男性が包摂されにくい理由
先日私が投稿したツイートが炎上した。
このツイートに対して「男は男に厳しいよね」とか「男が男を助けるシェルターを作ればいい」とか「お前が作るんだよ」などといったコメントが寄せられた。
彼女らのこれらのツイートは悪意に満ちいているが、一概に「ミサンドリーだ!」などと切り捨てることができるほど的外れの指摘では無いように思える。確かに最近話題に上がっている女性専用シェルターの事業をやっているNPO法人の理事は自ら立ち上がり女性のための活動をしている。男性が男性のための活動をするべきというのは、一定の理があると思う。
男性が男性のための支援団体を作ると、周囲から危険視され、邪魔をされるという現実があるが、それを乗り越えてこそそのシェルターに存在意義を持たせることができる。男性を助ける男性が増えれば男性専用のシェルターはきっと実現可能であろう。
しかし、現状、あらゆる困窮した者、暴力を受けている者に対する支援は、女性を中心としたものがほとんどであることは疑う余地はない。ちょっと検索をすればわかるが、地方自治体のDV被害を相談できる場所のメインターゲットは女性である。
「男性は男性に厳しい」というのはある程度正しく、部分的には間違っている。「男性は男性に厳しく、女性は救済対象になりやすい」がより正確だ。
なぜそのような現実があるのか、先日の白饅頭師匠のnoteを読んで納得したことがある。
どの部分が得心がいったかというと、「私たちの祖先は「他者とのつながり」「他者への貢献」「弱い者を養う」ことによって、自己存在感や肯定感を得ていた……というより、そうした営みから「喜び」を得られるような気質の者でなければ、共同体から追放され、生き残れなかったというのが正確でしょうか」の部分だ。
弱い者(女、子供、弱者男性)を養う(助ける)ことで我々の祖先は繁栄をしてきた。特に女子供については養うことは共同体の将来も繁栄に対する投資の意味合いがあるため、養うインセンティブはより強いものとなった。弱者男性についても女子供の”ついで”に包摂されてきた。
”ついで”であっても弱者男性がなぜ包摂されたかというと、強者男性といえども、狩猟採集時代においては、負傷すれば容易に弱者男性になってしまったからだ。弱者男性を一定数養うことは、強者男性にとって保険の意味合いがあった。しかし、裏を返せば、あくまで”保険”であるため、限られた資源の中で多くのリソースを費やすほど養うことはできなかった。
そのように考えると、弱者男性が包摂されにくい(弱者男性を包摂するインセンティブが働かない)理由が見えてくる。女子供といった弱者を強く包摂するようにデザインされていても、同じくらい弱者男性を包摂するように我々がデザインされていないからだ。
よって、弱者男性を保護するためには「犯罪者の再犯率は~」とか「弱者男性を保護しないと治安が~」などと、保護しないことによるデメリットを提示しなければならない。そして、弱者男性を保護する団体は「犯罪者予備軍を集めている危険な団体」とレッテルを貼られてしまう。
「人類は弱いオスを助けたいと思わない」という事実を受け入れた上で、弱者男性に手を差し伸べる制度なり団体なりを(女性専用シェルターとは別のアプローチの仕方で)考えていかなければいけないのだろうなと、ぼんやり考えたりなどした。