カテゴライズについての所感
あらかじめ書いておくが、これはツイフェミに対する所感動画を見た直後に衝動的に書いている文章でありガバガバな部分が含まれている可能性を排除しないで頂きたい。
男と女、人種、LBGTQ、職業、学歴、趣味趣向、性癖、持病、身長体重、筋肉量、運動神経、反射神経、知識、技能、経験、職歴
様々なことで人間はカテゴライズされるものだと思っていた。
むしろされることで「その人はどんな人なのか」が分かる大切なものだと考えていた。
だがどうやら現代は違うらしい。
自分を枠にはめて欲しくない、カテゴライズしないで欲しい。
そんな人が増えているそうだ。
確かになにかの思想に一切皆空という教えがある。
全ては形のないものなのだから、一々形に執着するなという教えだ。
果たしてそこまで考えて発言しているのかは分からないが、この教えに通じるものはあると感じた。
実際ツイフェミの方々のツイートを見ると「一人一派」どころか「一日一派」という考えがあるそうだ。
なるほど、これではカテゴライズすることは不可能だ。
何せ日々思想が移り変わるのだからカテゴリも変わっていく。
この考え方が全人類に浸透した時何が起こるのか。
軽くシミュレーションしてみよう。
まず毎日信仰する宗教が変わるとすると、行動理念も毎日変わることになる。当然安息日や食べてはいけないもの、してはいけないことも変わるので本人ですらも自分が何者なのか分からなくなるだろう。
かなり乱暴な論理だが、一日一派というのは一般化すればこういうことだ。
次にカテゴライズされない人間になるにはどうしたら良いか考えてみよう。
まず、名状しがたい者にならなければならない。
視認することすら不可能な者、名前をつけることすらできない者にならなければカテゴライズできてしまうからだ。
次に行動もカテゴライズされてはいけない。
常に形容できない行動をしなければならない。
そうでなければ「〜をしている者」とカテゴライズされてしまうからだ。
うん、無理。
ちゃぶ台返しのようで申し訳ないが、そもそも出身地ですらカテゴライズの対象になるのだ。「◯◯生まれの人」と必ずなってしまうのでカテゴライズから逃れることはできない。
神ですら「〇〇を司る」神や「最高」神などカテゴライズされてしまうのだ。
結論として、カテゴライズされないというのは最早誰からも無関心に扱われる以外に方法はないのだろうと考える。
ただ一人の例外もなく、だ。
そんな孤独に耐えられる人間などいやしないよ。