「誰にとっても同じ意味」へと向かう、数千年の歴史 −読書メモ:アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』
以前、「都市」という、確率を制御するための人工空間について論じる際に取り上げた、アンドレ・ルロワ=グーランの『身振りと言語』。
今回は「意味」という問題に関するお話である。『身振りと言語』では、言葉が「手」そして「声」から切り離せないものであることが指摘される。
文字以前
言葉といえば、純粋に頭の中、心の中のものであり、泥臭い「手」や、いい加減な「声」とはレベルが違うと考えがちである。
しかし「手」や「声」こそが言葉の最初の住処であった。
文字が使われるようになる、はるか以前から、私たちの祖先は「声」そして「身振り」によって言葉を形にしてきた。
その一方で、頭の中のイメージを表現するために、色を塗ったり、「図」を描いたり、身体を飾る様々な「造形」を作り出したりすることも行われた。
文字もまた、そうした図や造形の遥か後の子孫から生まれた。
文字と、いつでもどこでも誰にとっても同じ意味
文字は、数千年をかけて、農耕、牧畜、冶金、そして都市といった様々な技術とセットになって、人類社会に激変をもたらした。
正確なところはまだ議論があるが、登場の順番としては、まず農耕と牧畜、その次に冶金、そして都市の誕生、最後に文字の発明、と展開したらしい。
これら一連の技術に「共通する」事柄。都市、金属、道具として自由に処分できる動物、実りを約束してくれる穀物。これらはいずれも目の前の他人たちや精霊たち気分や感情、意図によって変更されることがない、普遍的な時間、普遍的な空間に展開する。それは未来を、気まぐれなものではなく、高い確率で実現する可能性をもったものに「作り変える」ための技術のシリーズである。
技術が都市の城壁内において現実世界への出発点を置き、空間と時間が天と地を一挙にとらえる幾何学的な網の目のなかで組織されるや、合理的思考は神話的思考に対して勝利を収め、表象を線形化し、しだいにそれを口頭言語の進み方に従うように曲げていき、ついには図示的な音声化によって、アルファベットが生まれるに至る。(『身振りと言語』p.345)
普遍的な時間と空間、つまり合理的思考によって、その動き方、その未来の姿をかなり正確に予測できる時空間。
ルロワ=グーランは、この普遍的な時間、普遍的な空間の成立を「空間と時間が天と地を一挙に捉える幾何学的な網の目のなかで組織される」ことと表現する。
そこに広がる均質な世界には、誰にとっても同じ意味をもったモノたちがきれいに配置されている。それは神や精霊の気分で、ころころと変化する不安定でおぼつかないものではなく、厳然とそれ自体としてこれまでも、いまも、そしてこれからも「そうである」ところのものとして存在する、と確信するに足るものたちである。
意味が、均質な世界の中に場所をしめる均質なモノたちが自ずから持っているものとなった時、世界は感情的なしゃべり手たちや気まぐれな精霊たちの勝手よって、複数の異なる意味が衝突し合う場所ではなくなった。
「合理的思考が神話的思考に対して勝利を収め」たのである。
文字はそうした均質な空間の中で、どこまで行っても、いつになっても、変わらない世界そのもの、モノそのものの意味を保存する道具として、とても便利であった。
そしていつしか私たちの口頭言語もまた文字のようになった。文字を書くように普遍的な意味でのみ言葉を発するという、気まぐれではない、合理的な人間が始まったのである。
エクリチュールは映像を引き締め、表象を厳密に線形化する。[…]この単一化は、非合理的な表現手段の貧困化に対応する。
初期の文字の登場以来、文字が増殖し続けることで、この世界の均質化という傾向はますます強まっていった。
産業革命以後の「意味」再生産メディアの事情
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