両義的媒介項としての宿神 -中沢新一著『精霊の王』を精読する(2)
第一章「謎の宿神」を読む。
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「侍従成通卿と言えば、比類のない蹴鞠の名手と讃えられ…」(『精霊の王』p.4)
この一節から始まる第一章は「蹴鞠」の話である。
「精霊の王」たるシャグジ−宿神は、日本列島に国家が成立する遥か以前から祀られてきた神である。
その精霊の王の話をするのに、なぜ国家が成立して数百年を経た後の時代の芸能のことから始めるのか?
実は日、本列島が国家の「国土」となりその地表の大半の領域からシャグジー宿神たちが姿を隠してしまった後も、蹴鞠や能のような芸能の担い手と、そして「物質を変成させる」技術の担い手たちの間では、宿神への信仰が伝承されていた、ということなのである。
鞠精ー宿神
本章の冒頭、藤原成通が「鞠の精」たちに出会う夜の話。
鞠の精たちの語りは、整然と区画されて然るべきとされた国土の表層のかっちりとした3次元構造をゆすり、ねじり、そして一挙に、表層の「下」に轟々と流動する深層へと固着したかに見える区画を押し流す。この深層は同時に分節を新たに多様に生み出し続けるフィールドでもある。鞠精たちの言葉はそうした深層へと聞き手を誘う。
※
問題になっている区別は表層と深層である。
「鞠の精」たちは、表層に対する深層領域から、人類が馴染んだ人類にとっての世界の表面に躍り出てきた者たちである。
鞠精は深層と表層の間に通路を開く媒介者である。
この媒介者たちは、表層の世界の整然とした意味分節体系の中で明確に区別される事柄同志の対立関係をずらしたり、挫いたり、圧縮したりした姿で現れる。
まず鞠の精は「顔は人間であるが、手足と身体は猿」という姿である(p.5)。
ここで「人間」対「動物」あるいは「文化」対「自然」といった、人類にとって馴染みある世界の表面でははっきりと区別され鋭く対立させられている二項が一つになっている。鞠の精において、人間と動物が一つになり、文化と自然が一つになっている。
鞠の精は、人間ではなくアニマルとしての猿でもない、どちらでもない存在である。と同時に人間でもあり猿でもある、どちらでもある存在でもある。人間ではないが、人間でなくもない。動物ではないが、動物でなくもない。といった二項対立の両極のどちらにも還元できない中間的な存在である。
この対立する二極の間の中間的な存在である鞠の精は、レヴィ=ストロースの『神話論理』における両義的媒介項である。
※
区別を区切り直し、二項対立関係を揺るがしつつ再建する
「鞠」からして中間的な存在である。
蹴り上げられ、空中にある鞠は「地」と「天」という、人類にとって極めて基本的で絶対的な対立関係の中に、中間的で両義的な領域を開く。
成通卿に対して鞠精は、蹴鞠をすることは「輪廻転生にも良い影響をもたらす縁」を生み出すと語る。
それと同時に、そうした良い影響を得るには必ず「根を生やした木」の側で蹴鞠をする必要があるとアドバイスをくれる。
輪廻転生は即ち「現世」対「来世」、「この世」と「あの世」、あるいは「生」対「死」の対立関係に関わる。
中間的で両義的な空中に浮かぶ鞠は、「天」と「地」の対立を仲介すると同時に「現世」対「来世」、「この世」と「あの世」、「生」対「死」の対立をも仲介する。
鞠という両義的媒介項は、人間にとってはハッキリと区別されて互いに相容れないように見える二つの事柄の間に、不思議な「縁」をつなぐのである。
さらにここに「根を張った木」である。
なぜ急に鞠の話が木の話になるのだろう。
唐突に話題が変わったと思われるかもしれないけれども、神話の論理における両義的媒介者の役割に注目すると、この話は明らかに「木」と「鞠」を並べつつ対立させて「異なるが、同じ」という重ね合わせを行うことで、鞠が孤立した実体の位置へと転がり落ちて中間的性格を失ってしまうことを防いでいるのである。
※
木と鞠は、どちらも「地」と「天」の間にあり、両者が完全に分離したり、密着しすぎたりしないよう、付かず離れずの関係を保つ中間領域を開く媒介者である。
「静」=「動」の間で鞠の両義的媒介性を保つ
しかし、鞠が空中を上下に動き続けるのに対して、木は人間の時間感覚で言えば動いていない。
止まっている。
ここに木と鞠を並べて起き、木と鞠を「同じだ」と示唆することで、「静」と「動」というこれまた人類にとってあまりにも自明で揺るぎないように思われる基本的な対立関係を”異なるが同じこと”という関係に置くのである。
さらに木について、わざわざ「根を張っている」必要があると注意しているのは、「接触」と「非接触」の対立をもまた”異なるが同じこと”という関係に置く。
即ち、鞠は地面に「触れない」ことによって地と天を媒介するが、木は地面に「触れる(触れるどころかその内部に入り込んでいる)」ことによって地と天を媒介する。
鞠と木を交換可能なものと置く(つまり異なるが、同じとする。異なるが故に置き換えられるとする)ことで、この「触れる」と「触れない」を対立したまま「同じ」ことにする。この両義的なまま宙ぶらりんにされることで、鞠はその中間的媒介者としての性格を失わないように細心の注意を払われるのである。
媒介項を二項対立の中の一項に退却させない
媒介項自体も一つの「項」である以上、それは何らかの相手方の「項」を自らの隣に引き寄せてしまう。そうして自ら二項対立関係の中の一項になってしまい、その元々別の二項対立関係の中間で果たしていた両義的な役割を忘れてしまうことがある。
そうならないように鞠が木と"同じ"だと示唆することで、空中を軽やかに動きながら浮いているという鞠のいかにも鞠らしいあり方を、動かずに止まって根を張っているという鞠らしさの対極にある様相と"同じ"にするのである。つまり動くことは止まることであり、触れないことは触れることである、と。そうすることで鞠の中間的な性格を保持し続けようとする。
※
中沢氏は、蹴鞠は元々、殷の時代の「雨乞いの儀式と結びついて」いたと書いている。
雨乞いとはまさに"雨が降らない"という天と地の関係が「離れすぎ」てしまった事態に対して、天と地の適度な距離を回復させ、雨が通る道をつなぎ開くようにする呪術である。そこで天と地のつかずかなれずの関係を修復するための呪術の中身が鞠が蹴り上げられ続けることだったというのはおもしろい。
中沢氏は「ブランコ」も、こうした蹴鞠と同様の呪術であると書く。
「ブランコをこぎ続けている人は、天と地の中間状態に留まり続けることによって、天と地を媒介する存在となることができる。こういう媒介が存在するとき、天界と地上は離れすぎもせず、またくっつきすぎもしない。…蹴鞠の場合…ちょうど良い中間の状態で、鞠は天と地の媒介を表現することになる。」(『精霊の王』p.9)
蹴鞠もブランコも、離れすぎた二項対立関係や近づきすぎた二項対立関係を、付かず離れず、区別しつつ結びつけるという細心の注意を要するバランスのゲームである。
※
こうした二項対立関係の間にあって、両極を区別しつつ結びつける媒介者がいきづく領域は、普段はさまざまな二項対立関係のどちらかの極に押し込められているものたちを「変幻自在な変容」へと誘う。
この中沢氏のいう「変幻自在な変容」を強力に引き起こすこと望むのが、芸能と技術の世界である。芸能においては例えば人が神に変容し、技術においては例えば鉱石が金属に変容する。
変幻自在な変容を引き起こす力を己のものにしようとする人々にとって、ある項から他の項への置き換え(変容)を司る両義的媒介者は、まさに祀るべき神ということになる。
そして精霊の王「宿神」もまた、まさに互いに区別される項と項の間にあって、項と項の間に「異なるが(区別されるが)、同じでもある」という関係を開く両義的媒介者である。
中沢氏によれば、成通卿の鞠精は、宿神の「ひとつの顕現の姿」であると考えられてきたという。
※
ここで鞠精と同じように宿神の「ひとつの顕現の姿」と考えれらたのが、能楽における「翁」であるという(p.20)。
鞠精、翁。
そうした両義的媒介項は、整然と区別され固定的静的に配列された事物の対立関係からなる人類にとっての表層の意味の世界の下に私たちの意識を振り向けさせる。その表層に対する深層には、いくつもの区別が自在に区切り出されては区切りなおされ、配列が自在に組み替えられる、無数の分節化作用が交錯して束になりながら激烈に動いている「流れ」が垣間見える。
シャグジー宿神は、出来上がった区別の静的な体系の中に並べられる神ではなく、無数の区別を自在に区切り直しては区別され対立関係に置かれる二項を自在に「ひとつに」するダイナミックな運動の領域を開く神なのである。
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