![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/161815870/rectangle_large_type_2_e0bcadcce85c7e08c7f46c7a853110de.jpg?width=1200)
一ユーロ二円
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/161816017/picture_pc_753cf2e3ffb8c3e9bcc83afb81bd695b.jpg?width=1200)
キタやミナミで呑んでいても、布施や寝屋川の人は、最後の一杯は布施や寝屋川で呑みたい、と言う気持ちを持っている人が多いらしい、何度も送ったことがある。ああ疲れた、と言って乗り込んできて、じゃあ布施へ、じゃあ寝屋川へ、頭の芯が酔ってない、もう一杯だけ行きつけの店で、と言って顔は心底嬉しそうなので、そんな人のことを見て彼のほうも嬉しくなる、そのうちの一人が「布施には独特の磁場があるから」と言っていて妙に納得した。布施にはもう連絡が取れなくなった友達がずっと前に住んでいて、一緒に曲を作ったとき、その友達の歌詞にも「布施駅」と出てきたことを今でも覚えてる。友達の鞄、リュックにはいつも菓子パンが二個くらい入ってた。彼はそのとき布施がどの辺にあるのかも知らなかった。一緒に作った曲はおかえり道という題名で、街では十日戎がやってて、その時住んでた日本橋のマンションは殺風景でうるさくて… 思い出・記憶みたいのは、思い出されるのを待っていて、脳の中の薄い皮膜の一枚下で、騒がしく各々動いてるような気持ちになることがある、その時彼がする表情はたぶんあと一杯だけ、と言ってタクシーに乗り込む布施や寝屋川の人の表情に似てる。
布施の車道沿いの商店街で、地面までストンと伸びたような花柄のワンピースを着た、背中の曲がった老婆が手を挙げてくれた。ドアを開けると元気な声で、まずこのドライフラワーを乗せるからね、と床に置いてから乗り込んだ。花びらや葉がぼろぼろ落ちる花束を老婆と彼は見て、老婆はごめんね、これね、盗んできてん。と言った。盗んだらあかんやんなあ、彼は言い、老婆は大丈夫、友達のスナックやから、捨てるだけやから、ええのよ盗んでも。そう言って病院の診察券を出して、ここへ行って、と鞄を置いて一息ついた。鞄には大きな派手な花が鞄と同じ素材で付いていた。発車するときミラーを見たけど、下瞼のぎりぎりまでマスクを上げていることは、老婆の安心のためだと彼は思った。茶色の長い髪の毛で、前髪は綺麗に揃えられていて、老婆はとても若々しかった。
「入院しててん。こないだまで。二ヶ月かなあ。長椅子でね、倒れてえらいことやった。スーパー。何にも身体動かへんようなってなあ。薬飲みたくてね、スーパー行って、お腹に何にも入れてへんからって弁当買って、そこで食べよう思たら真っ暗なってねえ。救急車呼びましょか? って言ってくれた子なあ、若くて男前やったのよ。わたし男前ばっかりおるのよ。なんやわからんけど周りに男前ばっかりおるのよ。整骨院の先生やろ、その子やろ、一緒にスナック行く子もおるねよ。男前には不自由せんのよ。あ、超ミニ。最近の子超ミニ流行ってんの? 超ミニで足細かったらええけどあんなずんどこしてて。不細工やわ。いまの若い子ってどうなん? 淡白なん? にいちゃんそうやんあっちのほうやん。にいちゃん淡白やろなあ。こんなん言うたらあかんけど、にいちゃんは、下手くそ。あかんで。にいちゃん女の子に合わしたらなあかん。わたしもな、こんな歳やけどな、丁寧に抱かれたらそら嬉しいもん。あ、プリウス。プリウス乗ってるやつにな、ろくなやつおれへんで、気いつけや、なあにいちゃん。わたし旦那が早よに死んでしもてな、でも淋しいおもたん最近のこと。会社二つやっててな、従業員五十人おるやろ、五十人おるってことは、百五十人おるってことやんか。そらもうえらいこ」
「お母さん病院ついたけど、今日日曜日やで」と彼は言った。病院はどう見ても閉まっていた。老婆と一緒に病院のぐるりを一周した。老婆は月曜日から入院をするから、その下見に来たと言った。守衛も見舞客入り口も見当たらなかったので、老婆はもといた場所に戻って欲しいと言って彼は驚いた。タクシー乗り場で休憩してたおじいが大欠伸をしてもう一度眠るのが見えた。
「わたしな、四十になったら化粧せえへんて決めてたん。正解やわあ。米ぬかとかほれ、エスケーツーとかゆうて、ごっついお金かかるやんか。友達に聞いたら月五万から言うてえらいこっちゃやんか。わたしダイソーで十分。一ユーロ二円。にいちゃんうどん好き? わたしこないだうどん屋行ってな、うどん一杯二時間かけて食べたんよ。主人がなあ、しかめ面ばっかりしててな、厚揚げ美味しいのに、いやうどんはそこそこよ、でもそこ厚揚げぶあつーいの入ってんねん。それが入っててそれがものすご美味しいの。美味しいのにな、主人がそんな顔してたらもったいないわーゆうてな、ほな奥さんケタケタ笑いよんねなあ、おもしろてなあ、お腹いっぱいやったのにうどん食べて、それで二時間かかったんよ。どこ行こうかなあ。コーヒーでも飲もかなあ。同じところ行きたくないしなあ。あ、アメリカン! アメリカン行くわにいちゃんここで止めて降ろしてにいちゃん儲かったなあ」
老婆はもといた場所から数百メートル移動したところで降りて三千円を払ってくれた。分散し切った会話も心地よかった。それは老婆の気持ちに嘘がないことと、老婆が何かに依ったようなことを言っていないからだ、と彼は思った。彼はそれで携帯のメモ帳に、何かに依った自信ははかない、と書いて、それに?をつけて消した。
向こうで手が挙がっているのが見えた。車を近づけてドアを開けた。すると手を挙げていた女性の後ろに立っていた男性が、その女性のスカートを思い切り上げた。ストッキングと腹の間も見えるほどだった。キャーとかギャーはあったけれど、そのあと女性は普通に乗り込んだ。女性は自宅に着くまでさっきの男性だろう人と電話をしていた。日光が女性の顔に当たって、「眩しい」と女性は言った。その声はひとつ高かった。何回めかの「眩しい」のとき、彼の車は一方通行を逆走してた。女性はその出口でちょうど降りた。それからタクシーの車内はなにもなかったみたいに静かになった。彼は布施が今どのあたりにあるかわかったようになっているけど、なにもわかっていない、と確信みたいに思った。