3本の針 逆襲開始 #1
A子の前で男は死んだ。
突然、胸を押さえ、顔を歪め、倒れ込み、のたうち回って動かなくなった。
A子は、体から力が抜けていくのを感じた。
体中の血が地面に落ちて行く、そんな感覚だった。
すぐにA子も、胸を押さえてその場に倒れ込んだ。
A子は仰向けになって天を仰いだ。天井は、白く無数の穴が開いていた。
「このまま死ぬのか」
一瞬、考えがよぎったが、その後は何も思いつかなくなった。
「私は何をしたのか?」A子はかすかな感覚をたどった。
自分の鎖骨の下あたりから、突然、一本の大きな円柱のものが出てきた。それが、伸び、男の胸に突き刺さった。
突き刺さった瞬間、A子の怒りは一瞬で溶けた。
「消えろ!!!」そう思った瞬間、男は、顔を歪め倒れ込んだのだ。
胸を抑え、苦しそうに、のたうち回って死んだ。
A子は、その男に近づこうともせず、ただ汚いものを見るように遠くから眺めていた。
苦しくゆがんだ顔を見ても怖くはなかった。
A子の力は次第に抜けていき、今、仰向けに横たわっている。
「自分も死んだのか?そうかもしれない。」
意識の薄れていく中でおぼろげに考えた。
「胸から出てきたものは何だった?槍?胸が痛い」
立つ力も、考える力も出ない。
腰から温かいものが出てきた。温かいものに触れた。血液だった。
「あ、こうやって死ぬんだな」と妙に納得した。
「私も刺されたのか・・・・・」
いつも何かにおびえて生きてきた。いつも我慢をしてきた。あの男を殺せたんだ、やっと一つ願いが叶った。
願いが叶った。だから自分は死ぬんだ、そんなことを考えていた
すると、A子のありとあらゆる毛穴から、無数の針のようなものが飛び出した。
「なんだこれ。まるでハリネズミやん。」
A子の唇がピクピクと上がり始めた瞬間、何もかもの力がなくなり、脱力した。
毛穴から出た針は、空に向かって一気に噴き出した。
A子は呼吸もしなくなった。
2日後、死体とA子は発見された。
遺体の男は大学の教授だった。週明け、学校に来た職員によって発見された。
A子は病院に運ばれ、しばらく入院した。意識が戻った頃、季節は秋を迎えようとしていた。
事件のことは、日常にかき消されていたが、A子の意識が戻ったことで調査が再開した。
大学の教授の死因は心筋梗塞。A子はその近くで倒れていたが、A子の腎臓が一つ破裂していて、背中と胸に大きな打撲痕があった。誰かに殴られて負傷したようだ。そして、男にもA子にも刺し傷はなかった。
警察から聴取があったが、A子は全く覚えていなかった。胸から円柱の何かが出たことも、自分がハリネズミのように500万個の毛穴から針を出したことも、背中から血が出ていたことも、全く覚えていなかった。
病室から外を見ると、秋の色が始まろうとしている。
「あ、あと1か月で私は還暦を迎えるんだった。」A子は思い出した。
子供たちに会えるかな。それが楽しみだった。心は穏やかで、わが子2人の事以外は何も覚えていなかった。A子にとって、大切なのはわが子2人だけだったようだ。
住所、仕事、どうして大学へ行ったのか、何も覚えていなかった。
退院の日、婦人警官が来てくれた。
婦人警官はA子を家まで連れていき、A子は初めて入る家のように恐る、恐る、ドアを開けた。
中は綺麗に整理整頓されていた。
(これが本当に私の家なのか?)A子はそう思った。自分は片づけが得意ではなかった気がするからだ。婦人警官が言った。「何か思い出せることはありますか?」
ゆっくりと、ゆっくりと、頭が回転する感覚と、あまり回転して欲しくない気持ちと、思い出さないといけないという責任感とが交錯する。思い出したくないという気持ちは、どこから来ているのかわからないが、思い出さないといけないという責任感の方が強かった。
壁に飾っている写真を見る。子供2人と笑顔で写っている自分の顔を見た。(あ、これは下の娘が成人した時に撮った写真だ。)
そうだ。いろいろと思い出した。娘が成人して、大学に入って、あの教授につきまとわれている、と娘から聞いた。その教授はなんと、60歳近い人だった。(その教授に会いに行ったんだ!)一瞬、頭がはっきりした。婦人警官が言った。
「何か思い出しましたか?」「はい。少しずつですが。でも、それが本当かどうかわかりません。」A子は、断片的に思いだしたことを婦人警官に伝えた。
「なるほど。わかりました。それは私たちの調査でも一致しています。教授のPCから、ある女性の写真が大量に見つかりました。それが、あなたの娘さんです。あなたは何かをするためにあの部屋行ったのですか?」
「そこは全く覚えていません。」
「あなたは殴られた痕がありました。それは教授がしたものですか?」「それも全く分かりません。たぶん、違うと思います。だけど、こんなところ自分で打つこともないと思うんですけど。自分で転んで打ったとは思いません。」
「そうですね。では、どうして教授がしたのではないと思うのですか?」「うーん。それもはっきりとお答えできません。なんで行ったんだろう。」「そうですか。わかりました。教授の死因は心筋梗塞とはっきりしています。解剖結果ですので、間違いありません。しかし、あなたの腎臓が破裂している件については本当に謎なんです。お医者さんもびっくりされていましたので、よほど強い力で殴られていないと、そういうことにはなりません。もし誰かに狙われているのだとしたら。いけませんので、何か思い出したらすぐにご連絡ください。」「はい、わかりました。ありがとうございます。」
A子は、守られている安心感がして、少しうれしかった。
しかし、もしかして狙われているのか?
心配がよぎったが、そんなことも、どうでもよかった。
自分は、還暦を迎えるんだ。なんだかウキウキとして、うれしかった。子供たちと、また美味しいものを食べよう!2人とも元気だろうか?しばらく会っていない。そんな感覚だけが自分の中にあった。
退院してすぐ、2人から電話があった。息子は東京で働いている。還暦の誕生日には戻ってくるそうだ。「一緒に肉を食べよう!」と言ってくれた。娘もその日は帰ってくる。 「3人で焼肉キングでも行こう。」って私は言った。私はシニア割になるんだろうか。そんなウキウキ感があった。
さて、私は何の仕事をしていたんだろう。収入源は何?全く思い出せなかった。
A子は60歳の誕生日に息子と娘と会った。焼肉キングで久しぶりにお肉を食べ、「ホテルの食事とかの方がよかったんちゃう?」と気遣う息子を横目に、娘とデザートを食べまくり、たくさん笑って、3人で帰宅した。
布団を並べて、トランプをし、話しが尽きず、子供たちは1泊し、翌日に帰っていった。
A子は幸せだった。たくましく育った2人に目を細めることばかりで、何の心配もなくなっていた。
そうして、1週間後にA子は亡くなった。
A子の死亡が確認されたのは死後3日たってからだった。
宅配の配達員がチャイムを押すと、応答はなかったが、窓に寄りかかって座っているA子がいた。
配達員は庭に周り、窓をノックして「配達でーす!」といつものように声をかけたが、A子はピクリともしなかった。様子がおかしいので、通報に至り、発見された。
死因は、わからなかった。突然死だった。3日間そこに座り続けていたようだ。A子の隣には、子供のアルバムがあった。苦しんでいない、穏やかな顔で亡くなっていた。
A子の死と重なるように、あちこちで心筋梗塞で亡くなる人が現れた。
多くは、歩いていて突然苦しがり、救急車が来る前になくなるケースだ。その他は職場や食事中が多い。誰かに発見されているから見つかるものの、A子のように死後何日かのケースも、まれにあった。
これは、何かのウイルスなのか?心筋梗塞になるウイルス?そんな噂も広がったが、心筋梗塞で突然死をしている人すべてが男性だった。年代は問わない。20代から60代までいる。しかし、全員が男性だった。
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