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休学に至るまで ②M2編

ピーマンぐらい中身のない1年でしたが、また前半後半に分けます。

1.M2前半

1月、2月はESを書いたり、テストセンターに行ったり、就活解禁に向けて慌ただしく過ごしてました。
この頃はまだ対面で説明会やら1dayインターンやらが普通に開催されており、敏感な人だけがコロナに危機感を示している感じでした。

それが3月になり、就活解禁と思ったら、あれよあれよという間にコロナで大騒ぎに。

私は運よく3月中に就職活動が落ち着いたのでほとんど影響は受けなかったけど、面接は軒並みオンラインに切り替わり、選考にも遅れが出ている企業がほとんどでした。

そして就活が終わったということは目の前には研究あるのみ。
会話がほぼない研究室生活の中、合法的に人としゃべりまくれる就活は私にとって楽しみですらあったので、逃げ場を失ったような気分でした。

そこからもまぁ結局状況は変わらず…(我ながらすがすがしいほどの研究能力のなさ)
いろいろ方針を提案するも教授を納得させられず、そうこうしているうちにコロナで実験ができなくなったので研究手法をシミュレーションに変えることを教授から提案され、シミュレーションについて勉強をし始めます。(M2の6月)

エラーばかりでシミュレーションがうまく回らないままなんとか修論の中間発表はパスし、M2前半戦は終了です。

2.M2後半

生活習慣めちゃくちゃ。
なにもやる気が起きず、一日一食食べるか食べないかで明け方に寝て夕方に起きる生活を繰り返して、気づいたら11月でした。

いろいろしていたはずだけどあまり記憶がない。
とりあえずない知恵を絞っていろいろシミュレーションを回していたと思います。
毎日今日こそは研究室行くぞ!→ダメだった…を繰り返して毎日自己嫌悪で忙しかった。

夜に涙が止まらなくなったりして、ここまで来てようやく(あれ…?病気…?病院行った方がいいのでは…?)という考えが浮かびました。

早速次の日近くの心療内科に電話してみるも1ヶ月先まで予約でいっぱい。
世の中みんなつらいんだな、、、と思いながら、そういえば大学に保健管理センターなるものがあったなと思いだしダメもとでかけてみると、何とか3日先に予約を取ることができた。

保健センターのお医者さんはさすが学内のお医者さんだけあって研究のことや研究室のこともよく理解してくれて、ただ「食欲は?」「睡眠は?」というような画一的な問診で済ませず、私の研究の現状や研究室の環境について事細かに話を聞いてくれました。
そして研究室の教授に私の現状について一筆書いてもいいかと言われたので、少し迷ったけど何もしないでは状況が変わらないので思いきって頼むことにしました。
なんで迷ったかというと、私は教授が修士の学生として私に求めるハードルはなんらおかしいとは思っておらず、たんに自分がそのレベルに達していないことが悪いのだと自覚していたからです。
だから自分の研究が進まないことを完全に教授のせいにしていると思われたくありませんでした。

診察はそんな感じで、あとは睡眠リズムを整える薬をもらって終了。
第三者に話を聞いてもらえて、とても気持ちが楽になったので、本当に行ってよかったと思っています。

そして何日か後の教授とのミーティングの日、明らかに教授の態度がいつもと違っていて、物腰柔らかで言葉も刺々しくなかったので、とても相談しやすく、もしかしたら何とかなるかも…?としばらく前向きに修了を目指して頑張ることができました。


…けど、結論から言うと何とかならなかった。
しばらくすると詰まって質問に行っても「知らん。」で終わり。
修士論文の添削を頼んでも2週間なんの返事もない。(忙しかったのか、なにか理由があったのかもやけど不明)

そんな状態で、心がポッキリ逝きました。

12月に帰省した時、朝起きた瞬間から涙が止まらなくて、起き上がれなくなりました。
親には何にも話したことがなかったから、私のその様子を見てお父さんはおろおろしていました。

面と向かってはとても話せず長文の手紙に「大学院を辞めたい」と綴って家から脱走。
近くの体育館で泣いていたところを親に見つかり、連れ帰られていろいろ話をしました。

私のあまりに憔悴しきった様子に親は止めることもなく、ただ今ウワーーーッとなってるときに中退を決めてしまうときっと後悔するから、休学してはどうかと提案されました。

今思うと確かにこの時感情的に中退を決めなくてよかったと思っています。

そういうことで、私はM2の冬に休学することになりました。