僕の死生観
僕はいつも死にたがっている人間だ。コロナ禍においても毎日「○○人が感染して○○人が死亡した」というニュースを聞いても「なんだ、そんなもんか」みたいな冷めた目で見ていた。それどころか「こんなヌルいウイルスで死ねて運がいいなあ」くらいに思っていた。しかし、世間はそうは思わず、連日怯えるようにコロナの話ばかりしていて、死のリスクが少し高まったくらいでみんなここまで怯えるものかぁと感心してしまった。
僕は普段から死にたがっていて、死は日常のものだとインストールされている。僕は特に何かの宗教を信仰しているわけでもないので、輪廻転生とか天国とかまったく信じていないので、死ぬとは単純に今自分の存在が消えることだと思っている。
自分の体験だが、僕は過去に3回自殺未遂を経験した。そのとき、一瞬の無の時間があったことを知った。首を吊ったときで言えば、首を吊った瞬間と意識が戻るまでの間に見た夢の間に多少の時間があった。記憶には存在しないけれども、たしかに無が存在した時間があった。それが永久に続くのが死なのかなと思っている。
そんな時間は日常的に体感している。それは寝る直前の時間だ。「寝よう」と意識して布団に入って目を瞑って夢を見るまでの間の時間だ。ノンレム睡眠と言われている時間だと思う。僕は10時間から12時間くらい睡眠を取るのだけれど、改めて考えてみると、起きていればただ横になっている時間は苦痛で仕方がなく、とても長いものと感じるだろう。しかし、それが一瞬で終わってしまう。それどころか、夢を見ている間についても、夢の中の自分はまったくの別人で、現実の自分は存在しない。その意味では、寝ている間は現実の自分は死んでいるのと同じではないのか、と思っている。
死とは睡眠に入った直後の状態なのではないか、そう考えている。快楽も苦痛もなにもない無の状態。哲学で言えば「無は存在するのか」みたいな話になるのかもしれないけれども、実感として無は存在する。10時間から12時間睡眠をとっているにもかかわらず、その時間は一瞬で過ぎ去ってしまう。その時間の差分こそ無なのではないか、そう思っている。
死ねば無になるのであれば、今感じている苦痛からも開放される。それが僕にとって希望になっている。幸福も感じられなくなるのかもしれないが、そもそも「感じる」ということが無くなるのであれば、それは大した問題ではない。「なにも感じなくなる」というのが救いなのだ。
先にも述べたように、世間は死に対する恐怖がとても大きい。だが、少なくとも僕は死ぬことは全く怖くない。例えばガンなどで実際に死に直面しても同じことを言えるかどうかと言われると、言える自信はあるけれども、もしかしたら言えないかもしれないので、あまり強くは言えないけれども、死ぬことについては強いあこがれがある。「どう生きるか」よりも「どう死ぬか」を考えている方が気が楽になる。ガンで周りから「かわいそう」と思われながら死ぬのはとても心地が良いものだと思う。
麻薬でアヘアヘになりながら何もわからず死ぬのが理想的だ。現代社会ではそれは許されないのがとても悲しい。一方で、電車に轢かれて死ぬのはとても怖い。ぶつかったときに感じる痛みと、失敗したときの代償を考えると、絶対にやりたくない。首つりでさえ、もうやりたくないと思ってしまうくらいの代償を支払った。楽に死なせてほしい。
一方で、「生きるとはなにか」みたいなことも考えている。今僕は生きているとは言い難い。ただ与えられるばかりで、誰かに与えることをしていない。何かを自分に課すこともなければ、なんらかの野望を抱くこともない。
しばしば、風俗で遊んだりもするけれども、なにか違う。単純な食欲・性欲・睡眠欲といった欲望を満たすだけの人生は生きているとは言えない。ただ生命維持をしているだけだ。人間もただの動物だけれども、それ以上の欲求を抱いて満たすことで初めて人間をやれているのではないかと思っている。
犬猫は畜生道を生きていて、念仏を唱えられないから、極楽浄土にはいけないらしい。僕は仏教を信仰しているわけではないけれども、仏教でいう極楽浄土に行ける振る舞いをできるかどうかが、人間と動物の差なのかなと思う。
僕は人間の振る舞いをできているだろうか。いつも不安で仕方がない。そして楽に死にたい。