
コロナ禍のGooglePhotosを振り返ろう 【追記あり】 / 『訂正可能性の哲学』 2025年2月15日
今日は華道があった。お生花。むずかったなぁ。
そして明日はおばあちゃん家。しあさってから実家。バタバタしてんなぁ。
追記
『訂正可能性の哲学』(東浩紀) 読み終わった。
これは無視されるべき本ではない。東浩紀は終わっていない。
いくつかの大著作を引きながら, この本の主眼がくっきりと見えてくる形の編集。
成田祐輔の『22世紀の民主主義』に対する丁寧な反発文でありラブレターみたいだ。
いや本当に東浩紀, びっくりするくらい丁寧。
あと個人的に, ルソーについては受験に耐えうるレベルしか認識していなかったので, がっつりルソーの雰囲気に触れられて嬉しかった。
『落合や成田は自覚のないルソー主義者なのだ』(P.305) の雑すぎる「訂正」が非常に草。
東浩紀はルソーと向き合ってきた時間が長いからなんか節々から愛が感じられるけど, この本のコンテクストではどちらかというと「訂正されるべき」存在者としての位置付けで合ってますかね。『新エロイーズ』で描かれた, 人工的に構想されしかしその痕跡のない自然(デデデデジタルネイチャー)に立ち戻る必要はないと。
ルソーの試み自体が脱構築そのものであり, その脱構築を評価しているからこの本にとってのルソーの位置付けが分かりにくいけども。でもおそらく, ぼくたちは, さらにそのルソーを越えるべきだと。
そこでトクヴィルの議論を持ち出し, 有象無象の「喧騒」が自然を形成すると東が主張する。で合ってるかな。
人工知能的民主主義と隣り合わせにあってそっちにあまりにも転落しやすい世界観ではあるが, 人工知能的民主主義は人々がすべて「正しい」「必要な」行動・対話だけをするものだとしている。(社会契約論の世界もまた「正しい」契約の上に立っていますね)
一方の東の主張する民主主義は, よくわからないし論理破綻しているし脱線しているし無意味な, ごまんとある対話たちがあればこそ成立して, そして民主主義を維持する。(そしてこの結論もまた「訂正可能性」に晒されている)
民主主義というのは, デジタルネイチャーとか人工知能的民主主義よりも, だいーぶ雑然としていて胡散臭い匂いもするし手作り感がある手触りをしていますよ
という内容だと思いました。是非!
みなさんに支えられています