雨上がり
フジファブリックを好きになって、五年が経った。
なぜこんなにはっきりと(わりと中途半端な)日付を覚えているのか、とよく訊かれる。
日記や手帳を書く癖があるので、その所為なのだけど、それ以上に、彼らを好きになったという事実は、わたしにとってかなり大きな出来事だったのだと思う。
今朝は、変な時間に起きてしまい、最低限のやることを済ませて、二度寝をした。
目が覚めると、なぜかとても憂鬱だった。
というより元気がなかった。理由もなく不安に包まれて、雨が降るか降らないかという空の色と、そっくりな心だった。
曇りはつらい。
だったらいっそ降ってくれよと思う。もちろん、降りすぎても困るのだけれど。
いつ晴れるか、いつ雨が降るかもわからない。不安のままなのだ、心の天気の「曇り」は。
そんな時に限って、予定が長引いてしまったり、じんわりと汗をかいたまま待たされて体を冷やしてしまったり(用事が済んだあと、薄手のカーディガンと温かいお茶を買った)、帰りが遅くなってしまったりする。
誰に会えば、元気をもらえるだろうか。
あの人は、今元気だろうか。
この時期はいつも不安定なのだ。
そして、いつも何かに追われている。フジファブリックを好きになった、五年前もそうだった。
五年前の今日、わたしがフジファブリックを受け止める余裕があったのは、もちろんその日だけではなく、色々あるのだけれど、ひとつ自分の中で区切りといえる出来事を終えて、しかもそれがうまくいって、達成感に満ちていたからだ。
ずっと「数曲だけ知っている」そのバンドを、きちんと聞いてみよう、と思ったら、するっとその沼に落ちていた。
心地良い沼だ。(あんまり「沼」だとは思っていないけれど。)
フジファブリックを聴くようになってから、見える景色が変わったことが、どれだけあるのだろうか。
聴いていなかった頃を思い出せないくらい、わたしの生活の一部と化し、わたしの人生の一部となっている。
世界が、きらめいて見えるようになった。
たしか、五年前は晴れていた。
梅雨の間の、夏らしい晴天だった、気がする。
なんとかバイト先では気を強く保っていたものの、最近誰かと帰る道を、今日はひとりで歩くことに決めた。
歩かないと、落ち込んだままだ。
雨に打たれながら、フジファブリックの曲を大音量でイヤホンから流し、一時間ほど、歩いただろうか。
いつもそれくらい時間がかかる。
逆に言うと、それくらい時間をかけて歩けば、少しずつ気持ちが持ち上がってくる。それをわかっているから、ひたすら歩いてみた。
わたしはいつまでも、7月6日という日付を忘れられない。
そういえば、一年前もとても憂鬱だった。こんなにわたしにとって大切な日に、なんにもなく、落ち込んだまま終わるのか、と思っていた。
少し歩いて、一年前も雨だったことを思い出した。帰り道、今日ほどではないけれど雨の中を歩いたことも。
その帰り道は、しあわせだった。
奇跡が起きてくれたのだ。まったくそんなつもりはなかったのに、大好きな人たちと、美味しい料理と美味しいお酒を囲んだ。
ああ、やっぱり今日は特別な日なんだ、と思った。
それ以上のことは、今年は起こらずに、もうすぐ日付が変わろうとしている。
ただ、なんでもないことが、ふっと心を軽くしてくれた。
入口に「全室禁煙」という張り紙を出され、ひと気もなく、ただまぶしいだけのパチンコ屋を見て、今辛いのは自分だけじゃない、世の中もきっと辛いのだ、と思った。
すれ違った人の傘に「KASA」と書かれているかと思えば、反対側に「NO RAIN NO RAINBOW」と書かれていて、なるほどな、と思った。
雨上がりが好きだ。
雨のにおいがしみこんだ、草木や土の香り。きらめくアスファルト。突き刺すような青い空。
「雨上がり」というワードがあるだけでも、わたしの心は踊る。
いつになったら晴れてくれますか。
フジファブリックを知るきっかけになった、「星降る夜になったら」。
フジファブリックを好きになった、「Green Bird」。
この二曲は、大好きな曲たちのなかでとんでもなく特別なのだけど、今日の帰り道、「LIFE」のイントロを聴いて、この曲もかなり特別なのかもしれない、と思った。たくさんの思い出が、脳裏に浮かんできた。
天気予報には、しばらく傘のマークが並んでいる。
それでもわたしは、雨上がりを待とう。
彼らに出会った六年目は、きっともっと輝いている。
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