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noteを書く目的:色々ありすぎたこれまでの人生を振り返る②20歳~30歳まで

20~30歳のできごと
・NZ語学留学
・NZで日本人スキルは一切通用しない
・NZで中国人の心根のよい恋人ができる
・帰国し大学進学費用を貯めて、大学受験
・4月入学・恋人つくり、5月に妊娠、7月から2年間休学⇒鬱まっしぐら
・HSPで陣痛痛みましまし×仮死状態の新生児⇒母子ともどもトラウマ
・23歳で出産、子どもがHSP、育児激むず、ワンオペ孤独育児、鬱深まる
・精神科受診を夫に却下され、夫の実家で過ごし少し回復
・大学復学、乾いたスポンジが水を吸うように知識を吸収
・性教育の授業で、夫の暴力に気が付き衝撃
・夫は授業と部活で認められたい=私のワンオペ続行
・夫氏「第二子・新築の戸建ての家が欲しい」、私「自分の人生がほしい」
・別居⇒調停離婚⇒夫氏鬱「死にたい」⇒「養育費の明細を出せ」
・哲学、心理学、暴力と人権、子ども中心の学び、自尊心キーワードに学ぶ
・生活を哲学・科学両面からアプローチできる家庭科の免許をとる
・日本のピラミッドの底辺を見てから教育現場に行きたい⇒虐待の相談員に

NZ語学留学

パイロットになりたいという恋人に触発されて、私も「できないだろう」とあきらめていたことにも挑戦したいと思い、留学を決めた。

「美容師よりも現代社会の先生になりたい」という気持ちは美容学校の説明会、通い始めてまもなく気がついた。「うわー、やっぱり違うわー。浪人とか、せっかく入った専門辞めるとか、他者と違うレールに乗るのは怖すぎてできないし、どうしよう…」と思いつつ、片道1時間半通い続けた。その美容学校の修学旅行は、イギリス・イタリア・フランス巡りだつた。建築の美しさ、街並みの美しさ、下着の美しさ等に私の美しいもの大好きアンテナがビンビンに反応し、身体全体が喜んでいる感じがした。「就職じゃない!留学だ!英語だ!」と、私の中のベクトルが海外を向いた。

ヨーロッパ修学旅行から帰ってきて、就職活動の時期になり、私は周りの子たちと同じ流れにのつた。まだ、他者と別のルートを進む覚悟ができていなかったからだ。美容院の面接を何度か受け続け、落ち続けた。「私の中のベクトルが美容に向いていないけど、母との共依存で美容を断ち切れないし他者と別のルートを行くのは怖い。」、そんな状態の人間面接しても、面接官は「こいつなんかちがうな」と感じとると思う。数社受けたが採用されることはなかった。

「働きたい業種ではないのに、本音では嫌だと思っているのにそれを認めることができずに面接を受け、結果採用されない」。今の私なら「当たり前だ。私が面接官だったらとらないよ」ってアドバイスするけど、当時の私は失敗の経験も少なくガラスハートで自己顕示欲の塊。「なんで私がやりたくもない仕事に応募しているのに採用されないんだよ」とばりばりに傷ついていた。

一方で、「日本で就職できない⇒もう海外に行くしかない!」みたいな流れができてきたことに、「それはそれで」と思いつつ、バイトしてお金を貯めて、NZに1年弱留学することにした。ただ、身分=アルバイトの数カ月間の不安、心もとなさはなかなかだつた。



私の育った家では、母が妖精のように機能し、家族を甘やかして彼女がいないと存在できないように仕上げていた。20歳前後の当時の私の家事レベルは限りなく低かった。洗濯経験なし、作れるごはんはインスタント焼きそばまで(でもそれも、時々湯切りで麺がシンクにこぼれてしまって怒り狂う)、朝起きたら炊き立てのご飯とおかずが数品でてくる生活に慣れ切った超ポンコツである。他人の家でうまく生活できるわけもない。生活力のなさ、そして、いつまでも幼稚園児レベルの英語しかしゃべれないことが結構しんどかった。

ホストの家は、この投稿の写真のような景色が見える、丘の上のとても美しい景色が見える素敵なお家で、大きいオーブンと食洗器が内臓されたシステムキッチンで、家事や夕食づくりを徹底的に簡略化していた、ギリシャ系移民のアンシーのおいしいギリシャ料理をいただく生活は、めちゃくちゃ素敵だった。

アンシーは小学校の先生だった。思春期の子ども2人を育てるシングルマザーで、子どもたちは週末にお父さんのところへ行く。その時間、誰かと語り合いたくてホスト業を始めたと言っていた。彼女はお酒を飲みながら、パートナーシップについては「ゆう、人間は変わってしまうのよ。」とか、職業については「先生にだけはなっちゃだめよ!ストレスしかないわ!」とか、本音で語りかけてくれた。

私の中で、人権意識の高い人達、高い国での「家庭」の経験は、何にも代えがたいものだった。女性の人権、子どもの権利、そういったものを体感することができた。

ただ、アンシーと娘は気性が激しく、しょっちゅう激しい言い争いをしていたので、HSPの私には刺激が強すぎて、数か月で滞在先をかえることにした。

今度はフィリピン系移民のテリーの家にお世話になった。テリーは料理上手で、よくキッシュやフライドライスを作ってくれた。フィリピンでは味の素を入れる習慣があるらしく、なんだか懐かしい味で、基本的に米系の食事だったので、正直体がすごく楽だった。テリーの夫は退役海軍のNZ人で、とても身体が大きい人だった。食事の量が、当時の私の2倍は軽くあり、私も最初は面食らっていたものの、次第に量を食べるようになっていき、私の身体のサイズもすくすくと育っていった。

テリーは当時の私とそんなに年が離れている感じはなく、多分30代前半くらいだったんじゃないかな。夫は60は超えていたはずだから、すごい年の差。夫は2回目の結婚で、1回目の結婚の時に子どももいる。

テリーは結婚でフィリピンからNZにきて、夫は高齢、心臓病を抱えている状態。ある日彼女は、彼が死んでしまったら私はここで独りになってしまうと切羽詰まったように私に話していて、移民の第一世代のしんどさが、ダイレクトに伝わってきた。

氷河期世代の私は、そもそも日本で労働力として期待されていないから海外で暮らそうと思っていたけれど、テリーの不安を聞くと、そう簡単なものでもないなと思うようになった。

多分HSP気質で、他者の感情が自分にダイレクトに入ってきやすい、感じやすいから、その辺を毎日分離する習慣がないと、他者の経験なのに自分の経験としてインプットされちゃうところがあるのかもしれない…

テリーの体験や感覚はテリーが抱える条件下で発生することで、私の条件だったらまた別の結果や感覚になるはずなんだよね。ここが、つい、相手の体験にのみこまれてしまい、相手と自分が切り離せなくなりがち…。よくない。

私がNZ通っていたのは英語の語学学校だったので、友達たちはワーホリで学校に行ける期限の3か月で別の都市に移動したり、農場に働きに行った。私は一つの語学学校に9か月くらいいたのだけど、人の入れ替わりに自分を保つのがしんどかった。仲良くなっても皆いなくなる。そんな中、私を好きだと言ってくれる子が現れた。中国の有名企業の跡取りと周りの子が言っていたけど、着ているTシャツはいつもスヌーピーで、金持ちという気配を一切感じさせない、家事と気遣いのできる子だった。

好きなことをしている自分を好きと言ってくれる人は、魂のレベルが同じ人。当時中国と日本の間で歴史の教科書の認識が大きく異なると国際問題になっていて、他の中国人留学生から「お前らは本当に何も知らない」と、中国の歴史の教科書をみせられながら責められたことがあったが、付き合った中国人の子は、「政府の方針と私たち個人は別」と言い切っていた。個人の感情とシステムとをわけて考えることができるところが素敵だと思った。私が日本でずっとおかしな恋人に絡めとられていたのは、私が心から好きな自分じゃないときに出会った人たちだからなんだろうか。

その子の親がカナダに移住する予定で、その子はカナダの大学に入学するためにNZの語学学校に来たらしい。私がお金がなくたって日本に帰る時期になると、その子は、日本に留学すると言い出した。元々日本語も学ぼうと思っていたしと。
当時の私は20歳21歳くらい。彼の人生を大きく変えていいんだろうかと戸惑った。私に彼の人生は背負えないと、関係を終わりにしてしまった。

当時は出会いなんて掃いて捨てるほどあると思っていたが、心根のよい人生を共に歩めそうな人との出会いは、今思うとそうないもの。20代前半では、人生のパートナーは求めていなかったけど、彼ともっと長い時間を過ごす人生もありだったと思う。


大学受験、入学、妊娠
日本に帰ってきて、お金が無くなったので、入学金と前期の授業料だけ貯めて、すぐに受験勉強に入った。お金がなかったので、近所の国立狙い。とりつかれたように勉強し、3か月後の模試でB判定、それ以降はA判定が出た。

2次の科目を小論文だと勘違いしてめちゃくちゃ対策したが、実際は5教科から1つ選ぶ試験で、試験会場で冷や汗がだらだら出たのを今でも覚えている。その時は英語が得意だったからなんとか合格できたけど、私はこういうところがあるんだよな…
山形に行かなきゃいけないのに、山梨に行こうとしたりとかね…

留学を決めて、お金を貯めて、1年弱過ごして帰ってきて、大学受験のためにお金を短期間で貯めて、1年間こもって受験勉強…

ムリを重ねてきた反動と、23歳で大学入学して周りの現役生から距離をとられることの寂しさとで、不安定に。不安な自分を恋愛でごまかそうという明確な動機があるなかで、中谷美紀似の好みの顔×同じ年齢×親の職業が一緒×最近まで留学していた子を見つけた。その子は飲みの席で「自分は歴史とか嫌い。意味がないと思う」とか言っていて、私は「うーん、歴史から学ぶこと結構あるけど、価値観合わなさそうだけど、ボンボンそうな感じ好みじゃないけど、顔は好みだし、今まで付き合ってこなかったタイプだし、まぁ一回付き合ってみるか」と、アプローチをして晴れて付き合うことになった。

その子もその子で何か抱えていたんだろうと思うんだけど、最初から全く避妊をしない、頭のねじの外れたやばいやつだった。

私が不安から恋愛に発展させ、私の方が好きだったというか、私の依存心が強かった時なので、「避妊をしないと子どもができるよ」とか「避妊しないと」とか私から伝えるけれど、殴ってでも止めるとか強くもでられない状態で、一か月後には妊娠していた。

妊娠検査薬で+が出たときは「うわぁぁぁ!どうしよ!」だったけど、
病院で赤ちゃんの心音が確認できた時は、「この子を育てたい。この子を20年間守る人生も悪くない。それでいこう」とすっと心が決まった。

子の遺伝子上の父親に妊娠を伝えると、「あれ、ピル飲んでなかったの?留学先ではみんな飲んでたけどね」とさらっと言いやがって、
「うわー、こいつほんと最悪だな。私はこれから働けなくなる。でもこの子を育てたい。こいつをATMとして機能させる必要がある。こいつを教育しなければ」と心に決めた。

当時は婚外子への相続上の差別がまだ残っていたのと、よく知らないやばい男をATMとして機能させるには法律婚が妥当だと判断し、私が大学を卒業し働くころには法律婚を解消するという約束で法律婚をした。

恋愛感情って、江戸時代では「世を乱すもの」として扱われていたようだが、本当に人の正常な判断力を奪うものだなと思う。恋愛で判断力を失うという遺伝子上の大きなエラーが組み込まれていることで、脳が進化しすぎた人類が絶えることがないんだろうな。

生物的には、「社会が…」とかどうでもよくて、「いかに種をつなぐか」が最優先事項だもんね。

母との共依存から抜け出そうとNZへ行き、そこで自分の人生の舵をとり始め、大学受験を決め、お金を貯め、勉強し、合格した矢先に妊娠。夫は大学に入学したばかりの私の意思を確認せずに、当然のように私が大学を辞めて専業主婦になる方向で考えを進めていた。

「相手の気持ちを聞かない、確認しない」。彼の人付き合いに関する根深い闇はここ。

40代の今なら弁護士入れてボコボコにして子どもをひとりで育てられる金銭面での契約を結ぶ方向に動くだろうが、20代は良くも悪くも柔軟性があり、「私が教育していかないと」と彼を受け入れてしまった。懐が深すぎる…

全ての始まりは、私が自分自身の不安を恋愛でごまかそうとしたことに起因していた。溺れる者は藁をも掴む⇒溺れている人は藁しかつかめない⇒溺れている時につかむのはすべて藁、ということなんだろう。

傷つきまくった子ども時代を過ごした私が、自分の子どもをもつとは露ほども考えたことはなかった。自分が親では子どもがかわいそうだと思っていた。自分の家系の負の連鎖は、私が子を産まないことで終わりにしたいと思っていた。

だから、突然子どもと共に生きることになって、大パニックになった。自尊心マイナスの私が、子どもには自尊心をもたせたいとおもっている。やり方がさっぱりわからない。本を読みまくるが、よくわからない。どうしよう、どうしよう…。

次はカナダかな、JICAかなと、海外を見ていた私のベクトルを、コンクリに固めて無理やり「国内での子育て」に向かせないといけなくなった。


鬱、孤独育児、インナーチャイルドワークのさわり
妊娠後、即鬱。多分4~5年くらい。
本音が望む方向と、現状がずれている時、身体が動かなくなる
この時も、そうだったんだ。

子どもからしても、生まれる前から母親が鬱、生まれてから鬱深まっている状態だったから、ハードモードのスタートだよね。
子どもは今思うとHSCで、めちゃくちゃ敏感だったし、育てにくかったし、隣に人がいると眠れないし、私は死にそうになりながら子育てをしていた。

慣れない土地×核家族のワンオペ孤独育児×毒親育ち未整理=鬱が悪化した。
子どもが泣くと、私が幼少期に親にされたことがフラッシュバックする。それだけしんどい子ども時代だったってことだよな。親の中のインナーチャイルドがパニックになっていて、過去の記憶が安全に取り出せない状態で、子どもを健やかに育てるのは無理なんだよ。

ひとりで公団の4階に帰るのが嫌で、暗くなるまで乳幼児を連れて外にいた。泣きながらタクシーに乗って帰った時は、タクシーの運転手さんが心配していたのが伝わってきた。家で泣き叫ぶ子どもを抱っこしながら窓を見ていると、自分が飛び降りてしまうかもしれないという恐怖がわいてきた。もう自分でどうにもできないと思って、精神科に行きたいと夫に伝えた。

夫は彼の実家で過ごす段取りをつけ、私を精神科には行かせなかった。ここで精神科受診できていたら、どうだっただろう。薬漬けにされたか、話を聞いてもらって回復方向に向かえたか。

実家のご近所に住んでいる、聡明な台湾人の方が、見かねて私を助けようと手を差し伸べてくれた。彼女も毒親育ちで、フラッシュバックに翻弄されていた私の過去の傷の話を聞いてくれた。

私と似た気質をもつ、私と同じような経験をして、立派に通訳として自立されている大人の女性が私の話を聞いてくれたのは、私にとって救いだった。当時の自分にはとても無理だと思っていたが、私も彼女のように過去を乗り越えて、自活することができるかもと淡くでも思えるようなモデルだった。

彼女は心理やインナーチャイルド関係の専門家ではなかったから、もちろんすべて回復というわけにはいかなかったけれど。彼女の助けもあって、大学に復学し、近現代史、虐待、家庭内暴力などの知識をむさぼるように学び、「親が私のことを理解する日は来ない」ということを頭で理解することができた。

カウンセリングでトラウマ治療のEMDRを何度も受け、インナーチャイルドワークをやりきった今は、インナーチャイルドの癒しには、頭での理解と感情での理解の両方が必要だということがわかる。この時の私は、頭で理解すれば次に進めると思っていた。それ以降10年近く、思考では「自然な現象である」と理解する私と、感情では泣いているままの私、両方を抱えて生きることになった。

子育てをする中で、しんどかった過去の自分が何度もフラッシュバックしたので、ノートに当時の気持ちを書きなぐり、父に、母に、怒りの感情をぶつけまくった。これをやりつくさないと、私は前に進めないと思った。親はただ一生懸命生きて彼らなりの精一杯で子どもを育ててきたのだから、かわいそうだと思うが、受けた傷を与えた人に「私はそれが嫌だったんだ」と表明し続けることは、自分の人生を取り戻すために必要なことだった。

私は、夫と共に生きるより実家での生活を選んだ。ある時、ふと「私はまだ父と母とやり残したことがある。あなたとの生活は、まだ早い。」と思ったことがあった。私の中が未整理のぐっちゃぐちゃな状態で、そこにさらにカオスをもたらす夫を受け入れて共に生きることはできなかった。まずは、過去の自分を整理して、スペースをあけて、ちょっと順番待ちしてくれる?って感じだったんだけど、そんなこと当時の自分も言語化できなかったし、夫からすると、わけがわかんなかったと思う。

大学で学ぶことによって、夫との関係性の歪み、ボタンの掛け違えに気が付き、私が望むパートナーシップの在り方の解像度が上がり、夫と歩調が合わなくなっていった。「愛」だ、「運命」だと思い込むことで誤魔化していたものに直面せざるを得なくなった。夫は変化していく私を受け入れられず、私が大学の教授に洗脳されていると思っていたようだつた。私には、洗脳されているのは夫の方に見えた。夫は学校や社会がアナウンスする「幸せのかたち」を常識として内面化していて、私は学ぶことによって本来の自分の望みが明確になり、言葉にできるようになった。それだけのことなんだよね。

私は外側の肉の形状がおとなしく優しそう見えるのと、私自身が「この環境で生きていくには母と同じように自分の欲しいものを欲しいと言ってはいけない」、「母に愛されるためには自分を殺して相手に迎合しないといけない」という呪いにかかっていたので、都合の良い女性像を当てはめたい男たちが寄ってくることが多かった。

見た目と受動的な言動(実際は呪いによる言動の制限)から、相手は伝統的な女性像を私に見出すが、じっくり付き合ってみるとリベラルすぎるので、ギャップの激しい、非常にわかりにくい人間だったと思う。

母や友人に「見た目と中身が全然違うからわかりにくいんだよ」と言われたことがあるが、私自身、「自分にデフォルトで備わっているものは、他者も標準装備しているだろう。だって私は劣っているから。」と思い込んでいたり、他者から自分がどう映るとか、あまり考えてこなかったので、彼らが何を言っているのかよく理解できなかった。相手が自分と同じようなスペックをもっているはずだという前提で物事を進め、予期した結果にならない経験を何度も繰り返した。

夫には、私が失ったもの、コンクリで固めて沈めた本音はわからなかったんだろう。そういうのが感じられる人だったら、私そもそも妊娠してなかっただろうし。私は、毒親育ちに根深いコンプレックスがあったので、自分が子どもと共に生きる未来を思い描いたことはなかった。夫と遭遇していなければ、子をもたない人生だった可能性も高いし、子がいたからあの恐ろしいインナーチャイルドワークをやりきることができたと思ってる。だから、子に出会えたという光りを見つめると、夫のやらかしや存在も「それはそれで」と思う。

夫は、私の気持ちが離れつつあるのを察知したのか、「戸建ての家が欲しい、もう一人子どもがほしい」と言い出した。あー、なるほど、本能的に私が逃げられないような方向にもってこうとしてるな…

私は「早く帰ってきて」、「育休とって」、「また土日大会なの?」ってずっと言ってきたよね。妊娠してからずっと非常事態宣言下にいるんです。専業主婦になったら人生終わると思い込んでるんです。私は働いて生きていきたいんです。私も教員として働くと、子どもが自動的にネグレクトの環境に置かれることになるんです。私は子どもに安心感と自尊心をもたせたいんです。現状をありのまま見ないで、こんなにいろんなことがこぼれているのに、家のローン、もう一人新生児からの子育て、何言ってるの?自分に都合のよい私しか知ろうとしない。私を全く見ていないね。私はあなたを恋愛の対象としてはもう見れないけど、いろんなこと乗り越えてきた家族でしよう?私を見てください。

私のSOSはこの人には届かない。自分のやりたいことに私を利用するだけなんだ。彼は自分の望みを無邪気に表明して私を巻き込んでいく。私は、妊娠して子どもをもつというところまでは自分の責任として引き受けた。でもこれ以上は無理。私は引き受けられないし、引き受けない。

元々私の就職を機に法律婚を解消し、ペーパー離婚をして事実婚に切り替えるつもりだったが、法律婚はもとより事実婚も無理だった。彼と婚は続けられない。彼は私を脅かす。


調停、離婚、夫鬱「死にたい」
私たちは28歳で調停離婚し、彼は即鬱になった。
おめでとう!自分の本音のベクトルと周りの環境がずれて動けなくなる経験はしておいた方がいいよ。経験しないと他者の気持ちの近いところまで行くことってなかなかできないからね!

「死にたい」って私によく言っていたけど、結局それも、「自分がこんなに弱っているのはお前のせいだ、弱っている自分を受け入れてくれ、受け入れてくれないと死んじゃうぞー」という暴力だから。

夫が育ったのは、女性の低賃金で国内1,2位を争う男尊女卑思考が強い地域。末っ子として母親にたっぷりと愛されて育った。進学校の中高一貫校の私立に通い、部活では主将。大学は首都圏の国立にストレートで入り、在学中にヨーロッパに交換留学をするなど、なんというか親が喜ぶ王道のレールに乗って、世の中に疑問を抱く余地がなかったんじゃないのかな。

私の母は、専業主婦のしんどさをすべて私に垂れ流しにした。それはそれで暴力的でしんどかったけど、法律婚や日本の社会保障構造の歪みに気が付くきっかけにはなった。彼の母は、専業主婦として夫が飲んだくれだったり同僚を毎夜連れ帰ってきていたようだし、しんどさはあったはず。彼女は娘には言っていたかもしれないが、息子に悟られないようにしたっぽい。親が自分のしんどさをきれいに隠してしまうと、子どもが同じ轍を踏むよ。

ここは、高校で色んな偏差値帯の学校をめぐって感じるんだけど、学力困難校と言われる学校に通う子たちは、家庭で「え?なにこれ」というしんどい思いをしている子が多い印象がある。自分の生活の中で、引っ掛かりがある子は、社会構造の比較の話をすると、めちゃくちゃ食いついてくる。

一方で、中堅どころの偏差値帯の学校は、それまでの生活で虐げられたり煮え湯を飲んだりという経験をしている子が少ない印象がある。自分の生活経験の中で、引っ掛かりがないと、自分と社会とのつながりが希薄なまま、現状維持を望む傾向があると感じている。

上位の偏差値帯の学校は、教育虐待等でしんどい思いをしている子が一定数いるのと、社会への関心や理解力が高いこともあって、社会構造への関心は高い子が多い印象がある。

私は自分の子どもに、自分がしてきた苦しい思いをさせたくないって思って、先回りして排除しようとしてきちゃったけど、生活の中でのひっかかりをもつって、結構その子のその後の人生に大事なんじゃないかなって、今は思う。

調停では、子どもにかかる費用は国公立のお金のかからないコースで2000万~3000万と見積もって、夫からの養育費で計1000万、私が残りを負担するという形で調停証書を作成した。弁護士を依頼するお金もなかったので、子どもの権利を守らないとと、必死に調べた。

当時私のケースを担当した調停員たちは本当にくそったれで、「子どもの権利」という単語は知っているけど、実生活でどう具体的に保証していくのかは考えたこともない人達だった。そもそも、養育費算定表の額自体が、子どもの人権を守れる金額じゃない。そんなこと、ちょっと調べればわかることだが、彼らは知らないし知ろうとしない。そんな人たちがどの面下げて調停に出てんだ。


小学校と中学校へ教育実習
調停証書を作成し、離婚が成立し、離婚でバタバタして申し込みしていなかった教育実習へ。小学校は大学の附属小、中学校は母校で実習をした。

小学校の実習経験は、全私が拒否していた。附属で力のある40代くらいの男性教員だったんだけど、効率よくこなすための力でのコントロールがえげつなかった。朝練の集合に遅れて教室で着替えをしていた小学校1年生に対して、時間通り行動させるために、グラウンド側の窓から大声で怒鳴る。皆怒鳴られたくないから、次からは緊張して行動するようになる。何かにつけて力で、生徒をコントロールしていて、気持ち悪くなった。

「自分の子をこの先生に任せるのは絶対に嫌だ」「こうやって力でコントロールしなきゃいけない環境に入るのは嫌だ」「私は先生になれない」と私にすごい気づきを与えてくれる先生だった。

子どもを育てていくには、教員になるのが有力候補。ただ、力でコントロールしなきゃいけないなら、そんな教育絶対にやりたくない。
と困っていたら、大学の体育の授業でプロジェクトアドベンチャーに出会った。

プロジェクトアドベンチャ―は、アメリカの高校の先生が開発した、遊びを通して心の壁を下げ、気が付いたら安心安全なチームが出来上がっているというチームビルディングのプログラムで、日本ではサッカーのオシムジャパンや刑務所等で取り入れられている。大人の合コンみたいな感じで、相手の人間性とか見えるし、面白い。

このメソッドを学校で使えば、生徒に無駄な圧力をかけずに済むし、人権侵害しなくて済む。そして、生徒には自然と居場所ができるし学びあいも勝手に発生するようになる。学校で働けるための武器を磨くために、ちょくちょく勉強会に遠征するようになった。

子どもの運動会と5日間のPA合宿の日程がかぶったことがあって、その時私は合宿を選んだ。なんでだろう。この時は、学校で働けないとこの子を食べさせていけないからと、学校で働ける自信をもつためPAメソッド修得が当時の私には大事で、PA合宿を選んだんだ。なんか、教員になりたくないけどならないと子どもに選択肢を与えられないって必死過ぎて、当時の自分がかわいそうに思えてきた。

人生で何が起こるかは自分では選べないことも多い。20年間弱は長かったな。

中学校の教育実習は、特に滞りなく。


哲学のゼミ
哲学者の下で貪欲に学んだ。教授はカリスマ性のあるアスペルガー傾向の強い方で、一緒にいると意思の疎通が難しく結果的にハラスメント状態になっていることも多々あったが、彼のおかげで人は偏見まみれだということが体感できた。どれだけ研究しても、突き止められるのは本当に一部の切り取りだけ。

生徒の「常識」をぼっこぼこにぶっ壊す、彼の講義がとても好きだった。私も、そうありたいけど、彼は脳みそ2つ搭載、私は1つ、彼のような社会科の先生にはなれないと、勝手に挫折していた。

社会科の先生になるコースにいたが、迷いだして、養護教諭の免許をとろうかふらふらしたり、家庭科をとろうか迷いだしたり。

結局、国連帰りの家庭科の先生の授業が、生徒の常識を見つめなおす仕組みがあり、そこが面白くて家庭科の先生になることを決めた。

家庭科の道に進むときは、「これだ」という確信のようなものがあったが、私は、今また迷っている。まだ、次の「これだ」というものが定まっていない。今やりたいことは、どの職業に就くとかではなく、海外で、見たいものを見に行きたい。とにかく生活がしたい。というもの。


児童養護施設と児童家庭支援センターで相談員

教育には興味がある、子どもを育てるには教員の給料がほしい、教員のブラックな環境に参入したくない、思考停止した教員言葉が通じないから近寄りたくない、別の仕事を経験している先生の方が私は好き、教育やるならまず日本のピラミッドの底辺を経験したい、自分の子どもが体が弱くいきなりフルタイムの仕事は無理

という色々な考えから、児童相談所の下部機関の児童家庭支援センターで、育児・虐待・家庭の電話相談を受ける仕事に就いた。

相談員の仕事はめちゃくちゃ向いていた。上司は元児童相談所長で、いろんなことを教えてくれた。日本の福祉の限界を見続ける仕事だった。

常勤にならないかと声をかけていただいて、ちょっと迷って教育に行くことにした。

福祉の限界はわかった。教育はまだ可能性がある。子どもの学費もあるし、教育は若いうちじゃないと多分適応できない。そろそろ教育に行くか。
という気持ちだった。



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