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神々と人間の交差点〜エモい古代の意識〜
(2024.6.13メルマガアーカイブ)
いつもコラムを書いていますが、最近よく思うのは、今の世の中って書くべきことがあまりないなって思ってしまうことがあります。
まあ〜〜〜〜とにもかくにも、日々情報が洪水のように溢れでていて、ほとんどのことはもう誰かが言ったり書いたりしている。自分の中で「あ、これ書こうかな」と思ったことなんかもすでに言い尽くされたこと、使い回された表現のフレーム、どこかで聞いたような語り、そんな感じに思えてしまって、なんか勢いを失うことがあります。
まあそれでも、自分も誰かの語りを読みたくて(聞きたくて)情報の海にアクセスするのもよくあること。そこで語られる内容は、やはりどこかで聞いたことだったりする場合もあるけれど、それでも触れたくなるその「動機」って何かなと思うと・・・純粋に「その人から聞きたい」という側面がかなりがあるんだと思います。
ちなみにnoteでは、よしもとばななさんのエッセイを購読しています。軽やかな文体の中に世界の重さをじわっと感じるあたりが好きだし、高校生の頃から読んでいるので彼女が今どんなことにフォーカスしてるのかななんて思って親しみを感じながら読んでます。何かがごっそり解決するような内容や、誰も言っていないような目新しいことが聴きたいというわけではなく、「彼女から発せられたもの」に触れたいんですよね。
まあそういうもんか、と思いました。なのでこのコラムもきっと「私から」聴きたいと思ってくれている方が居てくださるのだろうと、そこに希望を託し、感謝し、こうして書いています。
■エモい古代
今に始まったことではないですが、相変わらず強く興味を持っていることは、古代人とか、太古の時代の人々の意識の在り方です。
日々加速的に発達していく情報社会に生きる現代、その対局的なあり方をしていたであろう古代にますます興味を感じます。
そんな中からひとつお話しますと。
インド哲学を学んでいて、生きるのに役立った考え方とか知恵というのはとてもたくさんあるんですが、そういう「教え」とかではなく、単に「エモさ」に心が震えるのは、哲学的な思想になる以前の「詩」なんですね。
インドのいにしえの宗教であるバラモン教にも、初期、中期、後期と時代が変わると一番重きを置かれる対象とか概念に変化があるんですが、最初期、つまり最古層のバラモン教の柱は「詩」なんですね。歌なんです。古代の宗教では珍しいことではないですが、バラモン教を築いた古代アーリア人ももれなく詩人で、神官というのは歌い手集団なんですね。
リグヴェーダと呼ばれる最初期にあたるヴェーダ聖典の内容は、神々を讃える詩の集まりです。それらの詩にはすべて、詠唱する時のメロディラインや、抑揚のつけ方、そして音節の組み合わせなどのルールがたくさんあって、それを「韻律」と呼ぶのですが、そういうテクニカルなルールを駆使して独特な歌になっています。
神官たちの達した高度な意識状態で「起きていること」の表現がとてもおもしろいんです。
リグヴェーダの神官たちは、まず意識の変容が起こるなんらかの成分(植物から作るっぽい)を摂取してキメて、瞑想を高めます。
その中で、神々を観る。
そして、神々に捧げる「言葉」を「見て取る」んだと。
この表現が好きすぎます。
言葉だから「聞く」という表現を使いそうなもんだけど、言葉を「見て取る」のだと。
彼らは言葉を視覚的に(?)見ていた
と捉えることができそうだし、
しかし、その「見る」というものが現代人の言うところと「見る」と同じかどうかもわからない。
初期ヴェーダ時代のインドは文字を使用していないので、瞑想状態の中で言葉を文字として見たわけじゃないということは言えます。
■意識の中の交差点
言葉=音を「見て取る」というのはまことに興味深い意識状態だと感じるのです。というのも、瞑想をしているとなんとなくその意識に接触する時があり、“ああこれか” と感じたりすることもあるので。
「見る」というのはある種の能動的(積極的)な働きかけなのかもしれないけれど、そこに「見るべき対象」が「現れて」くれなければ見ることもできないので、神官たちの達した意識状態は「待ち」という受動的な態勢でもあります。
この「能動と受動」が一体となって顕現する音声が「詩」なんだなあと。
なんだかすんばらしい感じがするぞ。
神々と人間の交差点には、歌が現れるのだろう。
お、なんか詩的なことを言ったぞ。
この感覚がさらに強く現れるのは、私にとっては絵を描いている時です。何も描かれていない紙やキャンバスの前で、能動とも受動とも言える、積極とも消極とも言える「待ち」の意識に没入すると、そこに現れるべき絵を「見て取る」、ということがあるように感じます。
何か創作をする人がよく「降りて来る」とか「降って来る」という表現をしますが、そういうことなのでしょうと思います。
ただこれは「自動書記」みたいなこととはまたちょっと違うように思います。「見て取った」ものを実際に物理的な絵に描き下ろす段階では技術がいりますので。技術が足らなくて描けない時もあります。
古代の神官たちには「見て取った言葉」を歌にするための技を洗練させていきました。深い瞑想の中で、神々への賛辞を感得し、訓練された発声法や修辞法などを備えた神官(バラモン)が、歌唱として出力可能なものにしていたんだなと思います。瞑想エリートであり音楽家ですね。
あぁ、すばらしいじゃないか
そうであろうじゃないか
と思わずにいられないのです。
■もしも転生するならば
これはもはや不可逆なことではありますが、彼らのように完全に文字を介さない意識状態で過ごしてみたいなと思ってしまいます。「文字から離れる」くらいの試みではなく、「文字を知る前の状態に戻りたい」と言いますか。
もちろん私は大の文字好きで、読むのも書くのも好きです。人生から読書がなくなってしまったらどうするんだというような人間ですが、それでも、古代の人々の「言葉を見て取る」という意識状態にはとても惹かれてしまいます。
絵を描いている時とか瞑想してる時というような限られた状態ではなく、日々ふつうに生を送るすべての時間の中で、文字的思考がなかったら。それはもはや「時間」というものの感覚や捉え方も相当に違うだろうと思います。そして「時間」に関する感覚が違うというのは、「空間」の捉え方も違うだろう、ということが言えるんじゃないかと。
昨今、漫画やアニメで「転生もの」が流行っておりますが、もしも転生するならば「文字なし社会(時代)」に生まれたいです。
この、憧れに近い太古的意識への興味は、それこそ本とか研究論文の文字情報では「最後の一歩」に迫れないもので、最終的には体験的な接触だけが手段なんだろうと思っています。瞑想をするのはその主たる道ですし、創作的な行為への没頭なんかもそうでしょう。「ゾーンに入る」という表現がひと昔前によく使われましたが、それに近いかな。
現代人は意識してゾーンに入らないといけないのかもしれないけど、超大昔の人々はもしかしたらそれが通常モードだったのかもしれないと思うと、ゾーンのままこの世界のすべてを見るという意識状態が(私の興味としては)目指すところなんですよね。
近代の聖人としてはラーマクリシュナという人が、そのような意識でほぼすべての時間を生きていたんじゃないかと思います。
そういうことに興味を持っていますので、普段行なっているヨーガクラスでも、自然発生的に起こる「場の空気」には格別の関心があります。みんなの意識が純度の高いところで同期するあの感覚。
ことヨーガクラス中の意識状態が、古代意識に迫るのに条件がいい理由は、もう単純にスマホから離れているからです。そして基本的におしゃべりがないので。
スマホを持つ現代になってからというもの、私たちは外部から来る文字にされた言葉から離れる時間というのが本当に少ないのですが、ヨーガクラスの最中はデバイスから物理的に離れ、その時間はそれらに触れることができず、忘れていられる状況。古代意識うんぬんでなくても、これは本当に大事な時間だと思います。
■前文字時代の神、文字後の神
こういう話を同じくらいの熱量で話し合える知人(禅の僧侶の方)がいるのですが、彼と以前「古代人にとっての神の捉え方」という話をしていた時、「我々みたいにすでに文字がある状態で捉える“神”と、文字に変換することがそもそもない意識で思う“神”は、かなりの違いがあるでしょうね」という話をしました。
私たちが古代人の思想を探っていくとき、ある段階までは文字情報(言葉を使った解析)はどうしてもやってしまうのですが、そこから先は「文字」を始めとする多くの「後発の思考ツール」を捨てて、もっともっと流動的な意識の世界に体験として入っていくしかないのだと感じます。
「後発の思考ツール」とはよく言った。(自分への賛辞)
そうなんですよ。「思考」という機能は、私たちが後から開発して実装したアプリのようなもの。(まさしくそういう理論を展開しているのがインド哲学だとサーンキヤ哲学ですね。)
みなさんのスマホの中にも、非常によく使うアプリで、便利なんだけどめっちゃエネルギーを食ってくアプリってきっとあるでしょう。そんな感じです。
■もう芸術しかない
そういった古代的な意識世界を、強引なかたちではなく、個人の意識変容のペースに委ねたかたちで誘ってくれるのが、芸術作品というものだと思います。絵画とか、造形物とか、音楽とか、そしてそれを言葉で出力すると詩です。
古代的意識ってのは「未発達のもの」なのではなくて、意識空間の中で現代では閉じてしまった領域に自己存在をつなげる、時空&次元横断型の意識なんだと私は思っております。私にとっては意識のドアのような気がしています。
近代以降の芸術家たちが考古学的な遺物や民族的なものを好んで鑑賞したり蒐集し、そこからインスピレーションを得て制作をしている作家が多いのも共感とともに理解できます。
まあそんなことを考えております。
締めくくりとして言えることは、
そんなことをつらつら話ながらも、それを「文字」で伝えている私の矛盾、って感じですね。
本日は以上です。
ナマステ
EMIRI
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