紀里谷和明氏の本を作ったら人生を無茶苦茶にされた話
※この記事は、紀里谷和明氏の著書『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』(文響社刊)の担当編集である編集集団WawW! Publishing乙丸益伸が記す。
その途上に死すとも、我が人生に一片の悔いなし!
「瞬さ・・・、俺・・・、この本を担当できるんだったら、これで俺の編集者人生が尽きてもいいわ・・・」
僕が、2015年11月に、当時の部下(瞬(仮名))に対して発した言葉です。
それは当時、『ラストナイツ』という映画でハリウッドデビューを果たしていた紀里谷和明氏の次のインタビュー記事( 【「日本では内戦が起きてる」圧倒的な迫力に言葉を失った紀里谷和明氏インタビュー】 )を読んで・・・、
「この人の本を作りたい!(編集したい!)」
と思った直後の話でした。(*先のインタビューは当時「Spotlight」というサイトに掲載された記事だが、現在はサイト自体がなくなっていて非常に残念である)
***
その記事の中で紀里谷氏は・・・、
「なんにもせずに人のせい・社会のせいにするようなヤツらが、ウイルスのような毒素をばらまきまくってるわけです。炎上させたり、“リア充”って言葉で人を笑ったり。で、それに対して今度は“がんばってる人たち”側が気を遣ってしまってますよ。炎上したらどうしよう、リア充って笑われたらどうしようって。
バカじゃないのと思いますね。なんでそんなヤツらの言うことを聞かなきゃいけないのって。そういういらぬ気遣いを子供たちが真に受けちゃって、自分がやりたいこともやっちゃいけないんだって思いはじめちゃうんですよ。なんなのそれ、って思う。
断言してもいいけど、いま日本国内では内戦が起きていると言えますよ。どういうことかというと、“がんばって行動する人たち”と“しないヤツら”の内戦。“何かに情熱を傾ける人たち”と“それをバカにするヤツら”の内戦。」
という話をされていた。
「本当にそうだ・・・」
その時、僕はそう思いました。
そして、
「この人の本を作りたい・・・」
そう思いました。
なぜか? 僕は高校生の時に映画監督になりたかったからです。しかもハリウッドでバリバリに活躍する映画監督に・・・。(ただ実際今もその夢は諦めてなくて、将来的に少し形は変わって「お金と口」を出すプロデューサーになりたいと思っています^^)
だから当初、「ハリウッドデビューした日本人映画監督」と聞いて、ものすごく興味を持ちました。
そして当時の僕というのは、学生時代からの夢だった編集者になって6年が経ち、その間に意外とやりたいことをやり尽くし、「やりつき症候群」に陥っていた時でした。
編集者になって、ほとんど休みも取らず、一心不乱に編集の仕事に取り組んできた僕でしたが、人生ではじめて遭遇した「夢がない・・・」という状況でした。
※その時僕になにが起きていたかに興味がある方は、以前まとめた「信念持って4年経済書の編集を続けたら、内閣官房参与から「君に本の編集をお願いしたい」と逆指名が届いた話(泣)」という記事をご覧いただければと思います。
それで次なる「進むべき道」を模索している時に飛び込んできたのが、前述の紀里谷氏のインタビュー記事だったのです。
***
ずっとずっとワーカホリックで、海外の旅先でも仕事してる姿をSNSにアップするほど仕事にばかり打ち込んできた僕は実際、当時「意識高い系」といったような揶揄が世の中に出てきだしていることを苦々しく思っていました。
そして、僕の以前の夢だったハリウッドの映画監督という夢をかなえていている正にその人が、僕と同じようなことを力強く発信してくださっていることに一際の興奮を覚えたのです。
だから、「この人の本を作ろう!」と、僕がそう思うのは必然でした。
では、なぜその後、冒頭の「瞬さ・・・、俺・・・、この本を担当できるんだったら、これで俺の編集者人生が尽きてもいいわ・・・」というような、人生をかけて(投げ出して)挑むような謎の言葉につながっているのか?
それは、冒頭のインタビュー記事を目にして以降、紀里谷氏の他のいろいろなインタビュー記事を読んだことによって発生した言葉でした。
どういうことか? 紀里谷氏の他のインタビュー記事を読むと・・・、紀里谷氏が、多くの人から、異常に恐れられている怖い存在だということがわかったからです・・・。
もっと詳しく言えば、当時の読む記事、読む記事のほぼすべてに・・・、取材をしたライターさん側が、こてんぱんに打ちのめされている姿が描き出されてたのです(いやー、正直僕はそんな人、いまだに紀里谷氏以外に見たことがないですよ・・・)
具体例を上げるとしたら・・・
そもそも先に紹介した『ラストナイツ』公開の時のインタビューの見出しが、
「映画監督・紀里谷和明(47歳)へのインタビューは、一筋縄ではいかなかった。」
というもので始まっていて・・・、
「インタビュアーを担当した30代前半の編集者2名がただただ圧倒され、打ちのめされた…。そのインタビューの一部始終をご覧いただきたい。」
という紹介のされ方をしているのです・・・(怖い)
他には、デジタルハリウッド大学での試写会の後のQ&Aの席で、フランス人の学生と言い合いみたいになった直後に紀里谷氏に質問をした日本の学生に向かって・・・、
紀里谷:ちょっと待ってくれ。あのさ、こんなチャンスはなかなかないわけじゃん。君が言っていることより、彼の質問(フランス人学生)のほうがよっぽどいいよ。君今何をやってるの?
質問者:僕ですか? 今、映像をやっています。
紀里谷:それで?
質問者:将来的にはPVとかをやりたいと思っています。
紀里谷:こういうことを言っているわけ。ゆるいわけよ。生き方が。こういう席があってさ。なかなかこんなチャンスないわけじゃん。そんなことない? 二度と会うことないと思うしさ。つまらなかったら出ていけばいいだけの話。(略)
今、場の雰囲気を和ませてくれたの? それがゆるいって言っているわけよ。ゆるいよ。 なぜ1つ1つに真剣にならないのか?そんなことのために俺はここに来てないし、そんなことのために、俺が必死になって作った映画をタダで見せてないしさ。タダで。わかる? 言ってること。
って…、いや・・・怖すぎでしょっ!!!(泣)
つまり、軽々に本を作りに行ったら、
「取って食われるんじゃないか・・・」
と僕は思ったのです・・・。
もう少しわかりやすく言えば、
「紀里谷氏の本を作れることになったら多分、編集の過程で烈火の如く怒られることが数多くあるだろう・・・」
「そしてメンタルが豆腐の僕は打ちひしがれて、編集者を引退することすらあるだろう・・・」
と、恐れていたのです(当時は真剣にそう思っていました)。
いや・・・マジで・・・。
***
でも、「出版業界で当初やろうとしていたことはもうやり尽くした」と思っていた当時の僕は、「編集プロダクションの代表」という地位にも、編集者という職にも汲々とするようなつもりは毛頭ありませんでした。
そこで冒頭の発言である、「瞬さ・・・、俺・・・、この本を担当できるんだったら、これで俺の編集者人生が尽きてもいいわ・・・」につながったわけです・・・。
これほどの成果(=ハリウッドに映画監督デビューするほどの成果)を上げ、そしてこれだけ熱い思いを持った人の本は、かつて僕が編集を担当し、読んだ人に圧倒的な熱狂を生み出した、
「ギネス認定 世界一のプロゲーマーである梅原大吾さんの『勝ち続ける意志力』(小学館)と同程度の・・・、
いや、もっとそれ以上の熱狂を生み出す本になる!
読者の方の人生に大きな影響を与えられる本になる!!!」
そう確信した僕は、
「紀里谷和明に返り討ちに遭おうとも、その途上で精神をやられ、もはやそれ以降、『もう編集者を続けることはできない・・・』というところまで追い詰めやられても・・・、
もしその途上で本が出ないようなことになっても・・・、
それでも紀里谷氏の本を世に送り出そうと努力する姿勢は尊いことのはずだ!
だから・・・その途上に死すとも、我が人生に一片の悔いなしだ!!!」
・・・といった・・・、謎のw 悲壮な覚悟で、冒頭の発言を当時の部下だった瞬にしたというのが事の真相でした笑
(実際、もう出版業界に対して「やりつき症候群」に陥っていた僕は、半ばどころか・・・、本気で紀里谷監督と切り結んで死すともそれでよし、とさえ思っていました笑)
果たして紀里谷氏は、ものすごく優しかった笑
果たして、最初にお会いした紀里谷氏の印象はといえば・・・、拍子抜けするほど、すごく優しい方でした笑
(ただ、その後、僕の「うちで働かないかい?」という誘いを断り、朝日新聞出版社で働くことになった当時のうちのインターンだった子(男子)が、アイロンをかけてないシャツを着てきていて、紀里谷氏に
「なぜ君はこの場にそのアイロンをかけてないシャツを着てきたのか?」
と問われ・・・、打ち合わせの間中ドギマギさせられていたのは強烈な印象に残っています笑
閑話休題。そうやって始まった紀里谷氏との本作りだったのですが・・・、紀里谷氏が優しかったこと以外は、想像以上の難産になってしまいました・・・。
話が長くなってきてしまったので手短に箇条書きで書けば・・・、
①本の制作の過程で、「自分の内側と、自分の本当の心と真摯に向き合いなさい」という紀里谷氏の話に感化され、「自分自身と本当に向き合ってしまった」僕の部下(=先述の瞬)が、紀里谷氏の本を作り始めた約半年後に突然「会社を辞める」と言い出し、実際に会社を辞めました
(いや、どうでもいいんですけど、うちの社名は「編集集団WawW! Publishing」って言うんです。。一番人数が多かった時は、僕を含めて5人いた会社だったのですが、色々あって当時は瞬と僕の二人っきりになってた会社でした。そこで瞬が辞めると・・・、「編集集団」を名乗っているのに「劇団ひとり」的なサムシングになってしまうという・・・汗)
②「世間体に捉われるのではなく、自分の心の声に従いなさい」という紀里谷氏の話に感化を受けた僕は、3年同棲し、3年結婚していた奥さんと離婚しました
(僕の名誉のために一応離婚理由を挙げておくと、僕が浮気したとかそういうことではなく(もちろん元奥さん側の問題でもなく)・・・「性格・考え方の不一致」であります。さらに一応付記しておくと・・・僕の元奥さんは、その後無事(?)素敵な男性と再婚され、とても幸せな再婚生活を送られています。これは・・・めでたしめでたし・・・か・・・???)
③そもそも、この本の制作開始から発売までに4年半の月日を要しました・・・
いや・・・、最後の部下の退職と、僕自身の離婚によって・・・、僕は公私に渡って一人ぼっちになったわけなので・・・、当時からしてみれば、ものすごく衝撃的な人生の変化でした・・・。(いや・・・いまだに尾を引いている一大事ですよ・・・これ・・・!!)
***
ここまでの話を簡単にまとめるとするならば・・・、
「紀里谷氏の話には、それほどまでに人を突き動かし、人の人生をまるごと変えるほどの力が宿っている」
ということになります。
さらに詳しく言えば、紀里谷氏の言葉は、
「君の行動は世間体を考慮して考え出された行動ではないか? 世間体などないものと考えて、『本当の自分自身』はなんと言っているかに目を向けなければいけない」
というものに収斂されるのですが・・・、
その言葉の謦咳(けいがい)に触れた人はみな、「自分が、自分の人生に嘘をついていたこと」に気づき・・・、結果、「行動を変えざるを得なくなってしまう」ということであります・・・(恐るべしっ紀里谷和明!!)
なぜ紀里谷氏の言葉には人を動かす力があるのか?
かくして、僕の人生自体を無茶苦茶変えてしまった紀里谷和明氏の本作りでしたが、上記3つの大きな変化の詳細は(話が長くなってしまったので)置いておくとして・・・、大事なのは、「なぜ紀里谷和明氏の話(文章)には、それほどの力が宿っているのか?」のほうです。
僕は執筆依頼に行った当初、それまで僕が手掛けてきたビジネス書と同じく、
「大成功を収めた先人に、そこまで成功した秘訣のすべてを開示していただく本を作りたい」
という思いで動いていました。
でも、紀里谷氏との本作りがはじまったすごく冒頭のほうに、僕は紀里谷氏から、こう言い放たれることになったのです。
「違うんだ乙丸さん(乙丸というのは僕の名字(本名)です)。俺は成功法則みたいなノウハウを話したいつもりはまったくない。いやむしろ、皆『幸せになりたい、幸せになりたい』って言うけど、その『幸せ』って誰にとっての幸せなんですか? っていうことを、まず俺は問いたい。
それって本当に、『”あなた自身にとっての”幸せ』なんですか?
だって成功法則の本みたいなものは世の中にごまんとあるわけじゃない。なのにそれらの本を読んで幸せになったという人をほとんど俺は知らない。だったら、前提条件から何かが間違ってるはずなんだよ。そこからまず考えていかないと」
と・・・。
正直最初は、「この人、ちょっと面倒だな・・・」と思っていました。
「結果」ばかりを求めていた当時の僕は、
「成功者の成功するノウハウをあますことなく世界に公開すること」
こそが、ビジネス書の編集者としての僕の「絶対正義」であると信じていたためです。
では結局なぜ、
「紀里谷和明氏の話(文章)には、それほどの力が宿っているのか?」
結論から言えば、それは・・・、
本書に書かれていることはすべて、
「紀里谷氏が、地獄的とも言える圧倒的な苦悩の中で、なんとか絶望せずに、ギリギリの状態でなんとか次の扉を開き続けた先に生み出された思想(思索の末の結論)だったから」
です。
ここで、紀里谷氏のことを少しでもご存じの方は、紀里谷氏の華やかに見えるキャリアを見て、
「紀里谷和明が苦悩の中にいた?」
「ギリギリの状態でなんとか次の扉を開いた?」
といった疑問を持たれた方もいるかと思います。
恐らく、そういった感想を持つのは、外からだけ紀里谷氏のことを見ている人にとっては、至極真っ当な感想だと思います。
ですから、少なくともこの3年半に渡って、紀里谷氏のことを考察し続けてきた僕が、その真相についての話をしたいと思います。
紀里谷和明の身に起きたこと
どういうことか?
紀里谷氏は、
・NYで、写真1枚に百万円超のギャラというトップクラスに上り詰めたフォトグラファーの時代
・宇多田ヒカルさんの全盛期時代の多くのPVを担当されていたPV監督の時代
・また興行収入が15億3000万円に上った『CASSHERN』の映画監督になった時代
に、文字通りの(わかりやすい金銭的な)大きな成功を収められました。
そして、この本の第4話「仕事がうまくいかないあなたへ」に描かれていることは、
「そのあらゆる世界で、本当のトップクラスに上り詰めた紀里谷氏のリアルな成功の法則」
であるがゆえに、読んだ人が実践すると、大きな成果を上げられる方法になっているということです。
*実際にそれを実践していった”僕と前述の瞬”の身に、「その後何が起きたか?」は後述します
そして、その次に考えたのが、「なぜ、紀里谷氏の言葉には、これほど人一人をつき動かす力が宿っているのか?」ということについてでした。
その理由を考えていくとわかったことは、
「紀里谷氏自身が、誰よりも、誰以上に、苦難の人生を味わっていらっしゃったからなのだ」
という答えに、僕は最近気づくに至りました。
長くなったのでできるだけ手短に言いたいと思います・・・。
紀里谷氏は、今回の本の4章に描かれている経緯を経て、(4章で紹介されている)「ある写真の表現」にたどり着いてから、そのキャリアに大きく火が着きました。(注:第4話に出てくる話は実際に紀里谷氏自身が経験したそのままの話です)
『VOGUE』や『Harper's BAZAAR』といった第一線のファッション誌に写真が掲載されるフォトグラファーになり、その後、ミュージックビデオ監督に転身。そこで宇多田ヒカルさんの『TRAVELING』のPVなどで名を馳せた後、「人造人間キャシャーン」の実写版である『CASSHERN』で鮮烈に映画監督デビューをされました。
ここまでを見ると、すごく順調なキャリア形成に見えます。
いや事実、『CASSHERN』を撮られるまでの紀里谷氏のキャリアは、間違いなく世界トップクラスの大成功を収めていたと思います。
ただ、それは・・・『CASSHERN』を撮る”まで”の話だったのです。
どういうことか?
紀里谷氏の人生には、『CASSHERN』の公開が終わってからというもの・・・、ついに「圧倒的冬の時代」が訪れてしまったのです・・・。
僕はそれを絶望とは呼ばない――紀里谷和明の苦悩
『CASSHERN』は実際、興行収入的には、15.3億円という大成功を収めました。
しかし、その表現方法が、売れる映画の方程式に則ったものではなく、独特のものであり、同時にその世界観が深遠すぎたということもあり・・・、
「わかりやすい作品」“ではなかった”結果・・・、
かつ、それまでの紀里谷氏自身による日本映画業界への挑戦的ともとれる強い発言とも相まり・・・、
日本の映画業界と、批評業界から総スカンを食らうことになった
のです。
恐らく、今は紀里谷氏は当時のことを、完全に精神的に乗り越えていらっしゃるだろうと思いますが・・・、当時の紀里谷氏の苦悩は相当なものだったと思います。
それは、”思索家“紀里谷和明が生まれる前夜の話だったからです。
しかしその動きと並行して実は、その裏で、「批評家から支持されない」という問題を吹き飛ばすような話が、紀里谷氏の生涯の中では進行していました。
それは何か?
日本の批評家から批判が集まる一方、紀里谷氏が生み出した『CASSHERN』は、
世界からの称賛を一身に集めていた
のです。
端的に言えば、紀里谷氏が生み出した『CASSHERN』は、ハリウッドの全4大スタジオのプロデューサーからの称賛を受け、公開直後に、全4大スタジオから、紀里谷氏の次回作のオファーが殺到することになりました。
すなわち、今回の本の第4話で公開されたある手法の延長線上で生み出された『CASSHERN』は、
・宇多田ヒカルの旦那
・PV監督出身のポッと出の生意気な監督の作品
・映画とはこうあるべき
・・・といった、「方程式で映画を観る」といったような色眼鏡をかけた人たち”以外の人たち”から、大絶賛を受けていたのです。(中でも最も称賛を寄せたのがハリウッドの4大スタジオでした)
*あと、この本の出版社側の担当編集である谷綾子さんのような、感情で映画を捉える力を持った人に、熱狂的な支持を受けました(←より具体的に、谷さんによる支持というものは、「私はCASSHERNを否定する人とは仲良くなれない」と公言されるような(厄介なw)人なのです。
しかし、紀里谷氏の本当の苦悩は、ハリウッドの全4
大スタジオからのオファーが殺到したところから始まることになったのです。
どういうことか?
そのヒントは、思い返せば、紀里谷氏の二作目の映画である「GOEMON」は、舞台がハリウッドではなく、”翌年”や”翌々年”の公開”でもなく”、『CASSHERN』の公開から”5年後”の2009年に、しかも”日本で”公開になった映画だったということです。
どういうことか?
一時は順調に見えた全4大スタジオからのオファーですが・・・、おりからのリーマン・ショックという世界的経済停滞のあおりを受け、すべての話が立ち消えになったのです。
その時紀里谷氏の心境は、本当に心が折れそうな思いだったと思います。
でも、そこで立ち止まらず、閉じかけた扉を、なんとか力技で閉じさせずに開くことで作られたのが、『GOEMON』という作品でした。
(*すでにお話しした通り、この『GOEMON』の公開までには、すでにキャシャーンの公開から5年の月日が流れていて、さらにこの『GOEMON』は、紀里谷氏自身がプロデューサーの一人に初めて名を連ねている作品です。
つまり? 『GOEMON』という作品は、紀里谷氏自身が自ら駆けずり回ることで制作費を集めることで、初めて生み出された作品だったということです)
結局『GOEMON』という作品は、8.5億円をかけて生み出された作品になりました。
僕自身、当時ものすごく大々的な宣伝広告展開がなされていたことを覚えています。
それだけ身を削って紀里谷氏が生み出した作品が、『GOEMON』だったというわけです。
そうまでして生み出された『GOEMON』は果たして・・・、興行収入で『CASSHERN』を超えることはできませんでした。
紀里谷氏はこの『GOEMON』に、全人生を賭けていたと思います。それは当時の紀里谷氏のインタビューを見てもわかることです。
紀里谷氏は、MOVIE Collectionのインタビュー(公開は2015年8月30日)の中で、次のように証言しています。
「一番の大きな壁・・・危険性、危険なことは妥協なんですよ。俺が妥協するっていうこと。で、それがいっちばん恐ろしいものなんですね。
それどういうことかと言いますと、例えばテイクが20とか30とかになりますよね。で夜は押してきちゃっている。スタッフがボロボロになっている。
で、そこで、どっかで「あー、これでいけるかな・・・」「OK・・・かな・・・」っていうポイントがあるわけですよ。
で、それでOKしちゃうと・・・、その誘惑がものすごいんですね。だってみんなボロボロになってるわけですよ。
「じゃOKって言っちゃえよ。そしたらもうこれOKじゃん」「みんな帰れるじゃん今日は・・・」
その誘惑に勝たなければいけない。それが一番大きな壁じゃないですかね・・・」
そうおっしゃった上で、次のようにおっしゃっているのです。
「100%悔いがないかと言ったら100%悔いはないですよこの作品。やれることはやりましたもん。ほんとにやれることはやった。」
と・・・。
それだけ、紀里谷氏のそれまでの人生のすべてを掛けた作品が、思うような評価を得られなかった・・・。
今度こそ紀里谷氏は、本当の絶望の淵に立たされたと思います。
それでも紀里谷和明は、絶望の道を選びませんでした。
それはなぜか?
当の紀里谷氏自身が、自ら三度立ち上がる道を選択したから
です――。
ハリウッドデビューした日本人映画監督の苦悩
そうして生み出されたのが、紀里谷氏の初ハリウッドデビュー作『ラストナイツ』でした。
しかし、その公開までに今度は『GOEMON』の公開から数えること・・・6年の月日が経っていました。
ただこう言うと、
「さっきから次の映画の公開に5年とか6年かかったって言ってるけど、それって本当にどれだけ大変なことなの?」
と思われる方もいるかもしれません。
そういう方には、こう考えていただければいいかと思います。
例えば紀里谷氏のご友人である岩井俊二監督は、『CASSHERN』公開年から『ラストナイツ』の日本公開年までである「2004年~2015年」の11年の間に、13本の映画を撮られています(プロデュース、製作総指揮作品含む)。
他には、紀里谷氏と「ボクらの時代」というテレビ番組に出た園子温監督は、同じ期間に20本の映画を撮っています。
それに対し紀里谷氏は、この11年で3本の映画しか撮れていないのです。
大事なのはここからです。
11年の間に3本しか映画を撮れていないということは、各映画を撮っていない時期には膨大な空き時間があるわけです。
その期間に紀里谷氏は何をやっていたのか?
答えは、
延々と脚本を書き、できたら映画スタジオに提出し・・・、映画化を否決され・・・、また他の脚本を書き・・・映画スタジオに提出し・・・、映画化を否決される・・・
という作業を、延々と繰り返されているのです。
その期間の心情たるや・・・我々外部の人間には、計り知れないレベルのものだと僕は考えています。
そうやって「ハリウッドでの公開」にたどり着いた『ラストナイツ』ですが、「ハリウッドデビュー」といっても、その内実は非常に苦しいもので・・・、表から見えているほど華々しいものでは決してなかったのです。
どういうことか? アメリカでの上映館数は少なかったと聞いていますし、紀里谷氏から僕が直接お聞きしたように、その実態は「お金も自分たちでかき集めた、壮大な自主制作映画」のようなものだったそうだからです。
(*どうしても資金が足りなかったため、最後には紀里谷氏自らDMMグループの亀山敬司会長の元を訪ね、最後の資金調達をされたことは(一部で)よく知られている話です)
そこまでしてようやく世に放たれた、『ラストナイツ』――。
結果は・・・、恐らく紀里谷氏史上、最も売れない映画になってしまいました。
紀里谷氏自身が、路上で約4万枚の名刺を配られたり、初めてと言える規模で数々のバラエティ番組に露出なさるまでの告知をなさったにも関わらず実際・・・、
『ラストナイツ』は、紀里谷氏史上最も売れなかった映画になってしまったのです――。
もはやその苦悩は、想像を絶するどころの話ではないと思います。
なぜか? 「失敗」というものは別に、実は、人に知られないところでひっそりとなされることであったら、その苦しみは、本人のその後の人生に影響するか・・・といった以上の問題を引き起こしはないような程度の苦悩にすぎないものになります。
しかし、その「失敗」が、公衆の面前で行われた場合?
その苦しみは、
その何倍、何万倍にもなって、本人に跳ね返ってくる苦しみだろう
と僕は思うのです。
そして正に、『ラストナイツ』でいうところの(世間がいう)「失敗」は、完全なる「公衆の面前」で・・・、
いや・・・
「衆人環視」の中で起こった(世間的にいう)「失敗」だった
のです。
紀里谷氏の当時の苦しみは、死さえ意識されるほどのレベルのものだったと思います。
そして紀里谷氏は山小屋に引きこもった
その頃の苦悩が相当なものだった証拠に、AbemaTVの「オトナに!」という、いとうせいこうさんとユースケサンタマリアさんがMCを務める番組に紀里谷氏が出た時に・・・、
いとうせいこうさんから
「紀里谷君は、どのぐらいの頻度で日本にいるの?」
と聞かれた際に・・・、
紀里谷:「今ですね、アメリカのほうが長くなりつつあって、いま森の中に住んでるんですよ。」
と答え・・・、
ユースケ:「森の中?」
いとうせいこう:「どういうことなのそれ、(略)トトロみたいなこと?」
ユースケ:「なんでそんなことになったの?森ってのは・・・」
・・・というツッコミを生んだ上で・・・
紀里谷:いやーほんとにね、いま山小屋に住んでるんですよ。山小屋に住んでて。ほとんど家から出ないんですけど。ちょっとね、今ね、すごく、(略)社会っていうもの?に対して、極めて懐疑的になってしまっていて、(略)社会と関わりたくない。言ってしまえば。今ですよ。」
と答え・・・、それに対してユースケさんが、
「今でも社会と関わり合いを持ちたくないって、でもなんかそういう時ありますよね・・・」
と、同意しちゃったもんだから・・・、
紀里谷:「この世界? 元も子もないことを言っちゃうんだけど・・・、やっぱ現実が本当にあるのか?幻なんじゃないか?っていう・・・。(略)
なんかそう考えていくと、意識って何なのかな?ってとこに行き着いちゃうんですよ。」
という話をしだし・・・、
ユースケさんといとうさんに・・・、
ユースケ:「そこまで逝っちゃってんの?」
いとうせいこう:「ちょっとね、森に居すぎ(笑)。あのね、たまに来なさいここに、あなたは。」
ユースケ:「一回ね・・・、バーっと! ・・・(飲み会でも)やるのもいんじゃないですか(笑)。森にいるとこうなっちゃう(=考え込み過ぎちゃう)んですよ(笑)」(略)
いとうせいこう:「だめだよ、そんな、森でカブトムシとかばっか見てちゃあ(笑)」
・・・という放送事故レベルの、謎の心配をされるという事件が起こったのは、この頃の話なのです笑
この4年半の間に紀里谷氏に生じた変化
いやすみません。書いていたら楽しくなってきて、茶化してしまいました・・・汗
ここまでの話をまとめると結局に、紀里谷氏は、「CASSHERN」公開の直後から「ラストナイツ」の日本公開の2年後までで数えるともう、13年も苦しみの中にいらっしゃったことになります。
そしてその失敗・苦しみというものが全部、すでにお話した通り、公衆の面前に公開された形で生じるものなのです・・・。
だから紀里谷氏は、その13年の間、どうやれば自死せずに、絶望せずに、楽しく(?)喜びの中、生きていけるのか? ということと――、自分の内面とずうっと向き合っていらっしゃったのです。
そこから導き出された、
生きるための答えが――前進し続けるための答えが――、今回この本でお話になっている考え方そのものである
というわけです。
***
僕はビジネス書の編集者なわけですが、結局、何かノウハウを他人に示す本を書く場合、そのノウハウを提供していい人間は、実際にそのノウハウを用いて、実際にその苦しみや課題を乗り越えた経験のある人間だけであると考えています。
それは、ノウハウというものは、想定の上だけで言えばいくらでも正しいっぽいものを提示できると思いますが、その方法が実践を経て、効果が出ているものでなければ、そのノウハウはまがうことなき偽物であると考えるためです。(でなければ、読者の人生に誤りを起こしてしまう)
僕は、現役の編集者として、そういった偽物の説を、お金を出してくださった読者さんに提供することはできません。
そう考えた時に、
紀里谷和明という人は、圧倒的に成功した経験もあり、同時に恐ろしいほどの辛酸を舐め、その場で戦い続け、そうして未だにこの場に立ち続けていらっしゃる方
ですから、今回の本にノウハウや考え方を提供いただく方として、この方以上に適任な人はいない・・・、というレベルで僕は考え、この本の編集と向き合い続けてきたものです。
***
結局僕は、本の制作期間の4年半に渡って紀里谷氏の姿を間近に見てきましたが・・・、紀里谷氏の表情は、『ラストナイツ』の公開の5ヶ月以降から2年後ぐらいにかけ、だんだんと、どんどんおだやかなものになっていきました。
僕は紀里谷氏が、自分のそれまでの人生というものを、紀里谷和明というそれまでの人生を、ありのままに受け入れられたのだと思いました。
だから、紀里谷氏がこの本で披露した「思索」は元々、
「紀里谷氏自身が、人生に絶望せずに生き続けるため」に生み出されたものだった
のです。
それが、「思索家・紀里谷和明」誕生の瞬間だったのだと思います。
すなわち本書は、その紀里谷和明氏自身による、
絶望の淵をさまよい歩き、その上で「生きる」という道を選んだ、ひとりの思索家による、誠心誠意を込めた思索の末に生み出された思想を、一冊の本の中に心を込めて綴じ込んだもの
だったのです。
だから本書に書かれている言葉は、「その謦咳に触れた人の人生に圧倒的な影響を及ぼしてしまう力を持っている」のだろうと、僕はそういう風に思っています。
この本の内容はすべて実践による検証済みである
もう話がずいぶん長くなってしまいました・・・(ごめんなさい・・・)。
最後に、「僕と前述の瞬の身に、その後何が起きたかは後述します」と書いていた、紀里谷氏と出会ってからのこの4年半の間に、僕と瞬の身に起こったことの"その後の話”と、
この本の3ページ目に書いてある「この物語は実話を元にしたストーリーであり、すべて実践による検証済みである」と書いた話の種明かしをして、筆を擱こうと思います。
まず僕と瞬の身にその後、何が起きたか? それは・・・、
①紀里谷氏が今回の本の4章に書いたノウハウを駆使して僕が作った『世界一美味しい煮卵の作り方』というレシピ本が、29万部を突破するベストセラーになりました
②前述の、紀里谷氏の話を聞いて、うちの会社を飛び出した僕の元部下・瞬は、なんとその後、某大手出版社の週刊漫画雑誌編集部所属の漫画編集者への転職を果たしました・・・
この2つの話の面白いところは、
①に関して、『世界一美味しい煮卵の作り方』は、僕が編集を担当した”初めての”レシピ本だったというところと・・・(それだけこの本の第4話に書かれた「創作の方法」がすごいということです)、
②に関しては、この瞬の転職劇は実は、今回の本の第3話「夢が見つからないあなたへ」の結末が、実際はどうだったのか? を報せてくれる話だということです・・・
(*3章の結末は、ハッピーエンドなのかそうじゃないのかがわからない形になっています)
***
さて、もう話が本当に、ずいぶんと長くなってしまいました。
もうひとつの、この本の冒頭の3ページ目に「この本は実話をもとにしたストーリーであり、すべて実践による検証済みである」と書いていることの種明かしですね。
どういうことかというと・・・、
①この劇場の支配人というのは、紀里谷氏自身であり、支配人の言葉というのはすなわち、紀里谷氏の実体験にもとづく知見により発せられている言葉です。
②じゃあ、相談に訪れる4人の登場人物は誰かと言えばそれは、この3年半の間に、紀里谷氏に実際に人生の相談をし続けた、僕ら編集陣自身の姿です・・・汗
*この①と②により、「この本は実話をもとにストーリーである」と謳っています。
では、後半の「すべて実践による検証済みである」とは何なのか?
答えは・・・、
この本に書かれた支配人(≒紀里谷氏)のアドバイスを、我々編集陣自身が、すべて実践に移して、その効果を確かめてみた!
です・・・汗
具体的にどういうことかと言えば、例えば、大きな話で言えば、
第3話の後半の話自体は、実際に僕の元部下である瞬が、紀里谷氏の「荒野の地平線に立て」という話を実際に、実践に移した実話をほぼ“そのまま”物語化したものです(※「物語」なので、もちろん完全に同じということではありません)
し・・・、他には、
第1話に該当する部分で紀里谷氏に、
「今この場で、あなたが自分をバカにすることを止めるだけで、もう「人の目」を気にしなくてすむ、という話になります」
と言われた僕は、その考えを実行に移し続け・・・
1年ほどの時間がかかったものの、ついに“渋谷の道玄坂を歩いている時さえ”ほとんど人の目が気にならないという強靭な(?)精神力を身に着けました笑
(*そう、1章に出てくる「モテたい」「お金元になりたい」「人の目がすごく気になる」と言っている「翔太くん」とは、正に4年前の僕自身の姿です汗)
また、第3話に該当する部分で紀里谷氏に・・・、
「ある日あなたがふと、「今日はカレーが食べたい」と思ってしまったとしましょう。(略)その瞬間に、あなたは実際にカレーを食べに行ってみなければならない。(略)
そういった日々の実行と体験からなる検証の積み重ねがあってはじめて、「自分がほんとうは何を好きと思っているのか」「自分がほんとうに欲しているのは何か」を探る感度が高まっていくということです。
これはもちろんカレーだけの話ではありません」
と言われた僕は実際に・・・、かねてからの「仕事を一切せずに飲み歩くだけの毎日を送りたい」という思いを実行に移しました。
より具体的には、
すべての仕事を止めて、丸々2週間、1日おきに朝まで飲み歩くという日々を続けてみました(飲んでない日は、完全に酔いつぶれて、次の日の飲みの時間まで一日中寝ているという夢のような生活です笑)。
その結果、
後半で日中手足がしびれだし、ついにちょうど2週間目あたりに、右目のまぶたの下あたりの痙攣が止まらなくなり・・・、
「あー、僕はそんなに飲み歩くことが好きな人間じゃなかったんだ・・・」
という実感を(?)、体感として得ました 笑
他には、第3話に該当する部分で、紀里谷氏の
「わたしは「生きていくためには何が最低限必要なのか?」という問いを立てました。そして、その問いにはっきり結論を出すことにしました」
という発言を受け・・・、
第3話の登場人物である「瞬君」が・・・、
「今住んでいるのは家賃7万の1ルームですが、もっと狭くてもかまわない。そして、場所も、会社に近い必要がなくなるので、もっと郊外でも問題ないとわかりました。すると、ワンルームでトイレ風呂付で4万円の物件がありました」
と言い・・・
「光熱費も合わせて、毎月10万円あれば、今の貯金で食べていくとして、1年は何もしなくていい。そこまで考えたら、ある考えに至ったのです。(略)もし1年後に貯金が尽きたとしても、その後は、月にアルバイトを10日やれば、生きていくための最低限は稼げる。つまりアルバイトをしていない残りの20日は、好きに暮らしても生きていけるということです。
(略)そして「アルバイトしてるなんて恥ずかしい」という思いをかなぐり捨てることができたら、そこには大きな自由が広がっている気がした」
という結論に達したのを受け・・・、
僕も実際に5畳半の家に引っ越し、この2年半そのアパートで実際に暮らしています笑
また、第4話に該当する部分で紀里谷氏がフォトグラファーだった時代に、ある雑誌編集者に「信じるもののためだったら、飢え死にしなさい」と言われたのを受け、紀里谷氏が・・・、
「それは、あなたはほんとうに「そのためだったら死んでもいい」と言えるほどに、心の底から作りたいもの、世に問いたいもの、そして自分が信じられるものがあるのか? そういうものを生み出しているか? ということです。(略)
「これを広めるためなら、命を捨ててもいいと思えるレベルの作品を、ほんとうに生み出そうとしているのか?」「そのための努力を一度でもしたことがあるか?」という問いなのです」
と解説したのを真に受け、
「俺はもう自分の心が『本当に世に送り出すべきだ!』と思った本しか手がけない!」
と覚悟を決めた僕は、実際に・・・、
・2017年に2冊しか本を出さず
・2018年にはついに1冊しか本を出さず
・この本の発売も伸びに伸びた結果・・・
2019年にガチで資金がショートし、人生初の借金を抱えました汗
(まだ・・・飢え死には・・・してないっ!笑)
この話は、この本の第2話で出てくる「大人の心」と「子どもの心」のどちらに従うか? のその分配度合いの問題なのですが・・・、
皆さんよりひと足早く実践に移してみた僕からアドバイスすることがるとすれば・・・、
「自分の心に嘘をつかずに、「子どもの心」に従うのはものすごくいい。異常に爽快感がある。人生がすごく充実する!
しかし!
「子どもの心」に偏りすぎるのも、ほどほどに!!(じゃないと生活が危なくなる汗)」
ということになります笑
***
さて、もう本当に、どうしようにも話が長くなってしまいました・・・。
そしてついつい話を茶化してしまうのですが・・・、最後に、
紀里谷氏の謦咳(けいがい)に触れた僕たちの身に、本当に起こったことの話
をして、本当の本当に筆を擱きたいと思います(例のごとく箇条書きで書きたいと思います)。
①先に紹介した29万部を突破した『世界一美味しい煮卵の作り方』はなんとその後、レシピ本の世界の「本屋大賞」を目指して創設された「レシピ本大賞」の第4回グランプリを獲得しました!
②某週刊漫画雑誌編集部に転職した瞬がその後、自分が担当した漫画が、某漫画賞で賞を取りました!(ずっと自分の企画を通せないと悩んでいた瞬が、この間にそこまで成長していて、元上司としてとても誇らしいです!)
話は僕と瞬の話だけでは終わりません・・・。
11年の間に3作しか映画を撮れていないという辛酸を舐めてきた紀里谷氏に関する話ですが・・・、
③「天童荒太さんの直木賞受賞作「悼む人」がハリウッドで映画化されることになり、その監督とプロデューサーに紀里谷氏が就任した」というニュースが、2019年2月に流れました!!!!(ブラボー!)
・・・以上、
紀里谷氏の本を作ったら、
人生を無茶苦茶”いいもの”にされた話
でした!!!!!!!!!
P.S.
つまりこの本は、「実話を元にしたストーリー」であり、「制作に携わった編集陣が、4年半に渡り真剣に実践し、効果の検証まで行ったもの」ですので、安心して(?)お読みいただければと思います!
ただし・・・用法・容量は正しく守ってください!
(じゃなければ危ない・・・汗)
(ご清聴ありがとうございました!!!!!) 完
編集集団WawW! Publishing 乙丸益伸
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