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予備校三国志 第5話 「偏差値革命」

前回 第4話 「名古屋の雄、河合塾」
https://note.com/waxwax/n/n2be0b73acc81


 統計学で用いる「偏差」を成績の指標として使えるようアレンジした「学力偏差値」は、1957(昭和35)年に中学教師の桑田昭三により考案された。
 長野県内ののどかな農村にある中学から東京都心の中学へ転任した桑田は、その受験指導の違いにカルチャーショックを受ける。農村の中学では生徒の希望に対してとやかく言うことはなく「油断せずにがんばりなさい」と激励の言葉をかけるぐらいだったが、東京ではテストの成績が廊下に張り出され、夏休みと冬休みには補習授業を行っていた。

 受験シーズンが近づくと、各クラスの担任と進学指導主任の教師が勢揃いした「志望校判定会議」が開かれる。会議では生徒を成績順に並べた表を見ながら、志望校が合っているかどうか検討していくのである。

ごらんのように1番から11番のところまでみんな日比谷(高校)を希望していますが、このうち10番までは絶対といっていいくらい大丈夫だと思われるから◎。11番のA君は、大丈夫だとは思うが、多少不安を感じるので○。次の12番のB君は九段(高校)を希望しているが、日比谷にしても五分あるいはそれ以上の可能性はあると思われるが、当人の希望が九段なら無理することもないでしょう。

桑田昭三『よみがえれ、偏差値:いまこそ必要な入試の知恵』

 このときの会議で問題となったのは、13番の津川という生徒だった。津川は桑田のクラスの生徒で、都立最難関の日比谷高校を志望していた。桑田は「きっと大丈夫だから」と津川を励ましていたが、会議にて進学指導主任は「無理」と判断し、桑田に志望校を変更させるよう指示する。津川にチャンスを与えてやりたいと考えた桑田は「11番は○で13番の津川が✕だと判断される根拠についてご説明いただきたい」と食い下がるが、進学指導主任は前年の進学実績と自らの勘を理由にして意見を曲げない。桑田の方にも、津川に十分な学力があると証明する手立てはなく、進学指導主任にねじ伏せられた格好で会議は終わった。

 翌日、桑田が会議の詳細を津川に伝えると、津川はそれでも日比谷高校を受けたいという意思を示した。桑田はその意思を尊重して受験へと送り出したが、津川は不合格に終わった。
 結果的に進学指導主任の判断が正しかったわけだが、桑田には釈然としない気持ちが残った。受験に失敗があるのは仕方がない。それでも、一部の教師の勘によって志望校が定められるのはいかがなものか。「きちんとした計算によって、その子どもの成長発達の道筋にしっかりと位置づけされた指導が用意されておこなうのが教育というもの」と考える桑田は、科学的に合格可能性を占う方法を模索しはじめた。

 全学年のテストの点数と順位の推移を調べた桑田は、一年を通じた平均点をもとにした判断はあてにならないことを突き止める。テスト5回分で出した平均点数を用いる場合と、そのうちの1回を抜いた4回分で計算する場合で生徒の順位は大きく変わってしまうのだ。顔ぶれがほとんど変わらない最上位層を除けば、テストの点数は指標としてあまりに不安定すぎることがわかった。
 平均点が役立たないのであれば、それに代わる指標がなくてはならない。
 その後桑田は、他校の教師からのアドバイスや統計学の本を参考に2年がかりで研究を続け、全生徒の点数のばらつきを考慮した上で成績の良し悪しを弾き出す「学力偏差値」を考案する。

 偏差値の利点は、難易度の異なるテスト間でも生徒の成績を比較できることにあった。
 例えば、ある生徒が平均50点のテストで55点を取り、次に平均60点のテストで70点を取った場合、その生徒の学力がどれだけ伸びたかは推定しづらい。平均点が同じ50点のテスト同士でも、多くの生徒が40点から60点の範囲にいるケースと20点から80点まで散らばっているケースで1点の重みは異なる。そうした難易度のばらつきを織り込んだ偏差値であれば、学力が伸びているかどうかをより正確に測定することができる。
 さらに大きなメリットは、偏差値を使えば合格の可能性を数値で表せることだ。偏差値60の生徒が次のテストで偏差値65を出す確率は統計学の計算で導ける。「いまの学力でこの学校を受験しても受かる確率は20%しかないよ」といった指導が可能になるのである。

 桑田は同僚と偏差値の概念を共有し、受験指導に役立てた。当初偏差値は桑田が勤める学校でのみ流通していたが、次第に他の学校にもその存在が知られるようになる。その後桑田が学力テストの制作を行う進学研究会に転職したことで、偏差値を使った指導は都内の中学全般に広がった。

 偏差値が便利だという噂は、名古屋にいる河合塾の西田の耳にも入っていた。しかし、偏差値を大学入試に応用するには大きな壁があった。
 受験者のほぼ全員が都内の中学生である東京の高校入試と違い、大学入試には全国の高校生や浪人生が参加する。つまり、正確な偏差値を弾き出すためには大量のサンプルが必要になる。特に東大の場合、都内の名門高や大手予備校に通うハイレベルな学生がライバルとなるため、彼らを無視して東海地区の学生の成績だけを集めてもあまり意味はない。理想はできるだけ大量かつ広範囲の学生が、何度も共通のテストを受けることである。

 そこで西田は、他地域の予備校や受験機関と連携しての大規模な模試に力を入れることにした。
 1965年度、河合塾は公開模試を9回主催したが、そのうち単独で開催したのははじめの2回のみ。残り7回のうち各1回を駿台や代ゼミ、一橋学院といった東京の予備校と、1回を旺文社と、3回を名古屋大学の学生文化研究会との共催で行った。学生文化研究会とは、学生が一種のアルバイトとして自分の大学に特化した模試を作る団体で、他の主だった国立大学にも同様の組織が存在していた。駿台や代ゼミとの共催が可能だった点に、まだ牧歌的だった当時の予備校の関係性がうかがえる。参加者が増えれば増えるほど分析の精度は上がるため、河合塾の職員は盛んに高校へ声がけをして模試を受ける生徒を増やした。

 こうした模試を通じてデータを集め、河合塾は各大学への入学に必要な学力を偏差値で示した「大学入試難易ランキング表」を作成する。これは同年に旺文社が『螢雪時代』の付録とした「大学入学難易ランキング」と並んで、偏差値が大学受験に導入された最古の事例とされている。受験生が模試の結果と大学の偏差値を見比べて一喜一憂する、いまでは当たり前の光景はこのときに始まった。

 とはいえ偏差値導入初期、河合塾はその取扱いに慎重を期していたようである。偏差値は大学の合否を予測する上で強力な数値ではある。しかし受験生がそれを絶対的な指標と捉えれば、低い偏差値が出た生徒は意気消沈し、高い偏差値が出た生徒は慢心してしまう。はじめて合格可能性の評定を出すにあたっては塾内で大激論が交わされたという。
 その論争の跡は、河合塾が打ち出す合格可能性判定の文言にあらわれている。

(イ)ホボカクジツ・・・・・
         現在の努力をつづけるならばまず大丈夫でしょう。
(ロ)ユウボウ・・・・・・
         合格圏にあるが安心は禁物。
(ハ)ボーダーライン・・・・・
         合否線上にあり。 もう一段の努力で合格圏へ
         突破できる。頑張れ。
(ニ)コンゴノドリョクシダイ・・・・・
         今後の伸びを期待し一層の努力を望む。
(ホ)サイケントウオヨウス・・・・・
         学習方針を再検討し、一大努力による飛躍的な
         実力の伸びを要す。

『河合塾五十年史』

 これは偏差値導入から4年が経った1969年時点での文言だが、どんなに成績が良くても努力は不可欠であること、成績が悪くても努力さえすれば合格の可能性があることを示唆する内容となっている。「大学入試難易ランキング表」においても各大学の学部を専門分野別に分けてランキング化し、受験生に偏差値の高さのみで志望先を選ばせるのではなく、自分の学びたいことを第一とするよう促していた。

 西田による偏差値導入は、すぐさま他の予備校にも波及する。
 駿台は自社で偏差値を算出するべく、日立が開発した事務用計算機「HITAC201」を導入。タンスかと見紛うほどの大型の機械を置くために、校舎の向かいにあるクリーニング店の家屋を買い取って電子計算機室に改装した。室内に忍び込んだねずみがケーブルをかじって計算がストップするトラブルに見舞われながらも成績データの解析を進め、駿台は1965年の末に各生徒へ配布した「進学資料」に偏差値を使った合格確率を載せた。代ゼミも1966年に、公開模試の結果を処理するためのコンピューターを導入。以後、生徒に配布する学生手帳に各大学の偏差値の一覧表をつけるようになった。

 通産省が富士通、沖電気、日本電気(NEC)の三社に「電子計算機技術研究組合」を結成させて約3億5000万円の補助金を投じ、国産大型コンピューター「FONTAC」が完成したのが1964年11月。同じ年に早川電気(現:シャープ)が発売した日本初の電卓は1台50万円以上と高額で、そろばんの級位を持つ高校生は企業からの引く手あまただった時代である。駿台と代ゼミの電算機導入は、他の業界と比べても凄まじく早い。

 河合塾では当初、手動式の計算機を回して偏差値を算出していたが、人力に頼る計算には限界があり、西田の発案で富士通から大型コンピューター「FACOM230-10」を購入している。同コンピューターは名古屋における1号機であり、2号機の納入先は名古屋大学だった。この事実もまた、予備校業界がいかに素早く電子化へ移行したかを物語っていよう。

 偏差値が入試の世界に与えたインパクトは、まさしく革命と呼ぶべきものであった。
 それは受験生が模試の結果を〝紙の託宣〟として崇めだしたことにとどまらない。偏差値は予備校ビジネスの本質を変化させたのである。
 河合塾の職員は言う。

偏差値に教育的な価値を求めるなどという、大層なことは考えていませんでしたよ。ただ、この情報を活用すればえらいことが起こるんじゃないか。そんな気配は十分に感じていました。(中略)模擬試験に結果を集計し分析によって生まれる情報力、受験生から吸い上げてくる情報力、それらを総合的に分析する情報力、すべての情報を繋ぐパイプ役を模擬試験が担っているのだと気づきました。

河合塾75周年記念誌『河合塾プラス』

 偏差値を算出するために生徒の成績を大量に収集・分析していくと、どんな勉強をしている生徒の学力が伸びやすいか、一年の学習でどれくらいの成長が見込めるか、どの科目のどの分野に強い生徒がどの大学に合格しやすいかなどが明らかになる。そこで得た発見を教材や模試に盛り込めば教育内容をより充実させることができる。それはコンビニチェーンが顧客の購買行動から吸い上げた情報を商品開発に役立てたり、Amazonなどの通販サイトがユーザーの利用法を分析してインターフェイスを改善したりすることに近しい。

 教育事業の情報産業化。これこそが偏差値が予備校にもたらした革命であった。そしてこの進化が真価を発揮するのは、十数年後に起こる入試改革のあとになる。

 最後にもう少しだけ、西田の活躍を記して本章を閉じよう。
 西田は塾内体制の合理化にも尽力した。入社翌年に事務局を設置し、自ら局長に就任すると、業務の分業化と専門化を進めた。具体的には、それまで講師が請け負っていたテストの採点作業を職員に担当させ、講師を学生への教授に専念させた。さらに教務部門のスタッフの業務を拡大し、授業科目や時間割の設定、講師の手配などの事務作業を教務が取り仕切ることで講師が指導に集中しやすい環境を作り上げている。



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