変身あるいは真似 「呪術」としての意味 ー安藤礼二『列島祝祭論』p.8より
安藤礼二氏の『列島祝祭論』を読み直しはじめた。
最初からページをめくっていくと、7ページ「翁の変容」から本論がはじまる。はじまる、というか、目が覚めたらすでに始まっているところに立っていた、というくらいの急転直下である。
「翁」が「変容」するというだけで、これはもうただならぬフィールドである。
推理小説なら大ドンデン返しをしているど真ん中にいきなり飛び込むようである。善と悪の区別がつかなくなり、味方が敵で、敵が味方で。しかも最終的に、主人公と敵役のどちらかが善にどちらかが悪に落ち着くこともなく、ただ主人公と敵役との対立、善と悪の対立、この二つの対立が向きを変えながら重なったり離れたりする運動そのものが抽象的に浮かび上がる。
何かと何かの対立、ではなく、対立関係があるということ。話はそこからはじまる。
白と黒
何かと、その真逆の何か
Aと非A
白と黒、何かとその真逆のなにか、Aと非A、こうした対立する二つの事柄のペアを前にして、その二つの事柄を、「異なるが、同じ」関係にあるものとして見立てること。これこそが「祝祭」ということの本義である。
白が黒を真似る。白でありながら黒であるように真似る。
また逆に、黒が白を真似る。黒でありながら白であるように真似る。
真逆に対立する二つの極が、互いに相手方を真似る。
この真似る所作を過剰に繰り返す。
真逆のものを真似ることを、幾度も繰り返すこと。
同じ真似を執拗に繰り返されたときの、不気味さというか、異様さというか、それでいて強烈に印象に残る感じ。
このことを通じて「異なるが同じ」関係がその姿を浮かび上がらせる。
意味するということ
「異なるが、同じ」。これこそが意味ということの中心で動いている事態である。
意味するとは、互いに異なる二つの事柄を、異なったまま、それでいて「同じ」として置くことである。
それは実体としての何かと何かかの置き換えでもよいのだけれど(たとえば赤く光る電球を、「車は止まれ」という指示に置き換えるなど)、もっと抽象的に、例えば白と黒、Aと非Aの置き換えを際立たせることもできる。
抽象的な、置き換えそれ自体としての置き換え。それはなにか具体的な意味を再生産することではなく、「意味するということ」の働きそれ自体を、意識の表面に映し出す。
そうした働きを見せつけられることで、普段は整然と区別された異なる物たちの安定した秩序を再確認し続けることで生きている表層の意識は、「それ」に気付くことになる。
「それ」とは即ち、整然と区別され安定的に対立するものたちの関係が、すべて「ひとつ」であること、その「ひとつ」から、あらゆる区別が生まれること、つまり意味が生じること、意味するということそれ自体、である。
何か具体的な意味ではなくて、「意味するということそれ自体」。
神
これはどうやら、「神」の概念の核心に関わる。
「人間はそのときー差異と反復が一つに重なり合い、一つに融け合う瞬間ー人間ならざるもの、すなわち人間を超え出た「神」へと変貌を遂げる。」(安藤礼二『列島祝祭論』p.8)
ここで安藤氏が論じていることは、「人間 対 神」の対立において、人間が神を真似、そして神が人間を真似ることで、両者が「異なるが同じ」の関係で結ばれるということである。ここで「人間」が「神」へと生成する。
ここからはこちらの解釈であるが、ここでいう「神」とは、なにか特定のものとしての神ではなく、「意味するということそれ自体」のことと考えられるかもしれない。あらゆる物と、異なるが、同じ、である神という存在、「森羅万象あらゆるものに変身することが可能」な存在である。
差異を超えて、異なったまま、他のものに「なる」ことができるのが「意味するということ」である。
「神」とは、「意味するということ」と、それが「あらゆるものに変身できる」こと、あらゆるものと根本的に異なりながらも、あらゆるものと同じであることができること、という解釈で神ということの意味を生成してみたくなるところである。
対立する二つの極が、互いに他方の極を「真似る」。それによって異なりながらも同じ、という意味の世界を開く。
虚構の力
これはおそらく人類が、ユヴァル・ノア・ハラリのいう「虚構の力」を獲得した時に、同時に、その虚構の力の一部、というか根幹として、獲得したやり方なのだろう。
この異なるが、同じ、と見立てることができる力こそが、意味作用の根源であり、言語の根源、意味変容に開かれた詩的言語と日常の自明な世界を支える信号的言語の双方を機能させる、基本的なアルゴリズムなのではないか。
対立を媒介し「異なるが、同じ」の機能を抽象的に取り出すこと。人類は言葉を獲得した当初から、そういう儀礼を行っていた可能性もある。儀礼というのはまさに、対立する価値の関係の動きのパターンを制御する営みであった。
ところがそうした儀礼は廃れてしまった。印刷技術によって、意味が表層の信号的世界の中だけに閉じ込められてしまうとともに。
そうした儀礼のための非日常的な空間を、「二次的な声の文化」(W.J.オング)と称されるWeb状のメディアにおいて、黄泉帰らせる余地があるのだろうか?
関連文献
「意味」を「儀礼」の観点から考える上で、この井筒俊彦氏による『言語と呪術』もおもしろい。安藤礼二氏はこの『言語と呪術』の監修もなさっている。
関連note
オングの「声の文化」と、ユヴァル・ノア・ハラリの「虚構の力」について。
こちらは前に書いた『列島祝祭論』に関するnote。および「異なるが、同じ」の論理を極める「レンマ学」について。