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昔 書いたブログ転載 『書記バートルビー/漂流船』 (光文社古典新訳文庫) メルヴィル (著), 牧野 有通 (翻訳) 理解不能で警戒せざるを得ない人物や状況と、関わらざるをえない。という人生の不条理。不思議な読後感の二作。
『書記バートルビー/漂流船』 (光文社古典新訳文庫) Kindle版
メルヴィル (著), 牧野 有通 (翻訳)
Amazon内容紹介
ウォール街の法律事務所で雇った寡黙な男は、決まった仕事以外の用を言いつけると「そうしない方がいいと思います」と言って一切を拒絶するのだった。男の不可解な振る舞いを通して社会の闇を抉る「書記バートルビー」。アメリカのアザラシ猟船の船長デラーノは、遭難同然のスペインの奴隷運搬船を発見する。嫌な予感を抱きつつ支援を申し出るが……劇的な展開が待ち受ける傑作「漂流船」。アメリカ最大の文豪の代表的中篇2篇。
ここから僕の感想
しむちょーん、読んだよー。
読書人生の師匠先達、しむちょんが教えてくれた、メルヴィルの中編小説二つを収めた本です。実は僕、『白鯨』を読んでいないのだ。初メルヴィルです。
『書記バートルビー』は、法律事務所を営む語り手が雇った、謎の書記との交流を描いた小説。『漂流船』は、アザラシの毛皮貿易をするアメリカ船の船長が、チリ沿岸の小島沖で、遭難しかけたスペインの奴隷貿易船を救助しようとした顛末を描いたもの。状況は、著しく異なるが、基本的に同じテーマをめぐって書かれている。
いやー、面白かった。
①他者は、まずは理解不能である。これら小説においては、特に理解不能な人物や状況が設定される。
②理解不能な人物と状況に対し、人間は警戒をする。警戒は敵意にまで育ちそうになる。
③語り手主人公は、理解不能な相手の行動言動を、なんとか理解し、受容し、善意で解釈しようとする。ここが面白いところで、主人公の人格は、善意において他者を理解受容しようとするものと設定される。
④ 主人公語り手は、警戒と善意理解の間で葛藤する。
⑤葛藤しつつも、ある時間の長さを過ごすうちに、その理解不能な他者に影響を受けて、自分自身の気持ちや言動行動に変化が起きてくる。
⑥いずれにせよ、他者との関係は単なる「理解する・理解できない」という意識認識の問題にのみはとどまりえず、具体的行為行動・態度を示さざるを得ない。それを「警戒・敵意」モードで行うか「善意・信頼」モードで行うか。そこに行動上の葛藤が生まれる。小説としてのダイナミズムが生まれる。
二編の小説は、いずれも、この構図の上に成立している。
これら小説は、ともに、善意の人である主人公の前に、極端に理解不能で、極端に「警戒せざるを得ない」人物や状況が現れる。その人物と交流を続けざるを得ない、逃れようのない状況が設定される。これは、作者の考える、人生の在り方を、凝縮したものであると思われる。
考えてみれば、家庭生活においても、妻も子供も、常に「理解不能な他者」として、日々、立ち現われ続けるのである。そして、基本的には、逃れようもないのである。それに対し「警戒モード」これはそのまま容易に敵意まで育ってしまう。この警戒→敵意に、対人関係を進ませず、なんとか、理解、信頼、愛に基づく関係に転化していかなければならない。そこの葛藤。
スケール大きく、文化人類学的に見てみても同じだ。隣の部族集落。突如現れる知らない集団に対しては、人間は当然まずは「警戒」モードであたる。しかし「警戒→敵意」にいきなり進んで、戦争モードにすぐに突入しないための、コミュニケーションの知恵を、人類は育んできた。とはいえ、他者は理解不能であり、食事の饗応をしようが、モノの交換・交易をしようが、他者との間に「信頼」や、ましてや「愛」はそう簡単に築けるものではない。
もしかして、『白鯨』っていうのは、この他者が、人間ではなくて。巨大なクジラという究極の「他者」として現れるっていうことなのかな。敵意モード丸出しのはずなんだけど、戦っているうちに、信頼とはいかずとも、ある種の尊敬というか、意志のやりとりが生まれてくるのかな。しかしやっぱりクジラだから、理解不能なんだろうなあ。なあんていうことを考えましたが、今、読みたい本が山のようにたまっているから、すぐに『白鯨』にはいけないなあ。だって、あまりに大長編だし。
他者との関係のとらえ方と、主人公の基本的態度の倫理観に、当時のアメリカなのか、この作者なのか、どちらにより大きく関係しているのかはわかりませんが、非常に明確な特徴が感じられた。そして、筆力。読者の興味を惹きつけながら、状況と人物がいきいきと伝わる小説として書き上げる筆力は、間違いなく、超一級でした。
追記。しむちょんとのFacebook会話から。
しむちょんに。バートルビーという人物を理解・解釈するのは無理だと思うんです。『漂流』の方は、最後に答え合わせが用意されていますが。バートルビーは善意が届かないし、悪意があるわけでもない絶対的他者を人物として造形したということだと思うんですよね。それを、小説の登場人物として、なんというか、いるかもしれない人物として描いた、ということが、凄いところだと思うのです。
しむちょんに・その②。バートルビーがカフカ的不条理を、状況ではなく、人物として、しかも「しないほうがいいと思います」という鮮烈に印象的な言葉とともに定着した、というのは、これはたしかに文学的大事件で、種明かしが無い分、その影響が永続的なのだと思います。前に読んだシャーウッド・アンダソンの中にも、ニューヨークだっけ、大都会の狭い一室に引きこもり続ける話があったような記憶があるのだけれど、農村ー地方都市ーに対してニューヨークという本当の大都市がそういう存在を作り出す。カフカの場合は、どちらかというと都市というだけでなく「官僚組織」が、非人間性が不条理を生み出す。状況自体の非人間性みたいなものが際立つのだけれど、バートルビーの場合、アメリカ社会の「人は自由」で、「しかも基本的に、建前的には善意」が「大都会」に集積している、そのはざまに現れる「人間存在側が不条理」になっちゃう、ということを小説・人物にしているから、より現代的、というか、現代の僕ら日本人にも、より自分のことのような感じがするんだと思うなあ。「しないほうがいいと思います」っていうのは、人の、自分の自由に関する意志表明なわけだけれど、それが、徹底的な孤独と、最終的にはあらゆる「働く/他者のためになにかすることの拒絶」、その先には「食欲の否定」という、自己保存、生存自体の否定に向かっても、宣言されてしまっているわけで。と書いてきた。なんか、なかなかうまく分析できたような気がするぞ。うん。なんかバートルビーについて語っていると楽しくなってくる。