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概念の境界を折りたたみ続けるー読書メモ ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』(2)

最近の人類学の本はおもしろい。

研究手法の訓練を受けたことがない素人が読んでもとにかくおもしろいのである。中でもこのヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』

冒頭の節に次のようにある。

概念と実践のあいだの縁組つねに多義的であるが、しばしば多産的でもある−にこそ、人類学のオリジナリティはあるのではないだろうか。(『食人の形而上学』p.14

他者が作ろうとしている概念を観察し記述する

そうすることで、自らもまた概念を作る。そうした営みにフォーカスするのが人類学であるという。 

「つねに多義的であるが、しばしば多産的」

概念を作るようなことは、誰もが日々、日常を生きる中でやっていることである。

何かを経験したところで、「これはあれだ」と自分なりに解釈をして、理解し(たつもりになっ)て、納得をしているとき、私達は実は自分なりに概念を作っている。

ところで、概念を作るための材料は、主にコトバである。

コトバは、私達ひとりひとりのとっては、どこかで予め完成されていて、外から私のもとにやってくる何か、出来合いのレンタル品のような姿をしている。

だから「これはあれだ」と、コトバで概念を「作る」時、私達は「自分がそれ(概念)を作っている」とは感じないことが多い。

何かを解釈するコトバを繰り出していても、何も「作り出して」はおらず、ただ出来合いのラベルを出来合いのルールに従って貼り付けているだけ、というような感覚。

この出来合いのものの世界にどっぷりと沈み込む感覚は、溺れて苦しい、というものではなく、むしろプカプカと漂って居心地よくさえ感じるものであったりする。出来合いのパターンを反復することが自明な世界への確信を産む。その心地よさ

そこに浸かっていると、自己とコトバが遭遇する瞬間の、多義性が爆発する傾向を、すっかり飼いならして、忘れて置くことができるような気がしてくる。

縁組あるいは食人の概念

そうしたところから、あえて身体を持ち上げる。

それはちょうど自他の区別、内外の区別、能動と受動、完成と未完成の区別たちが区別可能になる瞬間に立ち会わざるをえないところへ、私達を連れ戻す。それもどこか遠くにではなく、いまこの瞬間において。

それが「食人」ということである。

つまり「他者」を「自己」が「食べる」。

あるいは。「自己」が「他者」に「食べられる」。

それによって他者が自己になり、同時に自己も他者になる。

自他が区別不能に混ざり合うのではなく、食べるものと食べられるものとして厳然と区別されながらも、しかし自己が他者であり、他者が自己であるという「もつれ」に入り込む

異なりながら同じになり、同じでありながら異なる。異なると同じの「区別」が作動する瞬間、と言おうか。こういう爆発的な運動性を含んだ時空を、記述可能なものにする概念とは、どういうものであるのか?

そういうことを考えるのがこの『食人の形而上学』である。

人間と機械の区別も

人間と機械の関係というと、もともと機械とは全く異なる人間と、人間とはまったく異なる機械があり、その元々なんの関係も無くそれぞれとして自立して存在しているふたつのものが、出会い、ぶつかり、なにか落ち着いたつながり方をする…。という具合いに論じられることが結構ある。

ところが、よく考えるとこの区別、人間と機械の区別というのは、どこにあるのかが分からなくなってくる。そんな区別は最初から厳然と「ある」のだろうか?

人間は機械ではないし、機械は人間ではない、そんな当たり前のことがわからなくなるなんて、変な本の読みすぎではないか?」 

という批判もありそうである。確かにそうかもしれない。

しかし改めて「人間と機械はどこで区別すればよいのですか?」と尋ねると、どうもうまい答えが返ってこない。

なにより

 人間とはなにか?
 機械とはなにか??

という形で、人間そのもの、機械そのものの本性(他と関係なくそれ自体が自らを定義するもの)を示そうとすると、ますます答えが遠ざかる。

常識の世界では、こういう区別は「当たり前」、前提条件として置かれていなければならないということになっている。「とりあえず、お約束として、区別できるということにして先に進みましょう」という具合いに目配せした上で、さあそれでは、と具体的な問題を組み立て答えを探したりしようとする。

ところがそういう常識の世界の問題を問題として成立させて、支えているはずの基礎構造が、実はどうにもはっきり区別された体系として固まっておらず、ゆらゆらと定まっていないらしい

このことは思考にとっては難点ではなくて、むしろ「多義的で、しばしば多産的」な認識の始まりである

ここで「人間は機械を使うことである種の人間になる」、あるいは「機械は人間に使われることである機能を実際に実行する機械になる」という具合に、人間と機械を両者が互いの他から区別され、それとして姿を現す瞬間を問う、という問題の立て方ができるようになる。

そこで人間も機械も、ある概念として作り直されることになる。

つづく

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