはその針によって、他の動物が容易に触れることのできない存在になっている。ヒキガエルがくっつくものだとすれば、ヤマアラシは非-くっつくもの、ということになろうか。
カエル=しがみつく半身=オナモミ
このカエルと「しがみつく半身」とが置き換えられる場合があることをレヴィ=ストロース氏は指摘する。「しがみつく半身」とは何者であるか、『神話論理3 食卓作法の起源』の基準神話を参照していただきたい。
しがみつく半身は、下記の記事で分析した「転がる頭」と同じように、経験的に”ひとつ”であるはずの人間の身体が、なぜか「二」に分離=分節した片方の項である。
そして神話的な半身は、半分になっても生きていて、動き回ったり、喋ったり、ものを食べたりする。この経験的感覚的に個体として存在する人間の身体が「半分」ずれた状態の頭や半身は、経験的感覚的個体性を図1におけるΔ項の位置に置くならば、それに対して半分ずれたβ項の位置に析出され、振幅を描く運動を開始することになろう。
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ここまでで、「おいおい、頭が取れて喋り続けたり、上半身だけで動き回ったり、ありえんだろう!」と思われるだろうが、ここは神話である。経験的世界とぴったり張り付いたラッピングのような言葉=”常識促進的”観念のもつれが生まれてくる前の姿を、「神話の論理」という特別なモードに励起された言葉を用いて、観測=シミュレートしている、神話的思考の発露である。
太陽との結婚
さらに「しがみつく半身」は、「おなもみ」のような細かい鉤のような棘をもつ実にも変身する場合がある。
例えば、男性を寄せ付けようとしない娘の衣服がある日突然、鉤つきの総苞で覆われるという神話をレヴィ=ストロース氏は紹介する。
この娘が総苞だらけの服を脱ごうとするや否や、太陽の神の影が通り過ぎ、彼女は太陽神の子を宿す。
結婚というあり得る身近な結合から、過度に分離しようとする主人公
その主人公に、”β鉤のような棘のある実”が結合する。
主人公は、この”β鉤のような棘のある実”を分離しようと服を脱ぐ。
太陽という、ありえないほど遠くに分離した存在と、結婚=結合する。
近いところの結合から分離しようとすることが、真逆に転じて、遠いところとの分離を短絡する結合を引き起こす。
この転換を引き起こす媒介項が、”β鉤のような棘のある実”であり、この実が主人公に結合しては分離するという振幅を描く動きを見せる。
過度な分離を過度な結合へ、一挙に転換する
カエル=しがみつく半身=鉤つきの総苞が、過度な分離から過度な結合への急展開が可能になる短絡回路を開く。
遠く分離したものとの距離を短絡するということを経験的な区別をつかって表現するのであればなにも太陽ではなく月でもよい。
月との結婚/あるいは月に宿る子となる
しがみつくカエルが、月に張り付いて、月の地表に観察できるパターンに(日本では月でうさぎが餅つきをしている姿といわれるあれ)になる、という神話まである。
*
かぐや姫
結婚したがらない娘と、天体との結合。
これは「かぐや姫」の説話にそっくりである。
かぐや姫も、これら”カエル=しがみつく半身=鉤つきの総苞”の神話の異文であることがありありとわかる。
地上の”身近な”人間の男と結婚したがらない娘(かぐや姫)が、ついにその”過度な分離”を貫いた結果、はるか天上の「月」にいく=月と結合するよう、急展開する。
地上での過度な分離が、天上での過度な結合へと、ぐるりとひっくり返る。
この振幅を描く動きの中で、かぐや姫が不老不死の薬を地上世界に提供しようと申し出る異文がある。
つまりかぐや姫が結婚を拒んだり、月に行こうとしたりしている高振動状態(β脈動)にあっては、生/死の区別があるようなないような中間状態が開かれていたのである。
しかし結局、この不老不死の秘薬を地上世界が受け取ることはなく、かぐや姫は月に行ったままになり、人間における生/死もまたはっきりと分かれたままになった。つまり経験的な生/死の二項対立が確立したのである。
そういう意味で言えば、かぐや姫もまた死の起源神話あるいは人間の生の起源神話の異文ということになろう。
そういえば、ジブリの『かぐや姫の物語』には、カエルのような顔をしていると言えなくもないような女童が登場する。
振幅を描いて動き回るβ項もまた関係の中で区切り出される
過度に分離した距離を、一挙に結合しようとする。
過度に結合した距離を、一挙に分離しようとする。
この高い振動状態の振幅から、人間の家族の起源=親子の起源=人間に子どもが生まれるということの起源=つまり私たち個々人が存在しうることの起源を語ろうとする神話がある。
異性を拒む男(あるいは女)が、超自然的なきっかけで異性と結婚する。
>男/女(夫/妻):過度な分離から過度な結合へ過度な分離から急展開した過度な結合としての結婚から生まれた子どもが、突然姿を消す。
>親/子:過度な結合から過度な分離'へ姿を消した子どもを探しに行くと、年老いたカエルのもとにたどり着く。子どもがカエルの魔法で大人になっている。
>子ども/大人:過度な分離'から過度な結合''へ子どもが実の母を忘れ、不躾な態度をとる。
>経験的二項対立の混乱:過度な結合’’から過度な分離’’’へ飼い犬やカワウソが、子どもに本当の母が誰かを思い出させる。
>経験的二項対立の再建:
過度な分離から経験的感覚的世界によくある結合へ。
*
前回分析したM374aでは前面に出てこないが、逃げる主人公が、転がる頭ならぬ「カエルの化け物」に追いかけられるというモチーフが加わることもある。
三枚のおふだ
この時、化け物に追われる主人公は、狩猟や農耕につかう道具、つまり文化と自然の境界を操作する道具などを放り投げて障害物にしたり(三枚のお札のように)、魔術でハチミツやベリー系の果実を作り出してカエルを騙して足止めしたりする。そして最後には主人公の猟犬が、化け物に噛み付いて退治する。
男/女
親/子
子ども/大人
人間/動物
こういった経験的感覚的には安定的に対立している二極の間が、1)短絡(ショート)=過度に結合されたり、あるいは2)分離されたりする。この経験的感覚的対立の二極のあいだを結合したり分離したりする媒介子の役割を果たすのが、カエルや、カエルの体液、籠、樹上に吊り下げられた肉、あるいは樹木それ自体、猟犬・飼い犬、そしてハチミツなどである。
引用の最後にある「同じ役割」は、上の図1でいうと、β項の位置におさまって、経験的感覚的に存在するある二つの項の間を一方から他方へ、他方から一方へ、振幅を描きつつ、その両極のどちらでもあってどちらでもない、という動きを見せることである。
*
この動きの効果のようなこととして、経験的に対立する二項の関係たちが切り結ばれていく。
ハチミツや果漿
ハチミツや果漿は、
生のもの / 火を通したもの
自然のもの(野生) / 人間の手が加わったもの(文化)
食べ物 / 毒
という経験的に極めてはっきりしている二項対立関係にある両極のどちらか一方だけに収まることのない、どちらでもあってどちらでもないものである。
カエル
カエルもまた、卵から生まれ魚のような姿をした幼生から手足が生えて陸上動物のような姿に変身するという点で、
魚 / 足のある動物
水棲動物 / 陸棲動物
といった経験的に極めてはっきりしている二項対立関係にある両極のどちらか一方だけに収まることのない、どちらでもあってどちらでもないものである。また何よりも、止まっている状態かた突然急激にジャンプするというカエルの動き方が、振幅を描く動きそのものと言えるだろう。
猟犬
猟犬もまた、動物でありながら人間の仲間の一員であり、人間の仲間の一員でありながらもあくまでも動物であるという点で、
動物 / 人間
この経験的に極めてはっきりしている二項対立関係にある両極のどちらか一方だけに収まることのない、どちらでもあってどちらでもないものである。
籠
そして籠は、不可分に混じり合ったり包含されたりしている二項を分離する働きをする。籠は未分離状態を分離状態に転換する。籠は、未分離と分離、結合と分離の両極の間を分けたり繋いだりすることができる。
別の神話では、異界に旅立った姉のもとを弟が訪問し、土産に蓋つきの籠を授けられる。その籠は地上に戻るまで決して開けてはならないとされる。しかし、あやまって旅の途中で籠を開いてしまい、中からハチが飛び去っていく。もう少し我慢していれば、このハチが、無尽蔵のハチミツに変身するはずだったのに、と。こうして人間は貴重なハチミツを苦労して探し回ることになる。
これは浦島太郎を思わせる。
ハチミツと人間とが分離されているという経験的な対立関係を切り分ける動きが、中間状態を媒介する「籠」の移動(旅)によって描き出される。
籠は、経験的に対立する両極のあいだの中間状態・移行の過程を媒介する。
あるいは、カエルの老婆が編み籠つくりを生業としている、といった神話もある。
* *
両義的媒介項が二つ、くっついたり、離れたりする。
そこから経験的世界の安定的な分節の体系が生成する。
まとめ
神話においては、経験的に対立する二項のどちらでもあってどちらでもない、対立する二項を二即一一即二にする両義的媒介項が重要だ、というのはそのとおりなのだけれども、”両義的媒介項から世界が始まる”ということではないし、”両義的媒介項が世界を創造する”というわけでもない。
両義的媒介項は世界の発生の鍵ではあるけれども、あくまでも鍵であり、複製可能で、他の鍵と交換できるような鍵であり、それ自体が何か根源的であることはなく、他の項をそこに還元できるhyperなΔ項でもない。
つまりΔ四項とβ四項の対立関係を重ね合わせたように描かれる八項関係の中のβ項のポジションと、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ(t)の系列の終端項Δ(t)のポジションを混同しないほうがよい、ということである。
* *
両義的媒介項もまた、振幅を描く複数の動きが重なり合ったところで、その波紋のようなものとして仮の同一性を示現させられた影である。
両義的媒介項もまた、それ自体の自性において、本質的に媒介的であるわけでもなく、両義的であるわけでもない。
カエルが両義的なのは、カエルのカエル性が自性において本質的に両義的だということではなく、たまたま、水/陸とか、脚のある生物/脚のない生物、といった経験的な対立の間の隙間に紛れ込むことで、この両側の二極に対してのみ、両義的”である”ことに仮に励起されているためである。
そうであるが故に、ここでカエルの起源神話も必要になるのである。