隔絶を刻み・短絡する -クロード・レヴィ=ストロース『仮面の道』を読む
差異と映じるものを、同一のものと観る。
AとBは別々のものだけれども、AとBは同じだ、とみる。
異なるが同じ。
異ならないが同じでもない。
なんだか訳のわからないことを書いているなと思われるかもしれないが、実はこれ、”異ならないが同じでもない”こそが、私たちが日々何気なく喋ったり聞いたりしている言語に”意味する力”を与えている。
人間の言語は、例えば「りんご」という音で赤くて丸いあれを"意味する"ことに依って成り立っている。
しかし考えてみれば、り・ん・ごという音とあの果物は全く別のものでである。この”別々のもの・異なるものを、異なったまま同じものとみなすこと”によって、言葉が発生し、言語的な意識(言葉であれこれ考えたり思い悩んだりする意識)が生まれるのである。
Aでもって非Aを意味する。意味するものと意味されるものの関係を「非同非異」と呼んでも良い。
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しかし、私たちは日常言葉を喋ったり聞いたり読み書きしていても、「非同非異」などということを意識したりはしない。犬は犬だし猫は猫。犬というものがあり猫というものがあるという具合に、あらかじめ綺麗に分けられ固まった枠で切り取り済みの世界が”与えられている”と思いながら生きている。
ところが人間が生きていると、この”予め切り分けられた世界”への確信が揺らぐことがある。例えば、子どもと大人のあわいを生きる時や、死と生のあわいを生きざるを得ない時である。
予め切り分けられた出来合いの世界の「外」に接触せざるを得なくなったとき、そしてそこから、改めて人間の世界に戻ってこようとするならば、世界が出来合いの格子として与えられていないところから、改めて世界を切り分ける格子を組み立てていく構造化の営みを生きなければならない。その瞬間に「差異と映じるものを、同一のものと観る」知性が輝くのである。
そして「神話」はそうした瞬間に、差異が同じになり同じが差異になる瞬間に、言葉を結びつつ解き、解きつつ結ぼうとするのである。
神話は何かと何かの対立、Aと非Aの対立を次々と重ね合わせながら、第一の対立関係の二項のうちの一項を、第二第三の対立関係の二項のうちの一項と「異ならず同じならず」の関係においていく。
ここに次から次へ、ありとあらゆる二項対立が集まってくる。
二校対立はすべて対等であって、諸対立の中で特別に根源的な対立(つまり他の対立の基礎のようなものになる対立)という類のものは無い。
どの対立をどの対立と重ね合わせても構わないのである。
それでも神話がお気に入りの多くの対立をそこに引き寄せ、置き換えることを許す、いわば置き換え能力が高い対立というのはある。
その一つが「静と動」の対立である。
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動くものと動かないもの。
この「余りにも隔絶した両極」を「仲立ち」する試みはしばしば失敗に終る。
対立する両極の間で通行できるようにしたり、コミュニケーションしたり、という試みは成功を約束されない危険なことである。
生と動と同じように、例えば
地上と天上(月)
生(不老不死)と死
これらは仲立ちに失敗した隔絶した両極である。
仲立ちの失敗。失敗することを約束された仲立ち。(少なくとも20世紀なかば以前には)月に行ったり帰ってきたりすることはできないし、死者を蘇らせることはできない。
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そういう隔絶した両極のあいだで、「月に帰る」などという芸当をやってのけ、不老不死の薬を所持していたりする「かぐや姫」であり。かつかぐや姫はレヴィ=ストロースのいう「生殖の拒否」に徹するという説話。
あの昔ばなしは、レヴィ=ストロースが『仮面の道』で展開している話と同じ構造で動いている。
諸公卿の結婚の申し出を断り続けるという、容易に仲立ちしようと思えばできるはずの対立関係を、ことさらに隔絶させようとする者が「かぐや姫」である。
この隔絶していないはずのところにわざわざ隔絶を生じるという性格が、逆に、地上と月、生と死という、あまりにも決定的に隔絶されたものの間を仲介する機能をかぐや姫に与える。
こちらで極端にひっくり返してしまう人は、あちらでも極端にひっくり返してしまう、ということである。
ひっくりかえす機能。蝶番。隔絶が無いところに隔絶を切り開くことと、所与の隔絶を短絡することは、どちらも「ひっくり返す」という点で同じなのである。
二校対立とその間で動くひっくり返すもの、裏返すもの。
この辺りの話は下記の記事でも詳しく書いていますので参考にどうぞ。