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心のレガシー
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万博が来てる、駅や道路や会話からそんなふうに思う、車がよく通る橋は車の重さと時間で少しずつ伸びて、道路との接続部分が大きく段差になっていくようだったけど、淀屋橋の段差も中津の段差もいつの間にか綺麗にコンクリートでコーティングされてる。臭いものにはふた、には対抗したい気持ちがあるけれど、どんどんいくら街が綺麗になっても漏れ出てくるもんは変わらん、という気持ちもある、うめきたという綺麗しかないようなエリアもオープンした、でっかいマンションがきっと建つ。万博もうすぐですね、そういう会話をお客さんとするとき、だいたい返答はよくないもので、大丈夫かねえ、やる意味あんのかねえ、人くんのかねえ、そういう言葉をでも皆嬉しそうに言うのは、きっと一瞬共同みたいな気持ちになっているからだと思う。ネガティブな部分での共同は、でかいものに対抗する共同みたいになって、最後はでも、やるなら盛り上がって欲しいですねえ、というふうにポジティブな、未来の共同になるから気持ちがいい。人間洗濯機をね、リベンジするらしいですよ、と言った真っ黒な髪の毛の中年男性は、いま殆ど全部実現してる七十年の万博の展示の中で、唯一これだけが実現してないのですよと画面を見せてくれた。これもですよ、携帯電話もですよ、言いながら中年男性の画面には今年の人間洗濯機が、身体も心も洗われる体験は、きっとあなたの心のレガシーになるでしょう、と説明されていた。七十年のものも今年のものも未来のようなフォルムだった。彼はレガシーの意味がわからなかったけど、中年男性の話す不遇だったとか、リベンジといった言葉から、無闇に応援したいような気持ちに一瞬なった。それで二人は「会場で会いましょう」と社交辞令を言って別れた。
レガシーの意味を携帯電話で調べると、だいたいは価値のある、現在まで受け継がれているもの、というふうな意味だった。心のレガシーというのは心の遺産というような意味になって、文を変えると、きっと忘れられないものになるでしょう、という意味になるだろうと彼は納得した。彼の乗っている車はコンフォートという名前で快適という意味で、車に関しては英語が特に多いなあ、と何かに気づいたみたいな顔をして昭和町を走っていた。
鞄のワッペンが立体的ですごく印象的だった。酔ったような雰囲気を黒いコートと黒いショートカットとその黒い鞄で隠したような女性は乗り込んできてくれたあと、行き先を言うだけでしばらく何も話さなかった。「全然関係ないけど、ちょっと聞いてもいいですか」突然女性が話し出したとき、彼はあくびを噛み殺していたところだったので、あっとかまっとかいう声が出て、それを隠すみたいになってつい振り返った、女性はもう何も隠していない感じになっていて笑っていた。すみません。僕でよければなんでも聞いてください。「中学から高校に上がるとき、どうやって決めましたか。うちには子供が三人いて、長女はわたしよりしっかりしてるから自分で決めてきた。真ん中は引きこもりになっちゃったから定時制なんだけど、下の子。私から見てもふらふらしてるのよ、どうしたもんかなと思ってね。わたしは高校行ってない。でも全然後悔してない。でも、子供には高校行ってほしい。でもわたしが高校行ってないから、偉そうなこと言えないじゃないですか」十五歳でいろいろがしっかり見えている人もそうでない人もいるし、もしも高校に行かないことを選んで後悔しても、そのときまたどうにでもなると思う。ただそのときぼくがしたみたいに、皆が行ってるから、友人が行くからみたいな動機で決めなければ良いと思う。でもぼくも高校には行って欲しいと無責任に思う、と彼は言った。それから、元服って十五歳やったんですよね。ぼくもそのとき、十五歳くらいのとき、自分は子供で何も自分で考えられないと思っていたけど、そのときなりに自分に沈んでいって、考えることができたやろうなあ、といまやから思います。と彼は言った。
「それ、後悔してはんの?」と女性は言った。
「してました。してましたけど、」
「じゃあ今はしてないのね。むっちゃいいですね」女性は腕を組んで深く頷いて、「わたし、いっつもトンビがタカを産んだんにゃなー、て思て見てるんですようちの子」と言った。最高だと思った。最高ですねと言った。それはお母さんが、とか、お母さんがいい人だから、お母さんにもともと備わってたものが、など、言葉を選んでうろうろしてるうち、目的地の駅に着いた。こういうのが心のレガシーとちゃうかなと思った。女性は帰ってからもう一本だけ呑むわーと言ってコンビニに入っていった、隠すということは嘘とは全然違う、二人はたぶんなにももう隠してなかった。