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コリン・ウルフは、ドクター・ドレーと共にドレー『The Chronic』の音作りを手がけた重鎮だ。

もしDeath Rowが90年代のMotownだったとしたら、コリン・ウルフはGファンクにとってのファンク・ブラザーズだ。ミュージシャンのコリン・ウルフは、ドクター・ドレーと共にドレー『The Chronic』、 NWA『Niggaz4life』、そしてジミーZ『Muzical Madness』の音作りを手がけた。

G-Funk Brother

Gファンク・サウンドを生み出した最重要人物

Colin Wolfe

 カリフォルニア州ヴェニスはクリエイティブな人が集まる街だ。海沿いのこの街には1960年代のサイケデリアの文化が残留しており、ビート・ジェネレーション時代のポストモダニズムなヴァイブスが漂っている(ジム・モリソンはこの街でインスピレーションを得ていたらしい)。ギャラリー、芸術家のロフト、医療大麻を扱う施薬所などがヴェニスの迷路のような入り組んだ道に立ち並ぶ。宝石職人が道端で装飾品を売り、スケーターが歩行者の合間を縫って走り去る。LAPD(ロサンゼルス市警察)でさえここではまったりしている。

 この街の喧騒に隠れて佇む、とある古い2階建ての一軒家は、どこにでもありそうな目立たない風貌だが、中はレコーディング・スタジオに改造されている。1階のPro Tools部屋ではエンジニアがヴォーカルをレコーディングし、廊下を挟んだ向かいの部屋では、TVプロモ用のサウンド・デザインのセッションが繰り広げられている。2階の小さなコントロール・ルームでは、作曲家コリン・ウルフが、ドースというデュオの新EP『Pills』のラフ・ミックスを聴いていた。レイドバックで、L.A.らしいクールさを纏ったコリン・ウルフは、スタジオに出入りする人々にあいさつをしながら、流れているインディートロニカのビートに合わせて、笑みを浮かべながら頭を揺らしていた。この、ネオ・ヒッピー集団に身を置くウルフが、まさかドクター・ドレーと共にハードコア・ヒップホップのサウンドに革命を起こした人物だとは、誰も思いはしないだろう。

 ドクター・ドレーは、今までヒップホップ界の潮流に最低3回は変革をもたらしてきたアーティストだ。NWAとして登場した時、Death Row Recordsに所属していた時、それから、エミネムを世に出した時、だ。リリースが噂され未だに発表されない自身のアルバム『Detox』が出たら、4連勝になるかもしれない(出たらの話だが)。彼が手がけて来たアルバムの中でも、『The Chronic』はドクター・ドレーのキャリアを代表する名作だ。NWA時代の作品の系譜にありながら、更に洗練された彼の濃密なビートが集められたこのアルバムは、ヒップホップ界においてとてつもない影響力を有した。この作品に感化され、楽曲にMinimoogを使用し、Pファンクのレコードをサンプリングし、熟練のセッション・ミュージシャンを雇うアーティストが急増したのだ。

 彼が作り出したベースやシンセのグルーヴは、それまでギャングスタ・ラップ界に皆無であったハイレベルな音楽性を『The Chronic』にもたらし、ドクター・ドレーのその後の美学を形成する青写真となった。2012年現在、ドクター・ドレーのソロデビューから20周年という節目を祝福し、コリン・ウルフにインタビューをすることが叶い、彼がどのようにドクター・ドレーの作品を更なる高みへと導いたか、語ってもらった。

音楽制作を始めたのはいつでしたか?

 俺は(ロサンゼルスの)ボールドウィン・ヒルズで育って、小学校の頃に少しドラムやトランペットをやっていた。その後、Palisades Charter高校に通った。なぜだか、高校時代の友達は俺にベースをやるよう勧めてきた。質屋でベースを買って、(ザ・ビートルズの)「Day Tripper」を完璧に弾けるようになった。白人ばかりのバンドにいた俺は、様々なロックバンドを勧められたよ。レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フーなど。俺は俺でスタンリー・クラーク、ジャコ・パストリアス、レヴェル42、そしてマーク・キングというヤバい白人ミュージシャンなどを聴いていた。特に、ツェッペリンはお気に入りだったよ。ジョン・ポール・ジョーンズは本当に良いベーシストだった。彼はジェームズ・ジェマーソンやMotownに影響を受けていたんだが、その影響は彼の音楽に現れている。とてもファンキーなんだ。とにかく、高校の後、俺はUCLAで生化学を専攻して、科学者を目指しながら、合間にギグをやっていた。

どういった経緯でドレーと制作するようになったのですか?

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