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先生。

新たな春を迎える。
12年間の中学校勤務を経て、今年からは小学生と共に学びの現場に立つ。
そもそもなぜ小学校に行こうと思ったのか。
きっかけは恩師である。
決意表明として、昔、大変お世話になった担任の先生との想い出をここに記しておきたい。

お転婆で変にずる賢い子どもだった私は、大人にとって大変扱いにくい、いわるゆ「面倒なクソガキ」であったに違いない。
なんでも自分の思うままにしたがる我侭な私を、毅然と叱ってくださった過去の先生方には、感謝の意でいっぱいである。

小学校ピカピカの1年生の担任は川崎先生であった。真っ直ぐな誠実さと、情熱あふれる人であった。小学1年生は思うまま、自由を謳歌するその場その時を全力で生きる生き物である。時にはわけがわからないように目に映る私たちの行動を、川崎先生はただ叱責するのではなくユーモアたっぷりに「宇宙人」「未知の生命体」と愛情をもって可愛いがり、危ないことは叱ってくれた。

今の時代ばならば、暴言だの人権だのと、騒ぎ出すつまらない者もいそうなものだが、あの頃私たちは、目の前にいるその人が愛情をもって接してくれていることを、ちゃんとわかっていた。言葉や行動の表面から揚げ足をとるのではなく、その根底にある想いや奥にある心(ハート)をしっかりキャッチするアンテナ(心ある感性)を持っていたのだ、と思う。あれこそがまさに、生きる力ではなかろうか。

かわいい悪ガキだった私は、お友だちと一生懸命川崎先生へのイタズラをしかけた。
教室のスライド式ドアに黒板消しを挟んで落っことし、いかに先生をハメてやろうか!と頭を使った。
そういうことに魂をかけるのが小学生である。

一枚上手の川崎先生には毎回、上手にかわされて「まだまだ甘いな」と言われたものだ。
今思うと、私たちにトコトン付き合ってくれた先生はまさに教育者であった。全身全霊で、とてもかわいがってくれていることを、皆知っていた。

向き合ってくれる。
遊んでくれる。
相談できる。
助けてくれる。
叱ってくれる。
間違えた時は、誠意を持って謝ってくれる。
まさに、心から安心できる理想のオトナだった。

しかし、改めてその愛情を実感したのは、3年前の夏のことである。

川崎先生は若くして突如、病に伏せた。
コロナ禍真っただ中のことであった。
病状が進行していく中でも、体力の続く限り、現場に出向いて子どもたちと過ごし続けたそうだ。

そして闘病の末、最後まで子どもたちに愛情を注ぎ尽くし、命の炎を燃やし切った。突然の訃報には驚いたが、最期の命の使い方が、川崎先生らしいと思った。

コロナもあけた昨夏、やっと川崎先生のご自宅に
お線香をあげに伺うことができた。
奥様は、何十年も前にサロマで関わった私たちのことを、きちんと覚えてくれていた。

「あなたが先生をしていると聞いて、夫はすごく喜んでいた」
「これ、良ければもらってちょうだい」
と、川崎先生が遺した指導書や愛読書、ノートを丸ごと託してくださった。

そこには、あの頃では知り得ることのない、教育者としての揺るがぬ視点が、深い愛情と共に綴られていた。

教師としていかに子どもと向き合っていくか。
教育者とはどう在るべきか。

真剣に悩み、考え、試行錯誤を綴った筆跡を目にし、感動した。

幼きあの頃は何もわからないまま
ただただ与えられ続けていた愛情が
何十年もの時を経て、再度私の人生に巡ってきた瞬間だった。

尊敬する川崎先生。
いただいた指導書は職員室の机の中に、お守りのようにしのばせている。

心に刻む恩師の2人目は、小学3年、お転婆最盛期の私と全力で向き合ってくれた森内先生である。
 体も声も大きく、もじゃもじゃの髭は大変立派で、まるでクマのような人であった。
怪獣のような豪快さから「モリゴン」というあだ名で生徒に親しまれていた。
子どもオトナ関係なく、正しいものは正しい、間違ったことはちがう!と、体当たりでぶつかってくるモリゴンは強烈で、私にとって脅威の存在であった。初めは、ズバズバと豪快にぶつかってくる先生がうっとうしく、警戒していたものだ。

 しかし、とにかくおしゃべり好きなモリゴンは、大学時代に研究していたモモンガの生態だったり、森の中でクマと出くわした話、海の中でサメに襲われそうになった話(「絶体絶命シリーズ」と言っていた)をたくさんしてくれた。動物が大好きな私は、すぐさまモリゴントークの虜になった。

 普段はニコニコしてひょうきんなモリゴンは、怒ると冗談じゃなくおっかない人でもあった。でも、理不尽に怒る人ではない。それは子どもながらに理解していた。関西出身なので、怒りスイッチが入ると、咄嗟に関西弁が飛び出す。(※本人は気づいていない)
一度だけ、友達を傷つけて怒られたことがある。その時は怒られたことよりも、モリゴンに嫌われたのではないかというショックの方が大きかった。絶対に泣かないように歯を食いしばった。
なんとなく「泣いて逃げるのはズルい。モリゴンに嫌われてしまう」という思考回路が根底にはあったように思う。担任を離れるときに、モリゴンが「ちえだけは泣かせられんかった」と悔しそうに、しかし笑いながら言っていたのを記憶している。

 その後、担任を離れた後もずっと見守ってくれた。小6になり、児童会に立候補する機会があった。本当は会長に立候補したかった。しかしライバルが立ちはだかったのを聞きつけ、投票で闘う自信がないままに、保証のある副会長に役職を落として立候補した。そして、無事当選。
今思うと小さな出来事であるが、モリゴンはすぐさま私の保守的な計算思考を見抜いた。
そして、わざわざ私のクラスにまで出向いてこう言い放ったのである。

「ちえには堂々と闘ってほしかったわ」
「妥協したやろ。もったいない」

図星を突かれ、恥ずかしさと悔しさで胸がいっぱいになった。冷静になってから、やっぱり落ちたとしても会長に堂々と立候補すればよかった、と後悔した。その時、自分の気持ちを見て見ぬ振りして忖度し、逃げるのではなく、貫き通すべき時があるのだと、人としての在り方を学んだ。

「そこまで見抜けるモリゴンはやっぱすごい」
もしモリゴンが担任だったら。
堂々と会長の一騎打ちを展開していたかもしれない…という考えが頭をよぎった。しかし、それは甘えであるとすぐに打ち消した。

 尊敬する先生が託してくれた想いや学びを、胸の奥にしっかりと刻み込み、先生から離れたときこそ実践し続けること。そうして初めて自身の生きる力となる。学びの実践は、自立の道の第一歩なのだ。
小6の終わりに「自立」という言葉の意味を学んだ。

大人に甘えてばかりはいけない。
自分の道は自分で決める。
そう心に刻んだ。

細かな心情を見抜き、
ズバリと指摘し、
触れられたくない痛いところを真っ直ぐに突く。

モリゴンは、間違いなく自身が成長するには欠かせない、刺激的な存在であった。川崎先生と共に、未だ尊敬してやまぬ存在である。

 昨今、褒めて伸ばすとはよくいうが、嫌な思いも、恥ずかしい思いもすべきである。褒められて、守られて、失敗もせず、叱られもしないままにに大人になるとは、大変恐ろしいことである。恥も、痛みも、苦しみも知らぬまま、どうして他者の心の痛みをいたわれる者になれるだろうか。
ニンゲン、丸裸にされて初めて覚悟が決まるものである。覚悟決まった生命体は、膨大なエネルギーを燃焼し、命を満遍なく輝かせ、驚くべき飛躍を遂げる。

こうした、生身のヒトとヒトの勝負事を経て、私たちは化学反応を起こしていくのだ。だからハートが熱くなるのだ。それは人の想いと想いが交わる時に生じる炎である。

教員は大変なことも多い。
理不尽なことはもっと多い。
しかし、それを越えた尊い場面に出逢うことができる奇跡の職業である。私はそう思う。

だから、やめられない。

過去に出会った多くの恩師の
言葉ひとつ、行動ひとつが、
今の私を創っている大きな礎となっている。
何十年も経ってから初めて気づく。
気づかぬままのことも、もっと沢山あるだろう。

誰に拾われるかもわからない
芽が出るかもわからない種を蒔き続けるのが、教育者の醍醐味である。
誰かの心にいつか花開くかもしれない種を
見返りも期待せず、ただ目の前の子どもたちの幸せを願って蒔き続けることができる先生でありたい。

今は学校現場が保守的過ぎて
教育者としては正直モノ足りない。

オブラートに包まず
まっすぐにぶつかりたい!
という衝動に駆られることもある。

もはや、教育現場はここが勝負!という時、
つまりは、その子をダメにするかどうかの分かれ道という場面で、
「いかに傷つけずに伝えるか」
「嫌な思いをさせてはいけない」という
不安定で脆い柱が立ちはだかっている。

本音でぶつかり合えない“もどかしさ”と共存しなければ、成り立たないものになりつつある現場に危機感を感ずる。

子どもは大人が思っている以上に賢い。
守りすぎては自身の足で立てなくなる。
それこそ彼らにとっては不幸なことではなかろうか。

情けない。
悔しい。
不甲斐ない。
しかし、これが現状である。

私はこの課題をどう打破していこうか。

越えられない恩師の存在に敬意を払い、
川崎先生とモリゴンが見ていた光景を目に刻みたくて、小学校の現場に立つことを決めた。

あの頃、どんな思いで私たちを見つめてくれていたのか。
恩師にいただいた形のない学びは財産である。
同時に、ハッキリとした答えはない。
その答えは、これから生涯かけて見つけてみようと思う。

先生の胸から私の胸に灯された情熱の炎を、
これからも誰かの心に灯し継いでいきたい。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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