対立関係とその調停に注意を向ける神話的思考
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神話の研究で知られるクロード・レヴィ=ストロース。
その著書『神話論理』は一生に一度は読みたい人類の知性のひとつの極みである。
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レヴィ=ストロースによれば、神話の語りというのは、対立関係を調停する操作である。
太陽と月とか、老人と若者とか、水と火とか、男と女とか、酒と泪とか(?)、何でも良いのだが、古来から人間が日常的に経験できるものごとの中には、同じような部類の事柄でありながら、違いがあり、互いにペアになりながらも対立しあう事物の組み合わせがいろいろとある。
日常生活で経験される様々な出来事は、単独で孤立した物事と向き合う体験というよりも、事物の組み合わせ関係の中での駆け引き、綱引き、交代、転換として経験されることが多い。
朝と夜、同性と異性、親と子、喜びと悲しみ、不満と満足、不幸と幸福、暑いと寒い、空腹と満腹。その他諸々、今日の私たちの日常もこうした組み合わせ関係にある二項の間をあちらからこちらへ飛び移る経験の束で出来上がっている。
ということで、今回はこちら↓のnoteのつづきである。
ホモ・サピエンスにとっての世界の自明性(あたりまえさ)
私たちがこのホモ・サピエンスの身体・中枢神経系を以て経験できる世界は、様々な物事の付かず離れずの組み合わせ関係として、その関係のパターン化した交代運動として存在することになる。
この組み合わせ関係とその交代運動のパターンに「ゆらぎ」が生じる時、私たちが経験できる世界の「あたりまえさ(自明性)」がグラつくことになる。例えば、古代の人々にとっては、日食、彗星、あるいは「人間が犬を噛んだ」や「竹から生まれたお姫様がミカドの求婚を断った」といった事件である。
付かず離れずの組み合わせ関係が、くっつき過ぎたり、離れ過ぎたりすることは、古代人にとって、いや、シンボルで思考する現代人を含むすべてのホモ・サピエンスにとって、世界の自明性の危機として受け止められる。
おそらく現代の様々な対立も、このシンボルの組み合わせ関係としての対立関係を安定させておきたいとする人類の性向に端を発する部分がある。
この点、シンボル、シンボル同士の組み合わせ関係としての意味ということを考える神話的思考の「科学」は、実はたいへんな重要性をもつのである。近年の人類学がもりあがりつつあるのもこのためである。
神話的思考は付かず離れずの対立関係をシンボルで作ろうとする
ここで神話的思考は、「語り」を開始する。
シンボル同士の組み合わせ関係を、付かず離れずの安定した距離を保つ運動へと引き戻すために、シンボルに名前を与え、その名前をもったシンボルたちが登場人物として大活躍する「神話」が語られる。
神話は、付かず離れずの組み合わせ関係にあるべき二つの事柄のあいだが、離れ過ぎたり、くっつき過ぎたりしたときに、そこに「つかずはなれず」の関係を回復すること、二つの事柄が近づきすぎでひとつにならないように、また離れすぎてしまわないように、異なったままひとつに繋がるようなバランスを回復するプロセスを、声によって語りだそうとする。
語りの中で、シンボルの関係を結び直し、そうして世界の自明性、自明な世界をコードする意味を、回復させようとするのである。
これが神話的思考である。
例えば太陽と月の付かず離れずの対立関係を説明するために、太陽と月がむかしはそれぞれ人間で、二人は川面を進むカヌーの前と後ろに乗っている、といった神話の語り。
この神話は、太陽と月という、異なりながらも一体として運動する(ように考えられる)二者のバランス関係を説明するのである。
記紀神話も神話的思考のスナップショットとして読める
日本の神話、日本書紀や古事記の伝えられた話の様々な部分も、このような神話的思考の発露として読むことができる。
日本書紀や古事記は「歴史書」として記された経緯がある。
そのため、編纂された当時の社会や政治の現実と結びついて、その現実がそのように出来あがるに至った経緯を記録し説明するという側面がある。
例えば、記紀編纂の時点で国土となっていた全国津々浦々の土地に、今もそこに暮らす部族の祖先たちがはじめて到着したという事実。そこから部族の祖先たちが更に移住を重ねていったという事実。部族の中に「超」自然的なパワーとコミュニケーションできると信じられた人々が登場したという事実。そして、ある部族と他の部族との間で争いと和解が繰り返されたという事実。そうした事実の伝承を記録しようとしたのであろう。
ところが、記紀における伝承の記録は、現代の客観的な科学としての歴史学が行うような記録とは、かなり異なった様相を呈することになる。
日本書紀、古事記に編纂された「情報」の元ネタは、大本を遡ればそれぞれの部族の「語部(かたりべ)」が、自分たちがどこから来ていまここに居り、どういう祖先たちが居て、どういうことを成し遂げたかを言葉で、声で、語りで、部族やの若い人たちに聞かせたものであった。
語部の声といえば、何と言っても折口信夫の『死者の書』であろう。
もちろん記紀以前にすでに文字で記された歴史の記録があった可能性はあるが(先代旧事本紀の元ネタの一つになったと想定される失われた文献のように)、それもまたもとを辿れば部族の語り部の声を文字に映したものである。
古代の記録は、語部の記憶のなかにあり、その語りのなかにあり、声であり、その声を聞く氏族の若者たちの耳にあった。
人類は数万年にわたって言葉を用いてきたと考えられるが、文字を用いはじめたのはほんの数千年前のことである。人類は数万年の間、声だけでコミュニケーションし、声だけで、口と耳と脳の記憶力を頼りに、自分たちの部族の神話を語り継いできた。
日本書紀や古事記が記された当時は、朝廷に使える主要な氏族の間にも、まだそうした「語部」の世界が残っていたようである。しかしその一方で、漢字による記録に基づく統治が強化されていった時代である。平安時代、奈良時代あたりから朝廷は文書主義になっていた。
中国の文明にふれるなかで、公式の歴史書といえば文字で書かれているものだと考えるようになった王権中枢の文官たちにとって、口承で伝えられてきた自分たちの王権の歴史を、中国の文献のような体裁で文字に書き写すことが必要に思われたのだろう。文字(漢字)で記録しておかないと、公式な言葉にならないと考えられたらしい。
その一方で、記紀の神話の元ネタが、日本列島に渡来した稲作農耕民の様々な部族の口承をベースに重なり合ったり、置き換わったりしながら変容し続けた神話的思考のスナップショットだとすると、その蓄積はおよそ1500年間くらいに及ぶはずである。
神話的思考のフィルタを通した「事実」
神話の語りには、その出発点になんらかの事実の経験があった可能性が高い。そうした事実の記憶の断片が、伝承の中にその痕跡をとどめているということは十分に考えられる。
ところで、ここで神話的思考は「事実」ということを、他と無関係にそれ自体として存在する個物たちが並んでいる様としては捉えない。神話は事実をあくまでも対立関係にある事物たちの組み合わせのバランスとして捉えようとする。
つまり現代的な客観的な記録が「いつ、どこに、あれこれがありました、以上です。」で終えてしまえうところを、神話的思考は互いに関係し合いながらバランスを取り合い、それによって世界の現実の自明性を作り出している事物たちの織りなす駆け引き、対立から調停に至る過程として語ろうとする。
神話的思考は、ある経験された対立関係を、別の経験的な対立関係に置き換えることで、前者の関係が区切られ生じた理由を説明したことにするというパターンで展開する。
こうなると、遠い昔に誰かが経験した出来事についての伝承は、神話的な語りの枠組みのなかに捉えられることで、何らかの対立的な出来事、対立関係が際立つ事件として伝えられていくことになる。
日本書紀や古事記が「歴史書」として編纂された経緯から、その記述のうちどこまでが「事実の報告」で、どこからが「創作された説話的なもの」なのか、といったことが問題になる。
記紀に記された「歴史」は、現代の歴史学が要求する水準での客観的事実の記録・報告とはいえないだろう。しかし一方で完全な作り話(誰かの思いつき)なのかといえば、それもまたそうとは言い切れない。
むかしむかし、あるところで、人々に強い印象を残す大事件があり、その大事件についての語りが、人から人へ、世代を超えて、口承で伝えられていく。その語り聞く関係の中で、事実の記憶の内、特に対立的な関係とその調停にいたるプロセスに関するところが、神話的思考の注意を強くひく。
さらにそうして絞り込まれた対立的な事実が、すぐさま他の概念的な対立関係に置き換えられる。対立的な事実と、その理由を説明する概念的な対立関係が、不可分一体のものになる。
そうして現実に繰り広げられた事態のうち、なんらかの対立関係として浮かび上がる側面が、神話的思考による変換処理を経て伝承の中に痕跡をとどめたものと考えると良い。
伝承に語り継がれた事実の痕跡というのは、実際にあったことをありのまま網羅的に記述した報告のようなものではなく、典型的な経験において対立するシンボル同士の関係に照らし出されたひとつの影のようなものとして読み解いていくと、おもしろいかもしれない。
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補
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