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双極性障害ⅱ型の私の年収が何倍にもなった訳

私のこれまでの人生の歩みなどを知ったところで、皆様のお役に立つことなど全くありませんが、ニューソートの凄さを知って頂くためにできるだけ手短に書いていきます。

私は1968年に福岡市で生まれました。母は私が小学校3年生の時に離婚し、私は母子家庭という環境で育ちました。

高校は学費の高い私立の上、1年浪人して、さらに地元の私立の大学に行きましたので、全く親孝行の息子ではありませんでした。

大学を卒業して大手の1部上場会社に入社すると、母はとても喜んでくれましたが、その会社も1年半で辞めることになります。

しかも、会社に所属していた1年半は、欠勤することがとても多いという有り様でした。

その後はフリーターになりますが、その時に妻と出会って結婚します。26歳の時でした。

それから40代後半になるまで、妻の地獄が始まります。

私は、仕事に就くのですが、どうしても長続きしません。1ヶ月持てばいい方で、1日で辞めた会社が何社もあります。

26歳から40歳代の間で、転職した会社は、おおよそ100社ぐらいになろうかと思います。ほとんどが、訪問販売の営業会社でした。営業力があった訳でありません。そういった会社は離職率が高かったため、多少職歴が悪くても採用してくれるからでした。実際、職歴を問われても、いい加減な辞め方ばかりしていたので、今更思い出せないというのが実情です。

仕事に行かなければいけないというのはよく分かっていました。ですが、どうしても職場に行くことができなくなるのです。強い倦怠感があり、そうとは言えず、いい加減な嘘をついて会社を休むということを繰り返しました。家にいることが確定するととても安心した気持ちになれるのでした。

でも、当然そんなことを続けていると収入がありません。実際私の年収は、20代から40代後半までの約25年間は、約120万円前後ぐらいだったと思います。

そのため、結婚して男の子が2人いた私の家庭は、とても貧乏でした。妻は看護師をしており、仕事、子育て、家事をひとりでこなしていました。ただ、妻はこんな私と結婚したことは自分の責任だと考え、こんなダメ亭主でも、1~2万ぐらい家に入れてくれたら、まあいいかと思い直してくれていたようです。ところが、当時私はサラ金から何百万円という借金をしており、1~2万円を入れるどころか、毎月何万円もの返済をしなければならなかったのです。

家計は毎月綱渡り状態で、貯金はおろか月末になると生活費にも事欠き、いくつかある銀行の預金通帳に入っている数百円をかき集めて、やっとその日の夕食代を捻出するという有り様でした。当然、家族は全く幸せではありませんでした。

転機が訪れたのは、高2の長男が脳出血を起こした時です。脳動静脈奇形という10万人に1人という割合で発症する先天性の疾患で、長男は妻が夜勤でいない夜に脳出血を起こしたのでした。自分のことしか考えていなかった私は、長男の変化に気づくこともなく、翌朝、言葉が話せなくなった状態を見て、はじめて事の重大さに気づくのでした。

病院にいくと脳出血をおこしていることが分かり、失語症と右手の麻痺があることが判明しました。

その晩はひとり泣いて泣いて泣きまくりました。早く気づいてあげられなかった自分、これまで家族に迷惑をかけてばかりだった自分、そんな自分がそうなればよかったのにと思いました。

でも、その時奇跡が起きました。

病院の先生が翌日手術をしてくださったのですが、当日は面会できず、その翌朝、長男に会いに行きました。すると失語症の症状も右手の麻痺もそれまでが嘘のようになくなっていました。

私はこの時ほど神様に感謝したことはありませんでした。

長男はそれから高校を留年することなく、無事に卒業しました。

長男から高校を卒業してからの進路について相談がありました。それは、作業療法士になりたいという申し出でした。

自分がリハビリを受けている時、対応してくれた作業療法士さんからいろいろな話を聞き、自分もその仕事をしたいと思ったようでした。

私は思いました。失語症を経験した人がそんな方々のお世話をする仕事ができるなんて、まさに神様の計らいだと。

私は、迷うことなく、長男に「頑張れ!」といいました。

でも、そこからが大変でした。長男は3年制の専門学校に通ったのですが、その学費の工面が大変だったのです。

半年ごとに学費60万円とテキスト代20万円の合計80万円が必要になります。年間で160万円です。

そもそも貯金もなく、その日の生活さえままならない状態で、そんな学費を出すことは相当大変なことでした。

ですが、私は長男がお金がないために夢をあきらめることが絶対あってはならないことだと思っていました。

当時の私は、ホテルマンになっていましたが、毎日夜勤に入っても手取りが20万円とちょっとぐらいだったので、もうひとつバイトを掛け持ちでやりました。妻も看護師の仕事と掛け持ちで介護施設の仕事をしました。

私と妻の睡眠時間は、ほとんどなくなり、私はいつでもどこでも寝落ちするようになり、妻はごっそり髪が抜けるようになりました。

もう限界でした。

そこで、私は決意しました。歩合がついてお金が稼げる営業に戻ろうと決めました。

私は、地元の住宅リフォームの会社に営業として入社しました。

そして、その時やったことが、仕事を辞めずに頑張ること。加えて、それまで読んでいた自己啓発本でいいと思ったことを実践することでした。

すると、それまでの20代からの25年間、年収120万円ぐらいだった私の年収が、1年半で800万円に、2年半で1100万円に、3年半で1300万円になったのでした。営業も得意ではなかったのですが、顧客リストを持たない訪問販売の営業で6年の間に、700件もの新規の顧客様を開拓していました。

年収が上がるとこれまでの生活とは一変しました。私はもちろんですが、妻や子供たちが経済的に恵まれるようになりました。

ただ、今思うに、この成功は私の実力ではないということです。

もちろん、これまでと違い仕事を頑張ったのは事実です。ですが、相変わらず会社に行けなくなって休むことも多々ありましたし、退職したいと言ったのを引き留められ、1ヶ月間休んだこともありました。

ですので、こうして年収が上がったのは、ひとえに運が良かったからだと思います。

そして、その運を引き寄せたのは、ほかならぬ、ニューソートの実践を毎日欠かさずやっていたからだと今なら断言できます。

ちなみなに私は、こんなにうまくいっていたときでも仕事に行けなくなるので、妻のすすめもあり、メンタルクリニックにいったところ、双極性障害ⅱ型だと診断されました。昔でいうところの躁鬱症で、異常に元気な状態とうつ症状がある状態が交互に頻繁に来るというものです。

仕事に行けなかったのは、そもそも私が怠け者でダメな人間だからだと思います。ですが、その時出してもらった薬を服用すると1年半皆勤したことを鑑みるとその情緒障害があったのも仕事が続かなかった理由のひとつだったのかなぁと思います。

これが、私のこれまでの人生の流れです。

お伝えしたかったことは、こんなダメな私でもニューソートのノウハウは実践すれば、願望を実現してくれるということです。

ちなみに私の長男は、無事専門学校を卒業し、卒業と同時に作業療法士の資格を取得、長男のお世話をして下さった作業療法士さんと同じ病院に就職しました。

どうでしょう。今叶えたい目標や夢がある方。こんな私のつまらない記事ですが、役に立たないのは承知の上で、暇つぶしに読まれませんか?

私は在職中は年収1000万円を安定して稼いでいましたが、先に書いた会社を退職して独立すると全てがうまくいかなくなり、年収も大幅に下がり、貯金を食いつぶすことになりました。

私はもう一度、ニューソートのノウハウを実践し、さらなる夢を叶えていきます。

今後は、そんなニューソートのノウハウや学んだことや実践していること、そしてその時感じたことなどを正直に書いていきます。

そんな私を応援して下さる方、この記事を読んで一緒に走ってくださる方がおられれば嬉しいです。



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