溢水「౨ৎ 333 ౨ৎ」
手首に引いた線が、薄すぎたのか、リボンのように見えた。バイトもきっと限られる、腕も捲れない。でもそんなことは、どうでもいいだけだった。
*
かわいいものだけを散らかしたような部屋に、ただひとりで座っている。さいきんはなんだか、常に薄っすらとした眠気に覆われている。たぶん4週間ぶりの休みだった。眠って、2時間ほど起きて、水色の吹き出し、連絡を返してまた眠る。堕落していた。もう落ちる場所もない。振り返ることが出来ない生活。カッターナイフは新鮮に、つめたく光っているのがいちばん良い。踏んでしまったからか、形を崩した煙草の箱だけが、いま。どうしようもなく目ざわりだった。
*
特に理由はない。刃を、肌の上に滑らせるのがすきなだけだった。血がぷくぷくと浮き出てくる。いつもはすぐに拭ってしまうけれど、今日はすこしだけ見ていることにした。気力が無かったのかもしれない。
手首の骨は細い。力を込めたら折れてしまいそうなくらい。ごはんはよく食べる。どうせ食べられない時期がやってくるんだから、我慢したって変わらないことだった。もう催促もされないバイトのシフト。伝わらない言葉。好きだったものもすきだったひとも居るけれど、この閉じた部屋のなかでは、なんだか全てがどうでもいい。実体が無いような気がする。すべてに。浮いているわけではなくて、なんだか影や輪郭がぼやけたり、薄くなっている。そんな気がした。この部屋のなか、わたしだけに、血がながれている。
血が、固形になって浮いてゆくのをみた。
おかしい。やわやわとうさぎの形に変容して、わたしの手の甲に留まる。なぜ。
「おはよう こんにちは」
やわやわと言葉を放った。
「けんこうなちは こうやってあかいのだ よかったね」
また滴った血が手の甲に登って、やわやわとうさぎの手をつくった。小さなそれがぴーすしている。わたしの血でできた、ぴーす。そして、うさぎ。
「おはよう、こんにちは」
言葉を繰り返してみる。うさぎはぽやぽやとわらった。
「かわいいかおしてるね」
褒めてもらえたのが単純にうれしかった。自分の身体から生まれたものに、ただ、褒めてもらえるのが。
「ずっとからだのなか、めくってたの」
「うん」
「だから、そとがわがどんなかしらなくって」
うさぎはつっかえずに言葉を並べてゆく。aからuまで。母音もしっかりしていた。
「おもったとおり、かわいかった」
うさぎが愛おしそうに手の甲、すぐ下が骨だけの、皮膚を撫でる。
うさぎはそのままベッドに飛び乗って、わたしのことを見上げた。手首の出血は、もう止まっていた。
「ありがとね、そとにだしてくれて」
そういうと律儀にお辞儀してみせた。
「触ってもいい?」
爪の先はゴテゴテとパーツが乗っている。さわるなら、指のはらだろうか。
「うん。でも、やぶれちゃうから やさしくね」
「わかった」
おそるおそる、指でふれてみる。
「imho」
うさぎはよくわからない言葉を一瞬吐いて、そのあと静かになった。血液が、薄い膜で覆われているような。ぷにぷにしている。指にはくっつかない。さら、としてすこしだけあったかくて、なんだか安心した。
「やぶけちゃうからね」
うさぎがもう一度念を押す。
「うん」
指を離して、すこし様子を見た。うさぎはさわられたところを何度か自分でまたさわって、すこし跳ねた。
「またさわってね」
ベッドのうえにいると、押しつぶしてしまいそうだ。
「ねむる?」
首を振る。いまねむると、なにがかはわからないけれど、ぜんぶがなくなってしまうような気がした。漠然とした気持ちはこわい。だって、果てがないから。
「わたしも、さわってもいい?」
「うん」
そう言うと、うさぎはまた手首の傷までよじ登り始めた。よじ登るというか、腕にすこしだけ張り付くようにして、器用に登ってゆく。
「さわるね」
左手首に何本かの傷。消えかかっているものもある。それをうさぎは、丹念になぞっていった。
いちばん深い傷。うさぎが生まれた血液が流れたそれを、うさぎはしばらく見つめていた。
「気になる?」
うさぎはだまっていた。
「さわるね」
もう一度言って、ちいさなその手を傷口に突っ込んだ。なにかがびちびちと跳ねているような感じがする。痛いような、くすぐったいような。不快なような、きもちがいいような。
うさぎは、傷口のなかを深く、混ぜ合わせているようだった。
皮膚と血が捩れる。すこしだけ、生理的な涙が浮かんできたころに、うさぎは傷口から手を抜いた。
「ごめんね、でも、なんだか」
涙がどんどんと伝う。もう生理的なものではない、なんだかわからないもの。
「こうしなきゃ いけないようなきがしたの」
顎から下に落ちてゆく涙をかけてくれと、うさぎは頼んだ。すこし、うさぎを引き寄せる。かけるというか、かかるというか。そんな位置でうさぎは、またなにかを言った。
「なみだはちをこしたものだから、たぶんね これもきっとまざるよ」
「うん」
すこしだけ、涙と混ざって色が薄くなったような。そんなうさぎを横目に、やっぱりすこしだけねむった。
*
目が覚めると、うさぎがすこし萎れているようだった。
なぜ、と聞くと「みずふうせんもしぼむでしょ」と言っていた。たしかに、と頷いて ああこれも消えてしまうのか と思ったのだった。
「なにか食べる?」
「ううん」
うさぎは萎れてしわのよった身体を、何度かゆらしてみせた。
「じゃあ、わたしもいいや」
そういって、またすこしねむった。
*
傷口が乾いて、乾いた血液がぱらぱらと落ちる。すこし痛かった。うさぎはまだねむっているままだった。
乾いた傷口が、じゃりじゃりと音を立てるような。
部屋のなかはずっと散らかっている。捨てろと言われたらすべてを捨てられるものたち。なにひとつだって、大切なものがなかった。
「起きて、」
こんなものにまで、さみしさをぶっつけてしまう。
うさぎは萎れたままねむっていた。かなしさがどうしようもなくって、うさぎを揺り動かす。ちいさなからだ。萎んだ身体が、音を立てるようだった。やぶけてしまったらどうしよう。そんな気持ちはちらついたけれど、どうしようもなかった。
かなしさはどこからやってくるのか。途端に黒い糸に巻き取られるようになってしまう。まっくろな糸が途端に脳にぎちぎちと巻き付いて、かわいいだけの爪も、落ちているやけに光るピアスも、前の彼氏に貰ったままの指輪も、見えないようにしてしまう。
うさぎはゆっくりと目を開けた。
「はあい」
*
ゆるいだけのピンクがかわいいとは思わない。食べるものをかわいくなぞらえたって、中身が変わらなければ意味が無いのに。そんな言葉を浴びすぎて、それがほんとうだと思い込んでしまうのは。他人の内臓のなかにあるだけの正しさを、ただ、受け取りすぎてしまっている。血がわきたつ。
*
うさぎはこむずかしいことを言わない。わたしもむつかしいことは考えられない。だからちょうどよかった。血の赤、ちをへだてたもの。したたりから生まれたうさぎのことはなによりも近しく思えた。
「もうすぐひからびちゃうと おもうの」
うさぎはあっけらかんとそういった。血が、凝固してゆくみたいだ。
「どうして」
うさぎはまたぽやぽやと揺れた。
「また切れば、おなじに戻るの?」
「ううん」
うさぎはきっぱりと首を振った。
「さっきのなみだもね、とりこんだけど あんまりなじまないの」
でもたのしかったよー、と揺れている。
「なんで」
やっぱりわたしは涙が出た。涙を流すことに、段階が無くなったような気がする。かなしいとおもったら、そのまま。すぐに流れる。
「であいがきたら、つぎはおわかれだよ」
うさぎはまたわらった。さみしいのはやっぱりわたしだけだった。ひとり取り残されたような気分になる。
「かなしいの、あなただけじゃないよ」
うさぎは言う。気が付けばすこし俯いている。透明なこころはなんだってそのままに映しだす。怒りも、かなしさも。愛しさも。
「うん」
「もどるだけだよ、もどれはしないけど」
萎れた耳を何度か動かして見せた。
「うん」
*
うぞうむぞう。爪が伸びてキーボードが上手く打てない。角の隅のほう。血がかかったまま、固まっている。
*
血は固まる。うさぎの動きがどんどん鈍くなってゆく。ぎちぎちと音が鳴るくらいに萎れてゆく。さみしかった。傷口の痛みはもう気にならなくなっていた。うさぎが腕を突っ込んだこの傷すらも、いつか塞がってしまう。無くなってしまうみたいで嫌だった。
さいしょから無かったものみたいにすすんでゆく。それがかなしいと、もうずっと叫んだままだ。
さみしい。傷つけるもの。hurt U。誰かの名前。
*
外に出なくなって暫くが経って、かなしいときはただ涙を流すだけの生活を続けている。爆発する瞬間だけを、見逃したくなくて。爪をとがらせて、だれにもみせないのにまきつけたリボンを、もう。ずっとながめている。ちからをこめすぎたりこめなさすぎたきずは、ぬいめみたいにとぎれることがある。ぎずすらも、まんぞくにつけることができない・ ・・。のたうちまわる。
*
うさぎはまるで踊るように歩く。よろけているだけなのかもしれない。
「わたしがいなくなっても、あかいろはふえるの?」
湯船のなかで、新体操のひらひらしたリボン、あれみたいに血が広がるのが好きだった。
「わかんない」
「irl」
うさぎはまた聞き取れない言葉を吐いた。
「km」
もう腕のほう、いや、たぶん頭の方まで、うさぎがぱりぱりと渇いているのが分かった。
「キスして、てこと」
うさぎが最後の力を振り絞って、わたしの肩の辺りにジャンプする。
綺麗な放物線を見て、ほんとうにおわりだ、と思った。
唇をくっつけると、なにか破片が舞った。まごうことなく、それはうさぎの破片だった。
ばくはつする、しゅんかん。
いとおしかったな、と思う。
うさぎが居た時間は、1日のなかでもとってもみじかいけれど。うさぎが居なくなっても、なにも変わらないけれど。それでも、変わったよ。と、思う。もう塞がったリボンのような傷を覆うように少し抑えながら、念じるように、祈るように思った。
なんにも、かわらないけれど。
ただ、それだけだった。
( 赤い破片が散らばったままのシーツを撫でつけて、ただ、不乱に、眠りつづけた。 )