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読書メモ:井筒俊彦『言語と呪術』(その1)

 先日の『ソウル・ハンターズ』と合わせて読みたいと思い、井筒俊彦著『言語と呪術』を入手した。

 『ソウル・ハンターズ』についてはこちらのnoteでさらりと触れたが、ポイントは言葉には、論理的で科学的なものから、俗に言う迷信や呪文のようなものまで、大きく異なるモードがあり、異なるモードで言葉を使用する人の間で「翻訳」をするのは至難だ、ということである。

 厄介なことに、表面的に聞いたり読んだりできる単語、形態素の相貌からは、それがどのモードにあるのかわからない
 ある単語を他の人がどういうモードで言い書いたものかよくわからないまま、私は私のモードで、その意味を解釈する。

話が伝わらない

 昔、ある知人が、誰かのことを批難して、

同じ日本人同士なのに、話が通じない。

 という不満を口にしていたことがあった。

 詳しいことはよくわからないが、なにやらとても憤慨していた様子だったので、落ち着いて貰おうと、こんな話をしてみた。

あなたはこんな風におもっているのではないですか?

“あいつも俺と「同じ日本語」を使っている。
ひとつひとつの単語の意味、文の意味は「当然だれにとっても同じ」であり、俺が言ったこと、書いたことの意味は、そのまま正確にあいつに伝わるはず。いや、むしろ伝わるべき。なのになぜそれがうまくいかないのだ?!”

と。

 確かにそのとおりだという。というか、そんなことは当たり前のことであって、貴様は小むづかしいことを言ってからかおうというのか!と、怒りの矛先がこちらにまで向けられてきた。どうにも話が通じる様子ではないので、それ以上は深入りせず、3秒ほど沈黙した上で「コミュニケーションって、むつかしいものですね」と、すばやく幕を引いておいた。

いつでもどこでも、誰にとっても同じ意味

 とはいえ、ある言葉の意味が、いつでもどこでも誰にとっても同じだと、なぜ想定できるのか? という具合のことを、改めて疑問の思ってみるのは悪いことではない。

 通じない、ディスコミュニケーションこそが定常状態であって、たまたま、偶然、あるいは何かの間違いで「通じた(とお互いに信じることができた)」のだと、そのくらいに考えておいた方がよいのである。それこそが多様に異なる他者同士として出会わざるを得ない個人と個人の間で、もっとも誠意ある態度なのかもしれない、と思ったりもする。

 日本語を学習中の外国からの留学生に、こちらがぽんと出した日本語が通じない。そんなときは丁寧に、次から次へと、別の言葉、日本語だったり、別の言語だったりするが、とにかく別の言葉に言い換えることを試みる。一度や二度の言い換えで伝わるものでもない。何度も何度も繰り返す。
 そうしてどこかで、お互いに「わかった」と言い合えるところを探り合う。

 同じ母語ですらすらとやり取りできてしまう相手には、こうした「伝わらないことを前提とした探り合い」の時間をおかずに、一方的に「伝わる前提で」単語を投げつけてしまう事がある。

 『言語と呪術』の話から外れてしまった。
 論理や科学の言葉でも、迷信や呪詛の言葉でも、そのすべては無数の「象徴」を新しく生み出すことができる人類の心から生まれるものだという話である。

 象徴はそのままで誰かに何かを伝えられるようなものではないが、しかし「何ごとかがある」という透明な存在感だけで、ありありと迫ってくる。

 傍から見ている者の立場としては、そこに大急ぎで手持ちの言葉を充填して、何かが伝わったと早合点しないことには、どうにも落ち着かないのである。

   理路整然とした辞書通りの言葉ではなく、呪術にこそ、こうした言葉の基層にある動きが、ありありと見て取れるという『言語と呪術』。とてもおもしろい本である。

つづく




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