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瞬間直角になれる


 車椅子からタクシーに乗り込むとき、そのおばあはたいそう時間がかかった。老人ホームの職員と、娘に補助してもらってやっと、よたよたというかんじで乗り込んだおばあは開口一番、娘に「あの子はいっつも段取り悪いなあ」とはっきり言った。全く頭がしっかりしている、と彼は驚いた。病院まで、あと十五分くらいあった。
 おばあが娘に何やら言ってる。娘はそんなこと言わんといて、そんなこと言うと誰も世話してくれへんようなるで、恥ずかしいやめて、としきりに言う。彼が息を詰めていると、娘がねえ、運転手さん、朝からそんなこと言われて、気分悪いわよねえ、と言った。よく聞くとおばあはもう死にたいなあ、と言っていた。「死にたいなあ。痛いのばっかり、しんどいのばっかり、もうしんどいわ」「そうですか。病院行くのも仕事みたいなもんですもんね、しんどいですわねえ」「そうや。そやし、もうええわ。もう十分やった」「日本ではねえ、自分からはいけませんもんねえ」「もう死なしてくれへんかなあ」「そんなこと言わんと。みんな少しでも長生きしてほしいと思ってますよ。頑張りましょう」彼は社交辞令と嘘と本音の間を行ったり来たりしているような自分の言葉に嫌になった。おばあの死にたいはカラッとしていて嫌でなかった。娘も何やら言ったり相槌を打ったりしていたけど耳に入ってこなかった。「私いくつやと思う?」「えっと八十。」「もう九十二よ」「九十二! 見えへん若いですねえ」いつもは安心するその受け答えがそこではおばあの真っ直ぐさに吸収されていってしまうようで意味がなくなった。二人は病院で降りて、おばあはやっぱりよたよたとたっぷり時間をかけて降りていって、こちらを振り向くことはなかった。
 しばらく手を挙げていたようなおばあはすれ違う時、本当に困っているような表情をした。まだお客さんが乗っていたけど目的地はすぐそばだったので、彼は窓を開けておばあに「戻ってくる」と言った。それから五分も経って戻ったので、おばあは他のタクシーに乗っているのじゃないかと思ったけれど、おばあはまだ待ってくれていた。「お母さんありがとう。もう、他のタクシーに乗ってしもたかと思ってました」と彼は言い、おばあは「にいちゃん戻ってくるてゆうたやろ。そんなん人騙したらあかん。人騙したらな、自分ところに突っ込んでくるんやで」ユーチューブで撮影されてるのでない、他人を意識したのでない、自分の中にある、自分で作った他人の眼に監視されてるのでない、瞬間で直角な言葉がそれからもたくさんあった。
 出張で東京から来た営業マンは「東京はいいところですよ。正直に生きてさえいたら。正直に生きることができなかったら、冷たいところだ」一年に一回ミナミで呑むと言う門真の建築会社の社長は「もちろん人を騙すなんてあかん。せやけど大事なんは、しんどい時に、嘘をつかんでいけるかや。人間大嘘をつかんで生きていけるかや」バレンシアガのロゴプリントのパーカーを着た三十代の男は舌を巻きながら「男ってさあ、徳積む系のことさあ、好きやんかあ」北新地のドレッシーな二十代女性は「今日来てくれにゃいのかなー。今日はにゃんすけしかいてにゃいんやけどにゃー」
 行ったり帰ったりする途中。彼は今までやってきた彼をそこではやらなくてよくて、タクシードライバーになれる。乗ってくれる人も、一人のお客さんになれるのやと思う。そこでの言葉は瞬間直角な言葉が多い気がして、それが気持ちよかった。
 心底疲れたような三十代女性が乗ってきてくれた。御堂筋を南下した。御堂筋はイルミネーションが光っていて、それは車が進むごとに少しずつ色が変わっていった。「わたしね、こんなもんなんやと思ってたんですよ。でも今こんなかんじで疲れて帰ってきたりしたら、なんか、心ドキドキしますね。なんか、いいもんですね」彼がいいもんですね、と言って振り返ると女性はもう目を瞑っていた。自分で自分に言う言葉もある、と彼は思った。それにその女性は降りる時、誰に言うでもなく「よしいこう」と言った。彼もそのような、同じような気持ちになっていた。

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