アクターネットワークとはなにか? - アクターネットワーク理論(ANT)は記述するコトバを媒介子にする
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ブルーノ・ラトゥール氏の『社会的なものを組み直す』は、「アクターネットワーク理論(ANT)」の本である。
ラトゥール氏の著作は他にもいろいろあり、たとえば『近代の<物神事実>崇拝について―ならびに「聖像衝突」』などもとてもおもしろいが、アクターネットワーク理論について知りたいという場合は、この『社会的なものを組み直す』をまずは読んで見るのがよいかもしれない。
アクターネットワークとは
それぞれのコトバのラトゥール氏による基本的な意味の設定は『社会的なものを組み直す』に明示されている。
アクターネットワーク理論におけるアクターとは?
まず「アクター」は次のように説明される。
中間項と媒介子というのは、どちらも「社会的な関係をつなぎ、結びつけるのは様々なもの」である(「中間項」と「媒介子」について詳しくはこちらのnoteをご参照ください)
簡潔に敷衍すると、中間項としてのものが「意味や力をそのまま移送する」のに対して、媒介子としてのものが「それが運ぶとされる意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする」ことになる。
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こうした媒介子としてのものであるアクターたちの「ネットワーク」というのは、「一人前の媒介子として扱われる行為の連鎖」のことであるとラトゥールは書く(『社会的なものを組み直す』p.243)。
「わたし」も、アクターネットワークである
私、わたし、「このかけがえのない私」
私、と呼ばれる事柄も、アクターネットワークである。
アクターとして記述される媒介子としての物事。そうした物事の「行為」の連鎖の中では、「私」という事柄は「私たちが個人になること」を可能にする「多数の微細な導管」のネットワークとして記述されるものになる(『社会的なものを組み直す』p.410)。
ネットワークとして記述される「私」。
「私」が媒介子のネットワークであるということは、つまり多数の媒介子たちが、他の媒介子との関係を媒介する行為の様式に応じて、ネットワークの形が変容する、私ということのあり方が変容する、ということを意味する。
ここでなにより重要なことは「記述」である。
「記述する」行為とは、言葉を媒介子にすることである
記述とは、何かを言葉に「翻訳する」こと、ある言葉を他の言葉に翻訳(置換・転換)することである。
ここで言葉は中間項ではなく、媒介子として機能する。
言葉にすること、なにかをある言葉へ翻訳すること、記述することである。
そうした「すること」=「行為」は、予め存在し他とは無関係に確定済の「厳然たる事実」を、そのままコピーする「もの」(中間項)とは違う。
記述すること、テクストを作り出すこと、言葉にするという行為自体が、その翻訳作用によって「議論を呼ぶ事実」を作り出す(ラトゥールによる「厳然たる事実」と「議論を呼ぶ事実」の区別についてはこちらのnoteをご参考にどうぞ)。
記述する言葉は、それ自体が媒介子であり、アクターネットワークを結び直し、変容させていく。
ラトゥール氏は次にように書いている。
アクターネットワークは、厳然たる事実として、予め確定したものとして、そのまま拾って持ち帰ることができるようなものとして、どこかに転がっているものではない。
アクターのネットワークとして記述されるものは「自然」のような「厳然たる事実」として存在する対象ではない。アクターネットワークということは「一連の翻訳として」「描く」行為を通じて、ひとつの媒介子として、試しに、仮に、「作り出される」ものなのである。
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ネットワークという表現は「何かを記述するのに役に立つツールであって、記述される対象ではない」と、ラトゥール氏は書く (p.248)。
日常、記述すること、書くということは、決り文句への置き換えや、断定型の言い回しに終始することでまるくおさまろうとする傾向にある。決り文句への置き換えは、実はなにをなににも置き換えておらず(媒介子としては行為しておらず)、ただ決り文句それ自体を反復しているだけなのである。そうすることで、言葉から言葉への自在で気ままな展開を封じ、新たな言葉への結びつきの広がりを抑制しようとするわけである。
決り文句による断定のような言葉が、それ以上の言葉から言葉への翻訳の連鎖を断ち切る時、そこで言葉は「中間項」として作用している。
これに対してアクターネットワーク理論でいう、アクターネットワークとして物事の関係を記述することとは、言葉を媒介子として保ち続けることである。
そのためには言葉によって記述される事柄を、あくまでも「議論を呼ぶ事実」として扱い続ける必要がある。
素朴に実在する自然物のような「厳然たる事実」もまた、翻訳の連鎖を断ち切る終端装置になるからである。
議論を呼ぶ事実は中間項ではなく、媒介子であり、テキストを記述する営みの中で「突然、予期しなかったかたちで場面の設定を分岐させ」る場合がある(『社会的なものを組み直す』p.387)。
アクターネットワーク理論では、ありふれて、当たり前に見える「ひと」も「もの」も、「わたし」も、いずれも「中間項」ではなく「媒介項」として、予期しなかった分岐を引き起こすものとして記述される。
ここで記述する行為は、決まりきった確定済の世界から、「わたしたち」を自由にするのであろうか。
ラトゥール氏の思想は、言葉の「意味」ということを考える上でも、興味深いものである。
関連note
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