GAGLEの一員として日本のヒップホップ・シーンに重要な足跡を残すDJ Mitsu The Beatsへインタビュー。
GAGLEの一員として日本のヒップホップ・シーンに重要な足跡を残すと共に、ソロ・アーティストとしても数々のアルバムを発表しているDJ Mitsu The Beats。世界的にも名の知られるDJ/トラックメイカーである彼が、新しいソロ・アルバム『Beat Installments』を発表した。
Beat Installments
DJ Mitsu The Beats
ビートに宿る無限の可能性
意外にも彼にとって初のインスト・トラック集だが、ヒップホップの太いビートを根底に持つ彼の原点的なところを見せつつ、その音楽性に大きな影響を与えたジャズ・ファンクの要素を感じさせたり、また曲によってビートダウン・ハウス的なものもあったりと、Mitsu The Beatsらしい幅広さを感じさせる作品集に仕上がった。今回のインタビューでは、デビュー前から現在に至るまで、その歩みも振り返ってみたい。
ヒップホップと出会ったのはいつ頃ですか?
最初は子供の頃に「ダンス甲子園」とかのテレビ番組を観たのが始まりで、ニュー・ジャック・スウィングの中にもラップのパートのある曲があり、そこからどんどんヒップホップへ傾いていったんです。同時に、いとこが持ってたビートルズのピクチャー・ディスクを見て、「レコードっていいな」と思うようになり、高校2年の頃に自分でもレコードを買うようになりました。2パックやオリジナル・フレイヴァーとか、最初は普通のミニコンポで聴くだけだったけど、テレビ番組のDJバトルなどの影響で、見よう見まねで始めたのが最初のDJ体験かな。ピッチ・コントローラーのないターンテーブル2台で、自作のミックステープを作ってましたよ。DMCのビデオでQバートのプレイとかを観て、最初の頃はバトルDJに憧れていましたね。
その後、実弟のHUNGERやDJ Mu-RとGAGLEを始めます。
大学進学で盛岡から仙台に移って、そこでクラブに行くようになって、ラップ・チームを組んだりしてました。HUNGERは僕の1年後に同じ大学に入って、一緒のアパートで生活するようになり、もともと音楽好きということもあって同じ世界へ引きずりこまれていった。僕とHUNGERはMCをやっていて、そのバックにDJが欲しいなと思い、「まだ高校生だけどいいDJがいる」ということで、目をつけていたMu-Rに声をかけて手伝ってもらうようになった、というのがGAGLEの始まりです。GAGLEの中で僕は、今は基本的にDJとトラックメイキングをやってるけど、最初はMCをやっていたんです。正式に「グループとしてやっていこう」となったのは、1996年のことですね。
トラックメイクをするようになったのは?
やはり1996年頃かな、MPC 2000が発売されて、今まで手が出なかったような機材が比較的安く手に入るようになった。前からトラックを作りたいと思ってたから、それを買って始めました。周りでトラックメイクをしている人はまだ多くなかったけど、そんな中でgrooveman Spotは90年代から互いに作ったトラックを聴かせあったりするような仲間ですね。
JAZZY SPORTとの関わりはいつ頃から始まったのですか?
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