ザ・ルーツのドラマー、 クエストラヴが語る、プリンスがヒップホップである33の理由。
クエストラヴの本職はドラマーだが他にもtwitterのユーザー政治的扇動者、歩く音楽百科事典、伝説のバンド=ザ・ルーツの創立者の1人、アメリカのトーク番組『Late Night with Jimmy Fallon』のバンド・リーダー、そして大のプリンス・マニアという様々な顔を持つ
33 Reasons
Why Prince Is Hip-Hop
なぜプリンスが “ヒップホップ” なのか?
33の理由を挙げてクエストラヴが分析する
1991年10月、プリンスは新たなスタートを切った。その時点で、デビューしてから13年が経っており、何かを変えないといけないと考えたのかもしれない。ファンでさえ1978〜88年頃のプリンスのことをすでに過去形で話していて、そのことに対してもプリンスはうんざりしていたことだろう(その時期は彼の“天才時代”と呼ばれる。『Woman in Red』以前の、スティーヴィー・ワンダーの1971〜76年あたりに似ている)。彼の1989年のサウンドトラック『Batman』は、商業的には成功したものの、どこか荒削りで中途半端に感じた(そもそも80年代後期のあの時代は、バットマンのロゴがあるものなら何でも売れた。どんなアルバムを出そうが、あの金色のロゴが付いている限り、巷の人は買ってくれたのだ)。その次に出したアルバムは、彼のブレイクのきっかけにもなった、かの名作の続編という位置づけだったが、内容はイマイチだった。おそらく、今あなたが手にしているこの雑誌の大々的なプリンス特集が実現している理由の根底には、伝説のヒット作『Purple Rain』による歴史的な成功があると思うが、1990年にリリースされたその続編の『Graffiti Bridge』は、彼のキャリアに傷をつけることとなり、前作のまったく逆の結果となってしまった(しかしその作品の音源が、いわゆる“天才時代”に作曲、録音されたものだったりもするから複雑だ)。
そして、1991年になった。新しいバンドを引き連れ、プリンス&ザ・ニュー・パワー・ジェネレーション名義でリリースしたアルバム『Diamonds and Pearls』は、彼が新たに“ラップ”という手法(ヒップホップではなく、あくまでラップ)を取り入れた意欲作だった。1988年の『Lovesexy』以来の“ちゃんとした”フル・アルバムであり、また、チャートのトップ10入りを果たさなかったアルバムとしては、1981年の『Controversy』以来であるその作品は、まるで票獲得のため保守派の白人政治家が、スラム街で必死に愛嬌を振りまいている時のような、なんとも言えない胡散臭さを漂わせていた。何よりも不思議なのは、彼は“ラップ”などを取り入れる前から、すでに“ヒップホップ”を全身で体現している存在だった、ということだ。
彼はヒップホップ・パイオニアの1人である、とまで言ってしまおう。そう、あのプリンスのことだ。ヒップホップ・アーティストが思いつきもしないような凄いことを、プリンスはやすやすとやってのけた。そんなわけで、今回、芸能生活33年を突破し、キリストのステータスにまで到達した彼を祝い(註:キリストは33歳で亡くなったと言われる)、なぜ“サッカーなMCたちは彼を陛下と呼ぶべき”(註:ランDMC「Sucker M.C.’s」の歌詞“sucker MC’s should call me sire”より)なのか、33の理由を挙げて論じてみよう。
33「ヤバすぎる、俺たちはヤバすぎる」
2ライヴ・クルー「2 Live Is What We Are」より
1988年、『Lovesexy』が発売される。アルバム・ジャケットでプリンスは、全裸でポーズをとっていた。
32 & 31「仲間にならないならボコボコにしてやる」
パブリック・エネミー「Too Much Posse」より
MCハマーが爆発的に売れ、ポップ・ミュージック・シーンの注目の的になると、それまでラップに対して拒絶反応を示していたプリンスはスタンスを変え、クリエイティヴィティよりもその音楽人生の存続を重視する方面へと路線変更した。しかし1997年頃になると、彼はまた立場を変え、セルアウト・ヒップホップに厳しい態度をとるようになった。もちろん、彼のバンド、NPG(ニュー・パワー・ジェネレーション)の結成と、バンド・サウンドに加えサンプリングやブレイクビートを盛り込み(ここを31番にさせてもらう)、ところどころに“Nigga”という単語が挿入された1991年の『Diamonds and Pearls』の発売によって、俺が音楽の世界に足を踏み入れるずいぶん前から、彼は俺がやろうとしていたことをすでにやり遂げていたことが証明されている。
30「親父から受け継いだんだ。ヤツが家にいる時は、悪さなんてできやしなかった」
パブリック・エネミー「Rebirth」より
権威に対する反抗から、非凡な才能が発揮されることは多い。達成できやしないと誰かに否定されても、くじけず何かをやり通すような、そんな時だ。プリンスの父親は彼に冷たく言い放ったそうだ。「俺のピアノに触るな」と。もちろん、それを聞いたプリンスは、「好きなだけピアノを弾いてくれ。そしてその努力の賜物により、20年後に楽な生活をさせてくれ」と言っているのだと勝手に解釈した。それが、ジョセフとティト(註:マイケル・ジャクソンの父親と兄)のような間柄だったのかは分からないが、プリンスは独学でバットマンのテーマ・ソングを弾けるようになった、という逸話は知っている(言ったよな? 彼は先見の明を持っていると)。そしてすぐにどんどん上手くなっていった……家を追い出され、親戚の家を転々とし、12歳で家出するまでは。
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