かもめのジョナサン
キモトは彼の勤務する清掃会社の事務所の二階に住んでいて、会議室の隅が寝床だった、その会社の社長の友人だから融通が効くけれど、ある意味で居心地の悪い毎日だった。おっさんなんで小指ないの、おっさん家賃ないねから奢ってくれなど五月蝿い新人も居るし、怒ってはいけないし、あれらはLの身体に2Lの服を着ているからダボダボやし。彼らの人間性みたいでちょっとなあ、と思っていた、キモトは絶対いつもLだった。
「財布なくした。おっさん知らん」と聞くその中のひとりが、真っ直ぐな目で疑ぐっているので殴りそうになった。俺は知らん、とキモトはやっと言うけど、そいつは従業員であるタバタにしつこく聞いて、ついにタバタに殴られていた。タバタは車をどこに停めても駐車違反を切られない札を持ってる、もらった日給はポケットに入れたままにしてる、風呂に入らないときもたくさんある、そういうところが、そういうところを、彼らはたぶん普段から話し合っていたのだと思う。自分達も風呂に入らないで来るくせに。だからタバタにはっきり「おっさん財布返せ」と言うことになったのやと思う。キモトはその全部の風景を、二階の窓から見ていた、若者は最初は威勢が良かったけど、タバタに押されてどんどん後退していく。なんでお前の財布とらなあかんねん、金やったらあるわ、ほれこれ見てみろ、とタバタが若者の顔に千円札を何枚も何枚も投げつけて、若者はその度小さく頭を下げて縮こまってしまった。キモトがそのとき思ったのは、あいつにたこ八の、たこ焼きを食わしてやろう、ということだった。キモトは若者が可哀想だった。
たこ八からキモトが駐車場に戻ると若者は折り畳みの吸引具を慌てて隠した、キモトはこういうときは、と普段より堂々とした話し方になって「たこ焼き食うか」と言った。若者は「えーと。はい」と言った。「さっきはすいません」
「全然ええよでもおまえ、明日タバタにちゃんと謝れよ。許してくれるか解らんけど、謝るっちゅうことしとかな、人間次ないから。おまえでも俺に謝ったから謝れるやろ。朝来て、出来たらちょっとはよ来てタバタ待って、ちょっと大きい声で謝ったら絶対許してくれるわ」
「でも俺財布じゃあ誰なんやろ」
「誰ちゅうことないかもせんやろ。落としてるか明日になったら出てくるかもせんやん」
「いやあもうああ、あかんわあ」
「あかんてなにが。ほんでおまえさっきの何やねん。そんなんやってるからそんなんなんねん。なんでそんなんすんねん」
「キモトさん金貸してくれません?」
「いやあかん。だいちなんに使うねん。若いからって後悔するど。なんでそんなんすんねん」
「金貸してや。家帰りたいねん」
「帰る金ないねやろ。ほやったら上泊まってもええで今日だけ」
「ちゃうねん今日払わなあかん金あんねん貸して、金」
「なんぼ」
「五千円」
「どこに払うねん、誰に払うねん」
「言うてもわからんやんか。キモトさん知らん人」
「おまえは知ってるけどそいつ知らんねやったら俺貸すことないやんか。訳わからん」
「俺困ってんねんで? 殺されるかわからんねんで? ちょっとお願い貸してやもう時間ないねん」
「殺されるてそんな大仰な。せやからそいつ誰やねん」
「いやもうおかんおかんおかんおかん」
キモトは嘘だろうと思っていたけど貸した。ずっと洞穴みたいになっていた若者の眼に一瞬で生気が戻ったのが嬉しかった。嬉しくなってそれからなんでそんなんすんねやろう、と思っていた。そんなに嬉しいことが、自分にあるかなあ、と思い、少し羨ましくなった。翌日若者が五千円を返しに会議室に来たとき、キモトは「やっぱりそんなに、気持ちいいんか」と聞いた。若者は「そうすね。世界ってか宇宙の本当がわかりますよね」と言ったので羨ましさが無くなった。キモトはその翌月会議室を出て、清掃会社に社員として就職した。
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