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それだけだった


 人の顔はその人の最先端で、その人がどのように生きてきたか、どんなことを思ってきたか、どんな心でだいたい居たかというのがだいたいわかる、と何かで読んだ。年齢を重ねるとそれがどんどんわかりやすくなるように思うので、その通りだと思う。地下鉄千日前線の早朝、おっさんが二人横並びに並んで座っていたが、太った方のおっさんがおもむろに剥き出しの蒸しパンを食べ出したのを、横のおっさんはとても嫌そうな顔をして立ってどこかへ行った。太った方のおっさんは白いアダモという感じで、立った方は年老いた百条委員会の奥谷さんという感じだった。二人から出ている粒はケンカをしているようだったけど、向かいで見ていた彼は無責任に喧嘩両成敗という感じだ、と思っていた。おっさんの持つ粒は顔からよく出ていると思う。嫌な粒も好きな粒もあるけど、とてつもなく嫌な粒を持っている人は少ない。同僚の丸川さんは嫌な客を乗せてしまったとき、タイヤ四つ全部に塩を盛る、と言っていた。その塩をくれたことがある。後部座席に盛大に嘔吐されたとき、その塩を盛ったけど、今思えば塩を盛るほどでなかったと思う。もっと塩を盛りたいとき、盛らないといけないようなときはたくさん来ると思う。
 なんとなく右、なんとなく左、という感じで梅田のあたりを走っていたら普段あまり通らないヘップファイブの目の前に出た。ヘップファイブを左に見て通ることはほとんどないので、彼はそこでしばらく停まってみた。五分ほどすると車体を軽く叩いて男性が乗ってきてくれた。髪の毛は短髪、ジェルで逆立てている。スーツでノーネクタイで、鞄などはなかった。
「梅新の信号左で」「梅新左ですね、わかりました」「モントレー前ってわかる?」「モントレー前ですか、ちょっと」「もうええわ。また言うわ。もう出して」
 男性は何かに怒っているというより、何かを怨んでるみたいな声調だと彼は思った。梅新の信号で停まったとき、ちょうどメーターは五百円だった、少し走るとメーターは上がる。男性はでも置いとくで、と五百円をトレーにきっちり置いた。彼はそれを見て、(メーターは上がるが大丈夫か)とは聞かないで、車はモントレー前に着いた。メーターは七百円に上がっていた。
「はい、ありがとうございました。七百円です」と彼が言うと、男性は借りてきたみたいな怒った声になった。スーツの外ポケットに入った大きい長財布を叩いて、金がないんやと言った。彼は金がないとは信じられなかった。
「金がないんだよ! 五百円しかないから、五百円出してんだろう。五百円で行って欲しいからだろう!」
「えっと」
「だからないんだって! 金はない。五百円しかないから!」
「えっとすみません。七百円です」
「ケチケチすんなよもう。ないんだって! ないものはないの! しかも高えよ!」
「えっと。んーと、」
「せめてあと百円にしろよ! なんなんだよもう。五百円とこで止めろよもう。ほら百円。これで良いんだろう!」
「あっじゃあそれで。大丈夫です」
男性が降りた後ろ姿をよく見ると、スーツだと思っていた上着とズボンは微妙に色が違っていた。男性の顔は手のひらみたいな印象だった。包まれてしまっていて、奥が見えないようだった。彼は少し嫌な気持ちになっていたけど、もっと話をしないとわからない、とも思っていた。本当に金がなかったら悪いことをした、乱暴な物言いでなかったら、五百円のところでメーターを止めていた、それをしなかったのは、彼は何か悔しかったから? 彼の粒と男性の粒はケンカした。粒があたって離れていくとき、よくない空気が産まれたと思う。そんなものを吸ってばかりいたら、自分から出る粒も汚いものになってしまう。彼はそんなふうに思ってファミリーマートへ塩を買うつもりで入った。袋の塩は売り切れていた。なんだかと思った。それで実用性も考えて、インスタントにミンティアブリーズの息磨きのやつを買った。その粒を一個ずつ、それぞれタイヤに合計四つ置いた。それで発車した。彼以外から見たら、ただ道路にハッカの粒が四つ。それだけだった。

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