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真実語サティヤ “共感とかじゃなくて”

(2024.9.30メルマガアーカイブ)

■真実語

ヨーガの八支則の一つである「サティヤ(真実)」という発想は、言葉や行動において誠実であることを求める倫理的な教えです。


「サティヤ」は、自分自身や他者に対して常に真実を伝えることを意味しますが、単に「嘘をつかない」だけでなく、他者を傷つけずに真実を伝えるというバランス感覚が重要で、ただ率直にものを言うだけではなく人格的な技量(慈愛の気持ちであったり、相手の状況を推測や理解して話をする姿勢)が必要です。


古代において、それはインドに限らず世界中の文化でそうだったと推測できそうなのですが、「言葉」というのは今現在よりも非常に「具現力」を伴ったものとして広く認識されており、それゆえ気をつけて扱っていたし、恐れられてもいました。そういう時代には「呪文」なんかの効力は今とは違う力があったのでしょう。



■偽りなき祝福

インドの古い物語を見ますと、度々「祝福をもらって」という表現が出てきます。神々から、師から、親や年長者から、修行を積んだ人から・・・と、祝福の言葉をもらうことで、もらった人は次のフェーズに入ることが可能になります。


次のフェーズといっても大きな転換だけでなく、日常的なことがかなり含まれます。ちょっと外出したり、用事があって誰かに会いにいくような場面や、なんなら朝の挨拶みたいな「これから通常通りの1日を送ります」という際にも「祝福」をもらうことで始まるのです。いわば「許可」の役割も果たしております。一言一言の言葉の価値と力が大きかった分、日常の営みにおいて必要不可欠な『動力』として頻繁に使われていたのがわかります。


それゆえ、稀なケースではありますが挨拶的(儀礼的)ではあっても「祝福しない」ということもあります。賛同できないことには、「いってらっしゃい」というような意図も含むようなものでも、祝福を与えないという場面があったりするのです。


例えば叙事詩「マハーバーラタ」は、後半は王族達の戦が繰り広げられるのですが、ある王子が戦に出る前に自分の母に挨拶に行きます。そこで母親から「勝利のための祝福」をもらうことで晴れ晴れと戦に出られるからです。母のその祝福の言葉こそ、彼が戦に出るための重要なイニシエーションであり、正規のルートでの「動力」の確保となるのです。


ただ、その話の中で出てくる母親は、息子が先頭に立って行おうとしている戦争に反対をしています。どう考えても正義(インド的に言うと「ダルマ」)の戦いではなく、息子の個人的な恨みによる自我の暴走が戦争にまで発展してしまったものだったからです。


そして母には、息子がその戦で破滅に向かうという避けがたい運命を背負っているのが心の目で見えており、どうしても『勝利せんことを』という祝福で送り出すことができません。そういうわけで母親は『勝利せんことを』ではなく、『長寿(健康)であれ』という祝福だけを授けます。そのことから息子に察してもらいたい、思い直して進軍をやめてもらいたいという意図だったと取ることもできます。


しかし息子の方は、母から「勝利」の方の祝福をもらいたかった。でも長寿(健康)の祝福しかもらえなかった。そのことにモヤっとするのですが、結局は戦争を始めてしまいます。そのあとの話は長いのですが、最終的にその王子は戦で命を落とします。



母親の「長寿の祝福」に効力はなかったのかというそうでもなく、長く過酷な戦の中で王子は壊滅的な危機を何度も回避します。かなり生き延びます。しかし最終的には、王子が自分の個人的な恨みや欲望を捨てることがなかったために、戦場で、自分が最も恨んでいた相手との決戦で命を落とします。



■結果は変わらないかも・・・からこそ

母親は「サティヤ(真実)」を守ったのかもしれません。

サティヤを単純に解釈してしまうと、「真実」の反対として「嘘」を言わないということなりますが、そういった言葉が出力された時の二元性(正直か嘘か)だけではなく、本質的には「想いと言葉にギャップが生じると、その言葉は力を持たない」という自然法則のことを言っていると考えられます。


くだんの母親は、勝ち負けではなく戦そのものをやめてもらいたいと思っているのに「勝利せんことを」という言葉を贈ったら、自分自身の中に大きな亀裂を作ることになり、それが後々なんらかの形で禍となることを理解していたのだろうと思います。



または、仮に母親が息子に、そう思っていなくても「勝利せんことを」という祝福を贈った場合・・・というパラレルワールドを考えてみてもおもしろいかもしれません。真実の宿っていない偽の祝福を持って戦場に赴いたら・・・きっとそこに王子が期待するような勝利はなかったんじゃないかと思います。


いずれにせよ結果は変わらないかもしれないのですが、だからこそ「結果が変わらないからこそ」プロセスにおいて「葛藤」のない方を選ばないと、どこにもサティヤ(真実)がない世界線になってしまいます。「葛藤」、それはインド思想的に言うとそれは「タマス(闇・重さ)」の性質を持つ想いで、それが輪廻の世界への重い束縛を生むと考えられます。





■スピリチュアルなデメリット


現代の社会で、古い時代のインド的な「サティヤ」を実行するのはけっこう難しいことなのかもしれません。本音と建前が存在する社会は日本だけじゃないと思いますし、個人間でも、100%本心ではなくても《少しの本音と少しの嘘を織り交ぜた言葉で》気分をよくしてもらって、その場の人間関係をうまく収めたり、煩わしい問題が起こらないように嘘でも言っておく必要があったり。だいたいそういう感じかなと。


ただそういうのって行き過ぎると、自分の心を重くし、他人を気にする過剰な意識や、自然な振る舞いを抑圧することにもなりますね。



スピリチュアルなデメリットとしては、《自分の言葉に力を宿す》というスキルが知らないうちに失われます。また、自誰から与えられた祝福に値する言葉を受け取っても、それを実際的な栄養として利用する力も失われます。栄養のあるものを食べても消化吸収できない体みたいな感じですね。


先の物語のように、昔の人々は「言葉」を食べ物のように実際的な養分として運用していました。そういうのがだんだんできなくなってしまっているので、現代の人々は次々と「言葉」を貪って、短期的なカンフル剤にしていくのが一般的になっているのだなと。



そんな風に思うのですが、

というわけで人間は堕落した・・・

などとポジショントークするつもりはありません。

良い策もあるのです。






■だから古典

「サティヤな書物」を読むのがおすすめです。
ここで言う「サティヤ」は、何者かへの忖度を孕んでいたりとか、本音と嘘のハイブリットで塩梅を加減したりしていない、そういうタイプの書物です。


代表例は、やっぱり古いものです。古典に分類されるものが代表だと思います。そういったものはぬるい方に調整されておらず、その当時信じられていたことや大事にされていたことが語られています。現在のように世界がグローバライズされていないので、多文化・他地域の人を考慮していないし、もちろんですがのちの時代の人に「こんなに言ったら厳しいかな、ちっと真実からずれるけど嘘でもやさしいこと言っとくか」とか気を使っていません(笑)。


インドだと最古層の聖典ヴェーダもそうだし、「バガヴァッドギーター」もだし、ヨーガだったら「ヨーガ・スートラ」、原始仏教の経典もいいです。「スッタニパータ」などなどなど。あげたらキリがないですが、シェークスピアとかね。最近私は旧約聖書を読んでいます。


この種の書物の内容は、たしかに現代生活者がそのまんま信じたりやったりできるかというと、そうでもないアイデア(世界観)もたくさんあります。でもそこが問題なわけではなく、逆にそれがいいんですよね。聖典は誰にも忖度していない、という真実語としてのサティヤ(力)に触れることができるから。


ですので書かれていることを全部信じたり全部やれなくてもよくて、そういった「本心と最終出力にギャップがないもの」に触れていることそのものに価値があると私は断言できます。


原始仏教の「スッタニパータ」には、有名な《犀の角のようにただ一人歩め》という名文句があります。
しかし通常、人は誰かしらに依存心を持ち、何かしらに煩悩的な期待をするといった心理を完全に放棄しきれないことの方が多いです。「一人」を拗らせてしまう人もいます。ですが「できる・できない」ではなく、心の中に《犀の角のようにただ一人歩め》という、けして凡夫に甘くない「ブッダの放ったサティヤ」を持っておくだけでも、自分の中のサティヤパワーを刺激してくれます。「できなくても持っておく」というのも、私は大事だと思っております。その言葉を口と心に携えて生きるうちに、自分の中の眠っていた力(それは行動力であったり、認識力であったり、知性の純度であったり)が蘇ってくるものです。

■共感じゃなくて

先に述べましたが、最近私は「旧約聖書」を読んでいるのですが、旧約の「神」って現代的な発想ではわけわからなくて混乱するところが大いにあるかもしれません。そこを読み解くのが面白いのですが。


なぜ神はアブラハムに対して、
息子を生贄に差し出せるかどうかで信仰心を試すの〜〜〜〜(涙)!!そんな無慈悲な〜〜〜〜!!


って思うかもしれません。
この解釈は聖書を研究している方に任せるとして、本日の「サティヤ」の文脈で言いますと、現代人的によくわからない物語だからこそ一層の価値があると言っていいと思います。それこそサティヤ(真実語)であることの証明。現代人が考える整合性が働いていないからこそ、その時代、その文化の人たちの「真実」であったことの証となります。それを脳みそに汗かいてでも、既存の思考フレームを外して感じ取ろうとするプロセスで、私たちの意識はパワーをつけていきます。そして「言葉」の本来の力に関与することができるようになっていくと思うのです。


またまた長くなりましたが、「これを学んで何になるの」という発想は、けっこう、いや相当に危険です。目に見える成果やわかりやすい利益でしか自分を動かせないとなると、自分の宇宙は非常に狭くなっていきます。魚や動物たちは自然本来の場に生きている時には利己的にはなりませんが、小さい水槽や限られたスペースに入れると凶暴化し、同じ種の仲間であっても「いじめ」を始めたり、鬱状態になったりしていきます。


人間は「思考のスペース」を持った生き物なので、その世界を広げてその中でのびのび泳げるようにしてあげないと、変なことになってしまうようです。加えて、「言葉の本来の力」を使ったり享受することもできなくなるようです。


というわけで、「共感」ばかりを求めて言葉に飛び付かずに、真実語であるサティヤに接触する機会を積極的に持っておくべきだと私は思っています。


世界の、そして自分の「真相」に近づくために。





■編集後記的に

コラムタイトルに
『・・・共感とかじゃなくて・・・』
と加えたのは、昨年東京都現代美術館で開催されていたあ、共感とかじゃなくて。という展覧会タイトルが、すごくいいな!そうなんだよね、共感とかじゃなくて、なんだよ!と思っていたところがあって(その時点で「共感」しちゃってるんですがw)、使わせていただいた感じです。と言いつつこの展覧会、なんだか忙しくて行けなかった。行ってないのにすいませんって感じです。


あと、 サンスクリットの「satya」はカタカナにした際に「サティヤ」あるいは「サティア」と表記されますが、個人的にはどっちでもいいかなと思っておりまして、今回はサティヤに統一。



最後まで読んでくださりありがとうございます。

ナマステ
EMIRI

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